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最高権力者を選べないというか、そもそもそんな人は日本には存在しない

民主主義における選挙というのは、優れた人、有能な人、ポジションに適した人を選ぶための手段ではありません。選ばれた人がそういった資質を持っているかどうかは、選ぶ前には誰にも分からないのです。

前任者・現職にいる人なら判断出来るという人もいるかも知れませんが、大半の選挙は現職一人に対する信任投票ではなく、多数から一人を選ぶルールで行われます。その場合、現職以外の人が、現職よりももっと優れている可能性は排除できません。

選挙によって良い結果が生まれるとも限らないというのは、何度か投票の経験があれば誰にだって自覚できるでしょう。

各人がそれぞれ、色んな政治家を思い浮かべることができるでしょうけれど、そもそも立候補者という限られた選択肢の中で、あらゆる政治上の問題に的確に対応出来る人間なんているわけがありません。有権者が行うのはいつも究極の選択です。

たくさん並んでいる、ウ○コ味のカレーとカレー味のウ○コの中から一番マシか、こいつでダメだったらしょうがないかと思う人に投票するしかありません。もちろん、中にはウ○コ味のウ○コだっているわけですが。

選挙は、もっとも優れた人を選ぶのではなく、あくまで、選んだ事実に関して責任を出来るだけ広く共有するための手段です。

人が人を選ぶというのは難しいものです。選んだ後に成功するかどうかは実際にやってみないと分かりません。もちろん、資質ある人を選ぼうとするのは当然ですが、選ばれた人が上手くやるか失敗するかについての責任は、選ばれた人以外には選んだ人にしか存在しません。責任があるから、出来るだけ上手くやれそうな人を考えて選ぶのです。

みんなで責任を持って実行者を選びましょうというのが民主的選挙ですが、民主主義的選挙がない場合は、実行者を選ぶのは権力・財力・軍事力を持っている人です。

独裁国家であれば独裁者に全てを決める権限があります。だからこそ、国家が上手く行かなくなったときに独裁者が糾弾されて良くて追放悪くて銃殺されることになります。

お前はこっち、お前はあっち、とトップが顎で指図して決めていく国はいくつか存在していますが、少なくとも日本はそうではなさそうです。民主的選挙が存在していることもその一つの理由ですが、そもそも日本では最高権力者がはっきりしていません。

最高の「権威」としては、天皇が憲法上でも地位が保証され、首相・国会・外交などで権威的な象徴として存在しています。

一方で、権力の方は日本の完全無欠のトップは誰かとはっきり言える人はいないでしょう。総理大臣は行政上のトップであり、議会制民主主義ですので国会に対しても大きな権力を握っていますし、三権分立の中で行政が司法に対しても牽制する(その逆ももちろんあります)ことも出来ますが、総理大臣が最高権力者だとすんなりは受け入れることは出来ないでしょう。

戦後の大半の時期で、自民党総裁が首相であったので、自民党内で総裁選を勝った人が権力者とは言えますが、その総裁選だってかつてのキングメーカー、田中角栄や竹下登の影響が大きかったことは誰だって知っています。

憲法上は主権在民であって、国民・有権者が国会議員を選ぶことで主権を握っているということになります。これも先の選挙の理屈よろしく、国民全体で権力を薄く広く分け合っているわけで、個人として最高権力者が存在しているわけではありません。

がっつり決まった純然たる意思決定者・最高権力者が存在しないのは日本の伝統かも知れません。

かつて戦前・戦中において最高権力者は誰かと問われると、おそらくは昭和天皇なのでしょうけれど、じゃあその昭和天皇が国家の全てを掌握していたかというとそうでもありません。

満州某重大事件の対応を巡り、時の田中義一首相の弁解に対して叱責して内閣総辞職を招いた後は、明治天皇以来の立憲君主として政治的関与は慎重になりました。それによって戦争責任を究極的には回避できたわけですが、その代わりと言っては何ですが、東京裁判においてA級戦犯が戦争の責任を取らされました。

ではそれらA級戦犯らが最高権力者だったのかというとそれも難しい話です。開戦時における東條英機について権力はもちろんありましたが、東條に限らず戦前のデモクラシー崩壊後の首相選出は重臣会議の奏薦で決められていました。

結局、誰か一人が権力を一手に握る状態は日本では普通ではありません。かつて一度も無かったわけではありませんが、それが当たり前とは言えません。結局、複数人で密室でトップを選ぶか、選挙を通じて薄く広く責任を分け合う(実質誰も責任を取らない)形かの二択でした。

人が人を選ぶというのは難しいものです。選んだ後の結果責任は選ばれた人だけが背負うのはアンフェアでしょう。選んだ人にも責任は及びます。

だからこそ、選挙で選ばれる政治家は国民の民度を表すのであり、密室で選ばれた限定的な権力者は会議参加者の資質を超えることはありません。

最高権力者を選ぶ伝統以前に、最高権力者自体が存在しない伝統がある国である以上、トップに求められる資質は実行力よりは調整力になるのは当然でしょうね。

調整型の首相はこれまで幾人もいましたし、それこそ五輪組織委員長だって調整力が必要だからこの人でないとダメだ、という論理が出てくるのも日本ならではなのかも知れません。

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