見出し画像

「人は城」は戦術レベルの話であって、天下を取ったのは戦略で上回った織豊政権

武田信玄の
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
という言葉があります。

人材こそが大事であり、大仰な城や堀などといった物質ではなく、人の心が一番大事だよ、と後世の歴史好きや経営者とかに人気の格言です。

本当にそんなこと言ったのかどうか、結構怪しい気もしますが、ともかく言っていたとしても、武田家が最後の最後には近臣にも親族にも裏切られて滅亡してしまったのはエグい皮肉になっています。

第一、武田信玄が活躍していた頃はたいていの戦国大名も巨大な城で防御していたわけではありません。北条家の小田原城とか、能登畠山氏の七尾城、尼子氏の月山富田城なんかはむしろ例外です。

信玄の時代やその後の勝頼の時代のほとんどで、甲斐を他国から攻められること自体が無く、軍事行動のほとんどは侵攻作戦でした。守りに必要なのが城なのか人なのか。実際に織田政権から攻められると、木曽・小山田・穴山などの重臣が切り崩されて一気に瓦解してしまいました。

そもそも城にしろ堀にしろ石垣にしろ、兵士イコール人を死なさないためのものです。武田軍団の鉄の結束とか言われますが、信玄亡き後の結束の難しさを考えると、軍事力で維持される組織・領国の持続性には難があります。

結果的に天下を取った織田・豊臣の織豊政権は、畿内プラスその周辺国という豊かな地域に立脚していたという有利な点がありましたが、兵農分離や楽市楽座など、人を領内に集めることをしていた織田家・豊臣家が天下を取ったのは必然かも知れません。

まあ、兵農分離も楽市楽座もそれほど進んでなかったという研究もあるので、それが天下取りの決定力につながったのかどうかは分かりませんが、単なる搾取一本槍ではなかったのでしょう。

長篠合戦の詳細についてはまだまだ研究途上で、俗に言われるような
「織田軍が築いた馬防柵に武田軍の騎馬隊が手こずっている間に、織田軍鉄砲隊の三段撃ちによって勝敗が決した」
という戦の概要はかなり怪しいらしいですが、数と金で勝つことを目指すのは負けない戦としての方法としては正しいと思います。乾坤一擲とか一か八かとか運を天に任せるような戦なんてするものではありません。

ちなみに、信玄没後の勝頼の奮闘と滅亡まで史料を豊富に参照しながら書かれた本としては、

武田氏滅亡
https://www.kadokawa.co.jp/product/321601000712/

こちらが個人的にオススメです。

甲斐が比較的貧しい国であり、その軍事力を維持し続けるには隣国の信濃に進出して、信濃から上がる富を利用するしかなかったのが戦国大名武田家でした。早い時期に南の駿河か東隣の武蔵に進出出来ていれば、また展開は違ったかも知れませんが、駿河も武蔵も甲相駿三国同盟の相手である今川家・北条家の領域です。手出しところか今川・北条と争い続けていたら信濃や西上野どころか甲斐の統一や維持もままならなかったかも知れません。

ちなみにその今川家も、武田家より先に滅びました。桶狭間の戦いで当主義元が討ち取られた後、後を継いだ氏真が無能の代表格のような言われ方をしていますが、結果的には十数年経って滅びました。本当に無能ならもっと早く滅んでいそうな気がしますが、西の徳川、北の武田家から挟み撃ちで領土を侵食されていっての滅亡ですので、誰が当主でも厳しかったように思えます。

そして甲相駿三国同盟の残りの北条家も、織田信長存命中は遠さもありましたが、豊臣政権になってから、有名な小田原評定の末に秀吉に滅ぼされました。武田信玄とは真逆のような、巨大な小田原城に籠城した挙げ句に、巨大な豊臣政権の膨大な軍事力に囲まれた絶望的な最期でした。

結局のところ、城があろうとなかろうと滅ぶときには滅ぶものです。元も子もない話ですが。

あくまで城の存在や騎馬隊とか馬防柵とかなどはあくまで戦術レベルの話であって、その上の戦略級の政治体制・経済力などの方が結果的に大きな影響をもたらします。

一国、二国を取るなら戦術レベルで差がつきますが、天下を取るには戦略レベルで差をつける必要があったということになるでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?