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コモンズ思考をマッピングする 序章

研究室で輪読を行なっている『コモンズ思考をマッピングする ——ポスト資本主義的ガバナンスへ』の序章について、全体のサマリ、ゼミでの議論内容、読んだ感想をまとめていきたいと思います。(文責 M2 明石)

サマリー

序章は、「コモンズ」というものがどのような背景のもとに「再発見」されてきたのかについて紹介したうえで、「コモンズ」をめぐる議論や運動を概観し、本書で描かれるいくつかの到達点を示すという、本書全体の見取り図になっています。

デービッド・ボリアーが“The Wealth of the Commons——A World beyond Market and state”で紹介しているように、近年、社会を構想するキーワードとして様々な分野でコモンズが再発見されており、様々なオルタナティブな探求が「コモンズ思考」に合流しているといいます。

そして、これらの「コモンズ思考」は、異なる分野から現れているものの、共通の方向性があると述べられております。

 一つには、「コモンズ思考」は、近代的な所有権の思想に対する批判をふくみ、資源の所有の視点より資源の使用、管理の視点を重視する仕組みづくりをめざしているということがある。
 もう一つは、「コモンズ思考」は、資源を管理する仕組みの一環として、コミュニティの自治能力を高めていくことをめざすという点が特徴的だ。

『コモンズ思考をマッピングする ——ポスト資本主義的ガバナンスへ』(p10)

このようなコモンズへの関心の高まりは日本でも見られ、話題となった本にも「コモンズ思考」を強調するものが目立つようになっていると述べられます。
コモンズへの着目が見られる著作として、マルクスの新解釈に基づいて「脱成長コミュニズム」を提唱する斎藤幸平の『人新世の「資本論」』や、自然環境・社会的インフラストラクチャー・制度資本からなる「社会的共通資本」を市場経済原理に委ねずにどのように管理・運営すべきかを論じた宇沢弘文の『社会的共通資本』などがあげられています。
そのほかにも、J・リフキンの『限界費用ゼロ社会』やネグリ/ハートの『コモンウェルス——〈帝国〉を超える革命論』などがあげられます。

一方、E・オストロムの『Governing the Commons——The Evolution of Institution for Collective Action』やD・ボリアーの『Think Like a Commoner——A Short Introduction to the Life of the Commons』など、「コモンズ思考」の原点とも言える文献は未だ邦訳されていないといいます。

E・オストロムは、コモンズを巡ってよく参照されるG・ハーディンの「コモンズの悲劇」を理論的・実証的に批判しており、この業績によって2009年にノーベル経済学賞を授与されています。
「コモンズの悲劇」とは、資源利用者の相互不信から共用資源の適切な管理がなされず、乱獲によって資源の枯渇を招くという法則ですが、これに対し、オストロムは利用者同士が信頼関係を築き討議を通じてルールを作ることで、共用資源の持続的な管理が可能であるということを、多様な実例によって明らかにしました。
そして、持続的な管理を可能にする条件として、利用者コミュニティの自治(self governance)能力」が最も重要であると彼女は説いたのです。このように、「コモンズ」の概念は「コミュニティ」の概念と不可分なのです。

E・オストロムの研究を踏まえたうえで、D・ボリアーは様々なコモンズの類型をあげ、それらの相互連関をどう考えれば良いかという問題提起を行なっています。コモンズには天然資源のコモンズに限らず、デジタル・コモンズや先住民のコモンズや社会的・市民的コモンズなどの類型が見られます。

冒頭で見たように、「コモンズ思考」は様々な領域で現れており、本書においては、デジタル・コモンズも重要なものとして扱われています。
例えば、フリー(オープン)ソフトウェア運動から生まれたFLOSSコミュニティは、ユーザーのソフトウェア使用を業務用に限定する商業的ライセンスに対抗して、ソースコードを公開し、自由に開発や利用を行えるエンジニアたちのコミュニティを形成しています。
Linux OSはオープンソースコミュニティによって開発されたOSですが、今ではこの画期的な開発方式は、多くの大手IT企業に取り入れられています。

商業的ライセンスへの対抗としてFLOSSコミュニティが生じたように、「コモンズ」の領域は、私企業や公的組織との間で、資源を巡る対抗関係に巻き込まれてきました。
例えば、中世・近世イギリスにおけるエンクロージャー制度は、「私的領域」が開放耕地という「共的(コモンズ的)領域」を侵食した事例と言えます。このように、近代化の過程で「公的領域」と「私的領域」が「共的領域」を挟み撃ちにしてきたのだといいます。
しかし、イノベーションの起点が物的生産から知的生産に移行していることや、環境問題の深刻化などを背景に、90年代以降、「共の潜在力」の拡大とも言える歴史的転換が起きているのです。一方、私企業が「共の潜在力」を収奪しようとする動きも顕著で、本書ではそれを資本主義の新たなフロンティアを創出しようとする「新たなエンクロージャー」とコモンズの復権を目指す「カウンターヘゲモニー」の対抗関係として位置付けています。

本書の次章以降では、そのような「新たなエンクロージャー」とコモンズの復権を目指す「カウンターヘゲモニー」の対抗関係という構図のもと、様々な領域における事例を引き合いに紹介したうえで、「コモンズ思考」の可能性とその到達点が描かれていきます。

詳しい説明は次章以降のnoteに譲りますが、資本主義的市場経済とは異なる資産の蓄積のあり方やポスト資本主義的P2Pガバナンス、ホイジンガの「遊び」の概念に活路を見出すような議論が続いていきます。

ゼミでの議論

「コモンズ」を成り立たせるものとは?

本書では、デジタル・コモンズなども含めた様々なコモンズが扱われていました。IT業界で働くメンバーによると、エンジニアの間では自分のスキルをシェアする風土があるために、互助的な関係性が見られることがあるといいます。本書の第6章でも、エンジニアが共有するエトスとして、そうした気風について語られています。
このような、互助的関係性、つまり「助け合い」は、文化や宗教的な背景によっても、そのあり方が異なるのではないかという議論が出ました。それはつまり、どの範囲まで「私たち」とみなすのか、「何故」助けるのか、といったような判断の背景に、文化や宗教が形作る規範意識があるからなのかもしれません。
一方、単純に文化や気風といったもののみでは語れないような関係性もあります。メンバーの一人が行なっている日本の中山間地域をフィールドとしたリサーチでは、資源の制約が必然的に循環型の暮らしを実現していたのではないかという発見がありました。このことは、文化やメンタルモデルといったものが、自然や身体性といったものと切り離すことができないということを示唆しています。

理論を踏まえた「実践」を

資本主義的な成長の論理に浸かっている私たちが、どのように「脱成長」や「ポスト資本主義」を実現できるのか、その難しさについての意見も出ました。
「成長」に代わる理論的展望を示すものとして、見田宗介の「高原社会」(『現代社会はどこに向かうか——高原の見晴らしを切り開くこと』)や広井良典の「定常型社会」(『定常型社会: 新しい「豊かさ」の構想』)が挙げられました。
こうした理論的視座を携えたうえで、それを実現するためにどのような実践がありうるのか。それを考えていくことが、社会実装を強調する本学科の目指すべきところであるとの議論になりました。

感想

ローカルな分断とグローバルな過剰接続が同時並行で進む現代において、どのような「コモンズ」があり得るでしょうか。それを考えることは、「私たち」というものを再編成することと同義であるように感じます。分断と接続の果てに、それまで自明だった「コミュニティ」の境界が崩されていく中で、いかに「私たち」のコモンセンスを取り戻していくのか。その問いは、いくつかの課題を含んでいます。一つは、「私たち」には誰が含まれるのかという倫理的課題です。コモンズというものは(自然)環境と切り離すことはできず、マルチスピーシーズ(多種)人類学が焦点を当ててきたような「非人間」の存在も、多声的なコモンセンスを形作る重要なアクターとなるでしょう。もう一つは、どのように「他者」を繋いでいくのかという実践的課題です。私たちは、どの二人をとっても完全に重なり合うということはなく、分かり合えないものが必ず存在するでしょう。同じ人間という種でそうなのですから、いわんや多種をや、です。それぞれが別の存在であることを前提にしたうえで、どのように、あるべき状態を共に志向していくべきでしょうか。
ドミニク・チェン氏は『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』で以下のように述べています。

そもそも、コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け容れるための技法である。「完全な翻訳」などというものが不可能であるのと同じように、わたしたちは互いを完全にわかりあうことなどできない。それでも、わかりあえなさをつなぐことによって、その結び目から新たな意味と価値が湧き出てくる。

『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために』(p197-198)

『コモンズ思考をマッピングする』の中でも、コミュニティにおける行為者同士の相互作用の重要性が説かれていました。「コモンズ」とは、「私たち」の境界を絶えず調整しながら、より良きあり方を志向するような、動的プロセスそのものなのかもしれません。そして、そのような考え方は、この研究室が取り組んでいる「(広義の)デザイン」を考えるうえでも重要です。「デザイン」というものも「コモンズ思考」に合流し、視座を共有する領域の一つであるといえるのではないでしょうか。

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