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映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を観て

ちょうど昨年末から三島文学を読んできたところで、一週間ほど前にこの映画の新聞広告を目にしてとても気になっていました。「圧倒的熱量を、体感。」「伝説の討論会」といったコピーにも惹かれ、また何らかの強烈な刺激が欲しい気分だったので、公開日の昨日3月20日に思い切って一人で観に行ってみました。

舞台は学生運動が激しく続いている1969年。東大安田講堂の占拠と陥落の後。左翼・革新派の全共闘の学生たちが、右翼・保守派の代表的存在である三島由紀夫に討論会の挑戦状を叩きつけ、三島がそれに応じて血の気の多い学生1,000人の集う駒場キャンパスの教室に臨むというもの。討論会がいつ暴力にとって代わられてもおかしくない状況の中で、三島は何を語り、学生たちはどう受け取ったのか。非常に興味をそそられるシチュエーションです。気になる方はぜひご覧になってください。TOHOシネマズ系の映画館(限定的ですが)で上映されています。
映画公式サイトはこちらより。

鑑賞して印象的だったのは、思想や信条はことごとく対極にある三島と全共闘の学生たちが、自己や他者や事物の「存在」を巡る抽象的・哲学的対話を通じて、理解し合えないまでも、互いにある種のリスペクトを認めていく様子です。僕にはよく分からない対話が続く中で、互いの思想は異なれど、思想を持ち、かつ行動せねばならないという切迫感、そしてその源泉となっている戦後日本のある雰囲気に対する憤りは共通していたのだと感じます。

三島が討論会の最後に残した「あなた方の思想には同意しないが、あなた方の熱情だけは認めます」というメッセージ。僕はここにある種の羨望を感じました。言い換えれば、それほどの熱情あるいは狂気に対する憧れと、残念ながらそれらを持ち合わせていない凡庸な自分自身への失望を感じてしまいます。

しかしながら熱量や狂気が充満した社会というのは、やはり異常なものでしょう。普通の精神状態を超えるわけで、学生運動があった当時は、国の雰囲気に対する鬱屈した不満があり、冷戦の構造化でのベトナム戦争(熱戦)とう社会背景があり、「正義」を突きつけた闘争から逃れがたい状況があったのだと思います。社会に構造的に潜む顔の見えない敵の存在と、自分や周囲を襲いかねない危険の存在を感じていた、だからこそ闘争心が沸き起こり、運動や創造や破壊といった強いエネルギーを要する活動が生まれてきたのでしょう。
そんな自分を突き動かす活力に対して憧れを感じる一方で、その裏には社会的な不安、対立、暴力を前提としていたのなら、むしろそれほどの活力が生まれて来ずとも凡庸に生きていられる現代社会は、人類が歴史を通して望み続けたものだったのかもしれません。

学生運動の最中にいた人たちは、それが終わった後に何を感じていたのか。おそらく、空虚さ、虚無を感じていたのではないでしょうか。運動とはある種の祭りであり、その高揚感の中で人々は突き動かされていた。そして祭りの後は、その人の脳裏には余韻が残りながら外はすっかり静まり返り、もう帰ってくることはない。次はどこに目的を見出して生きていけば良いのか、指針を一切見失い、ただ空虚の中に取り残されたのではないかと想像します。

僕は自分の凡庸さと熱情の不足に失望しながら、また何となく平和な世の中に物足りなさとささやかな憤りを感じながら、逆説的にこのような高揚感のない状態に感謝をするべきなのかもしれません。そして、平凡な幸せを守り、より広げていくために、自分の仕事に向かうほかないのでしょう。

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