私が二次創作小説を書く理由。
何しても怒られると思ってるし
世の悪いことは自分のせいだと思ってる
これがとんでもなく損な生き方であって
とんでもなく、面白くない生き方って知ってて
だから私は、私の好きなことを文章に書き起こすし
たくさんコメントをいただくことで
精神安定してる。
愛着障害というものを、生きてる人間の大体の人は抱えていて。
きっと私も抱えていて。
それでまぁ、多分、その昔、鬱にもなってて。今だってなりやすくて。
でもなんだろな、死にたくはなくって。
どうにかこうにか生きていたいから、お金ギリギリで死にそうになっても生きてきたわけで。
死にそうにもなったし、死にたくもなったし、死のうともしたんだけど。
でもやっぱ、生きてたいのか、死にたくないのか。
どうにか26歳を迎えたわけで。
そんな私っていうのは、どうにも、自己肯定感が低くって。
自分がやることに自信を持てないから、踏み切れないのよね。
怒られるかもしれない。
間違ってるかもしれない。
怒鳴られるかもしれない。
ひょっとしたらもう誰かやってるかも。
いろいろ考えて、結局何もできなくて、時間ばかり過ぎていく。
こういう考えってドツボにハマっちゃって、そうやって鬱になるのよ。
世界の悪いことは全部自分のせいだ!!
ってね。
これは本当に大げさでもなんでもなくて、自分の身に近ければ近いほど強く思うし、知らない誰かが飢えで死んだって聞いたら、訳もわからんくせに自分のせいだって思っちゃうのよ。私はね。
でもそんなことないのよ。二酸化炭素は共有してるとはいえね。
私がどんなに美味しいものを食べたって、
どんなに痛い思いしたって
その人にはわからないように、わたしにもわからないの。
当たり前のことなのに、全部自分のせいにしてどうにかする。
それは鬱の一種だと思う。
一番ひどい鬱だったとき。(私はお医者さんから鬱だって言われたことは一度もないけれど、看護師の母親に、私が大人になって言われたわ。「あれは鬱だった」ってね)私は、外食に行きたくなかった。まだ中学生で、田舎にいて、すぐに噂になるような地域な訳で。だからこそ、どこで誰が見ているかわからない場所で、”おいしいもの”なんて食べたくなかったので。
ずる休みして美味しいものなんか食べたくなかったの。
母親は気分転換、って思ったんでしょうけどね。
私には逆効果だった。
家に何度も連れ出そうと先生が来てたけれど、それも私は本当に嫌だった。
「あなたのお母さんが入れるお抹茶とおかしがおいしくて!」
私はお菓子に負けたのかって。
先生のサボりの理由にされていたことが本当に傷になった。
「あんたが休むせいで私は……」
そう責め立ててきた先生もいた。クラス担任だった。
それでも私はどうしてもクラスには行きたくなかった。
最初に言うが、いじめはなかったと思う。
影で言われることはあれど、私はとことん運動が苦手だったから、運動部しかない上に部活動に入ることが絶対だったのがダメだったのかもしれない。
優しい先輩はいたけれど、私はどうしても嫌だった。
いまだに何がそんなに嫌だったかわからない。
ただ今でも、あの幸せそうな空気漂う親族の中に入っていけない。
特別でいたかったのかもしれない。
褒められたかったのかもしれない。
誰よりも愛されたかったのかもしれない。
一人でいたくなかったのかもしれない。
誰かにそばにいて欲しかったのかもしれない。
そんなことがわかるようになったのは、創作のおかげだ。
ほとんどが二次創作。描きたいものだけを書いてきた。
続けてきて3年。書くことだけなら小学生の高学年からやっていたのだが、愛着障害を意識して始めたと言うのは、もうじき3年だ。
夢主という分身がいる。私は夢子と呼ぶことが多い。
これがまた可愛い。
私の血肉をわけ、骨をわけ、そうして作り上げて、名前をつけて。
腹を痛めてはないが、我が子同然である。
そんな子は、やっぱり私に似ているのだ。
リアルの世界でこんなことしない。
こんなこと言わない。
こんな反応しない。
でも、そうだったらいいなと思う。
私は創作の中で自身を慰めているのだと思う。
これにはいくつかある。
夢子自身に自分を重ね、他キャラ(推し等)に優しくしてもらう。
夢子を可愛がること。
夢子にストレス発散させる。
そうすることでスッキリするのだ。
そうして、読者様に夢子を褒められることで、私の一部を褒められたようで、認められたようで、とても嬉しくなるのだ。
彼女らは、間違いなく私の一部だから。
作品上で、よく泣く。
作品上で、よく闇を抱えてる。
作品上で、愛を求めている。
作品上で、誰かに手を差し伸べてもらっている。
きっと、そう言うのを求めているんだと思う。
求めているんだな、と納得できた時、私はとても心が軽くなった。
誰とでも仲良くしなくていいと言われた。
友達がいなければいけないわけじゃない。
恋人がいなきゃいけないわけでもない。
嫌いな人は、嫌いな人として遠ざけていい。
嫌いなものは嫌いと言っていい。
何でもかんでも合わせなくていい。
好きなものは好きと言っていい。
辛い時は辛いって言っていい。
幸せな時は幸せだと、言っていいんだと。
それがなんだか不思議なくらい、私は初めて知ったような気がした。
初めて正しく理解したんだと思う。
いくら幸せな家庭で育って、
どんな家庭よりも愛されてきたと思っていても、だ。
私はそれを正しく受け取れてなかったんだな、と。
いろんな家庭を見て、うちは恵まれているのだ、と。
私は愛されているのだ、と。
どんなに思っても、何かが埋まらなかった。
なんなんだろうと、思ってきた。
ただ、私が理解できていなかったんだな、と。
だから優しさが苦しかったし、嫌いなんだと思う。
ひねくれている、というんだと思うけれど。
人からプレゼントをもらうのが苦手なのは、私がお返しをできないからだ。
誕生日がこんなにも苦手とは知らなかった。
ただ、友人に祝ってもらった時、こんな嬉しいものとも知らなかった。
本当に知らなかったのだ。
26手前から一人暮らしをして、職場でできた友人たちには感謝しかない。
友人たちのおかげで、私のただの二次創作が本になることになったのだから。
働きながら本を出すのは大変だった。
それでも出して良かったと思った。
読んでいただいていた読者様に、たくさん褒めていただけた。
コメントもたくさんいただいた。
2回目のイベント参加では、面と向かって話しかけてくださる方もいた。
私も緊張したが、相手はもっと緊張しただろう。
私は本当に嬉しかった。
本当に生きてて良かったな、と思えるのだ。
周りからすれば、些細なことかもしれない。
たった一言のありがとう、も。
読みました、でも。
私の一部が認められているようで嬉しいのだ。
私自身を褒められているようで嬉しいのだ。
そうやって、私は私の機嫌を取れるようになった。
コメントがつくように、や、いいねがつくように、なんて考えれる脳みそは私にはありません。
ぶっちゃけ、数打ちゃ当たる、です。
その上、書いてる7割は、1週間後自分が読むためと、自分の中にある感情を吐き出すためだったりします。。。
こんなに赤裸々に書いていいもんだろうか、、、
どうか嫌わないでください()
それでも、やっぱり好きだと言ってくれる人かいることに、まだ信じられない反面、とても嬉しいです。
友人からは「素直に受け入れなさい」と言われました。
今は素直に受け入れ、素直に喜べるように、落ち込んだ日はお守りのように読者様の感想を読み直して頑張って生きているのです。
愛着障害を治す方法ではないですが、私のように、創作小説を書いたり、他には絵を書いたり、物を作ったりすることはいいことみたいです。
内側にある何かを形にする、と言うことが自分自身に気づき、止まっていた成長を促すことができる何かになるのかもしれません。
私は、そう言う本を読んでにわか知識だけですので、詳しく知りたい方は、愛着障害、で一度検索や本を探してみてください。
漫画のものも出ていて、とても読みやすかったです。
幸せなご飯代の一部になります。