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コーチングについて思うこと

考え方や捉え方を変える、という考えが正直あまり好きではない。今のままの状態が辛いおで、結果的に変わっていくことがその人に役に立つことはああっても、考えを変えることを目的にすることの、人生における費用対効果はいかほどだろうかと考えてしまう。

先日、日本のある心理学者が、昔、ストレスコーピングといえば、問題解決型のコーピングが重要視されてきた(情況を変えたり、話し合って解決を図ったりといったストレッサーを緩和・解消するやり方)が、今やこの国では、情況は変えられないのだから、考え方や感じ方を何とかすることで問題解決を図ろうとする、情動焦点型コーピングが志向されるようになっていて、やれ考え方を変えろ、感情のコントロールをしろと言われるようになったが、果たしてそれは有効なのだろうかということだった。ストレスが減らせたとしても、問題はそのままなので、問題解決には至らないというのが情動焦点型コーピングの問題で、かつての研究では、あくまでもその場の代替手段という位置づけであったように記憶している。葛藤を回避するための、ひとつの防衛手段と言ってもいい。それは何ら問題はない。防衛をバランスよく使えるのは健康な人間の証だし、防衛は生きるのに必要なものだ。

ただ、それ一辺倒になっていいものだろうか?

近頃、コーチングについて耳にすることが多くなったなと思うことが増えた。それも、健康でキャリアに悩んでいる人ばかりではなく、うつ症状などで苦しんでいる方やその家族などからだ。コーチングで、人生の目的をよりクリアにして行くというのは、自己実現には有用なものだろう。だからこそ、と、うつ状態の人にコーチングを勧めたくなる気持ちや、前向きな考えをしたくてコーチングを志向したくなる気持ちはわかるけれども、アクセル踏んで不安を吹き飛ばすようなもので消耗だけが残るように思う。必要があるからブレーキがかかっているのだから、自分をいたわるモードにシフトしたほうがいい。コーチングは、ちょっと元気なときに効果を発揮するものだと思う。やるにしても、今それをやる元気があるのか、弱っているかの鑑別は必要だろう。

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