自己防衛本能としての自己正当化の魔力

事故や事件、あるいは不祥事などが発生したとき、当の本人、加害者は当然ながら非難されます。

そしてその加害者側が、大人しく反省しているのではなく、むしろ逆ギレして自分は悪くないとか社会が悪いとか相手にも責任があるとか、責任転嫁をしたり自己正当化したりして、さらに世間から反発されることは良くあります。

おそらく、誰もがいくらでもそのようなケースを思い浮かべられるでしょう。少し前にも、知床の観光船沈没事故で当の社長が国にも責任があり、これは見せしめだとなぜか主張していましたが、あれも自己正当化と言えるでしょう。

よく見かける事例ですが別に擁護するつもりはありません。

ですが、とてつもない事態を起こした人は、自己弁護、自己正当化による自己防衛を行わないと、生きていけないのかも知れません。懺悔と恥辱に苛まれながら、反省と後悔だけの残りの人生を続けていける人はそんなに多くはいないでしょう。

「とんでもないこと、悪いことをしたけれど、それは自分にとっても本意ではないし、自分だけが悪いわけではない。むしろ自分はもっと大きな巨悪の被害者だ」

という陰謀論めいた自己弁護は、もしかすると自己嫌悪が行き過ぎて精神が破壊されないようにする心のリミッターが自動的に発動した結果とも思えます。

だからと言ってそんな主張が認められるわけでもないのですが、他人が理解してくれなくても、自分の脳内だけで自己弁護が成立すれば自分の精神は守られます。

自己防衛のためだけに自己正当化をしているのであれば、被害者とその周辺を除く世間に対しては、不届きな奴だなという不快感を与える程度の影響で済みます。

しかし、恐ろしいことに、自己正当化によって本当に自分には責任が無いと考えるようになり、そして責任転嫁を被害者側にも二次被害というか、さらに酷い影響を与えてしまいます。

そうなると、厄介どころではないですが、自己弁護から自己正当化に入り、自己の存在意義にまで発展しているような人って結構見かけるような気がします。

マスメディアやYouTube、SNSなんかで過激な発言で認知されたら、その過激さを理由に非難されたり拒絶されたりしても穏当な感じにはならず、もっと過激になっていった人とかいますよね。

ヒトという生き物は社会性を持つ動物ですので、社会との関わり合いを途絶されたり、社会から攻撃されたりすると、もっと過激化していくことで社会との関わりを持とうとするんでしょう。それが妥当なものかどうかは全く別問題ですが。

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