見出し画像

所感

前にも書いたことがあったけれど、私にとって、大学はとても安全な場所だと感じている。いちいち挙動を笑われたりしないし、「変な子」といじられることもない。別に、そうされるのが不快でたまらないという訳でもなく、むしろ「おいしい」と思ってきたところがあるのだが、自分自身が「変な子だけど絵が描ける」みたいなフィルターでしか見られないのは、正直寂しいことだと思う。

大学に入ってから、以前の心の傷を強く自覚するようになり、怒りで眠れなくなったり、逆に悔しさで涙が止まらなかったり、夜中に部屋の中を歩きながらひたすら考え事をするようになった。やっと自分を認めてもらえる場所に来たのに、なぜ苦しんでいるんだろう、とずっと疑問に思っていた。

最近になって、「心の傷を思い出せるくらい、そのときと逆の状況にいるからではないか」と指摘され、やっと理由が飲み込めた。今まで、私はどちらかといえば、自分の痛みに対して鈍いところがあるのではないか、と思っていた。自分の心の傷に気づくのに、何年もかかることも珍しくない。けれど、おそらく、逆だったのだと思う。痛みに敏感すぎる故に、痛くないふりをしていた。忘れようともがいていた。

美術とは切り離された、生まれながらの自分の心が、美術大学という場所で救われるというのは、なんだか不思議な気がする。もちろん、この思いがまだ完全に昇華されたとは言えない。大学を卒業した後、少なくとも二十代のうちの数年間は課題として残るのだろう。そう考えてみても、今までに比べれば、痛みを自覚できただけよかったのだと思う。

まあ、私の家族でさえ「あんたは不透明で何考えてるかよくわからん」と言うので、私という人間は、外からはなかなか人間性を把握しにくいのだろう。でもやっぱり、私の表面上のキャラクターを消費されればされるほど、人との距離が遠ざかっていく気がするのだ。ときたま、自分の内面を頑張って見てくれる人がいたりして、ついつい甘えてしまう。だけど、多くの人は、私の表面だけなぞったまま、もう二度と会わない。

大体、私も、自分自身のことがよくわからない。思考回路は大体めちゃくちゃだし、自分でも自分のことをうまく説明できない。自分の言動に、いつも振り回されている。とりあえず今やるべきなのは、自分の内面を理解してくれようとしている人を、大事にすることなんだと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?