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昔と今の細眉・ハイヒール・kutoo

世に出回っている様々な「三国志」の物語において、まずほとんどで黄巾の乱が描かれていますが、その混乱よりも前から、後漢王朝は不安な政情が続いていました。皇帝の威光をしのぐほどの権力者がたびたび現れ、その権力者を打倒したものがまた新たな強大な権力者として君臨するということが続きました。

その中でも有名なのが梁冀という人物です。梁冀が二世紀中頃に皇帝の外戚の子として権力を掌握すると、思いのままに贅沢・暴虐を尽くし、それを嫌ったまだ幼い皇帝が「これは跋扈将軍だ」と言ったところ、幼くても言うことを聞かないのであれば不要とばかりに、その皇帝を毒殺したほどの悪人でした。

最終的には次の皇帝の代になり、太后や皇后などでの血縁者がいなくなると、皇帝と宦官が謀り権力を奪われて一族もろとも自害もしくは処刑されました。

後漢王朝の問題は、そもそもの王朝の支配力を分配していた豪族から生まれた外戚と、皇帝が外戚に対抗するために起用した宦官との権力闘争が激しすぎたことでしたが、この梁冀・梁一族が族滅されても後漢王朝は安定せず、黄巾の乱から始まる大動乱から終わりを迎えます。

さて、その後漢王朝の悪い意味での代表的な権力者だった梁冀ですが、実は彼の妻も当時に権力を振るっていた珍しい存在でした。孫寿といいますが、夫の梁冀と競い合って道の向かい側に大邸宅を建てたという現代人にはよく分からないエピソードもあります。独裁者の妻が独裁者と争って平気だったというのが訳が分からないですが、精神的に夫を抑えきっていたのか、個人的に莫大な財産を持っていたのかも知れません。

それはともかく、この孫寿が当時は単なる悪人というだけではなく、ファッションリーダー的な存在でもあったそうで、ウィキペディアによると、

「齲歯笑」(虫歯の痛みに耐えながらの笑み)
「愁眉」(愁いを込めた書き眉)
「啼粧」(泣きはらした様な目元)
「堕馬髻」(左右非対称の髪型)
「折腰歩」(腰を折ったような歩き)

といったメイク・ヘアメイク・ウォーキングを考案したそうです。

なんか今でもありそうなファッションですが、こういったファッションが不吉なものと考える人もいて、その後の一族の没落はファッションから予見されていた、ということだったそうです。

さて、時代は下がって80年代後半〜90年代初めのバブル景気の頃は、女性の眉毛ははっきり太くしていたように思います。その後の長期間の景気低迷の時代はまた細い眉毛が結構長く流行していました。剃ったり抜いたりして細く描くのが普通でしたね。ただ、最近はまた太い眉毛のメイクが復活してきたようです。

また、上述の「折腰歩」については、歩き方が特徴的で靴にも工夫があったとされています。現代でいえば厚底ブーツやハイヒールのようなものでしょうか。そういえば厚底ブーツも不況の時代に流行っていました。ハイヒールについては、今まさにkutoo運動によって減っていきそうです。女性自身がファッションとして望んで履くのはいいですが、会社から強制されるのは確かにダメでしょう。

別にそういうファッションが好景気や不況をもたらすとはいいませんが、ある程度は象徴的に変化していくものなのでしょうね。

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