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コモンズ思考をマッピングする 第2章

研究室で輪読を行なっている『コモンズ思考をマッピングする ——ポスト資本主義的ガバナンスへ』の第2章「ヴァナキュラーな領域と複雑性」について、全体のサマリ、ゼミでの議論内容、読んだ感想をまとめていきたいと思います。(文責 M1 中川)

サマリー

第2章は、これまでのE・オストロムによるコモンズ研究の話題を引き継ぎ、前半はオストロムによる「ハイ・モダニズム」への批判により幕を開けます。「ハイ・モダニズム」はジェームズ・スコットによって唱えられた概念で、「単純化」と「把握しやすさ」を志向する傾向があります。これに対抗する概念としてJ・スコットは「複雑性」を取り上げます。そして複雑性の観点から、イヴァン・イリイチの「ヴァナキュラー(自立共生)」や「コンヴィヴィアル」という概念へと議論が進みます。
さらにヴァナキュラーについては、近代制度への批判と「脱学校」という思想につながり、コンヴィヴィアルについては、「コンヴィヴィアリスト宣言」の話題へとつながっていきます。

ハイ・モダニズムvs複雑性

E・オストロムは政策科学者達を批判します。これは、彼らが「難しい問題に対する解決策は科学的な訓練を受けた専門家だけが見出すことができ、それを中央政府の役人がトップダウンで実行するのが効率的である」と考え、当事者の自治という要素を無視しているからです。
これらの思考様式を、オストロムは「ハイ・モダニズム(high modernism)」と呼んでいます。
この言葉は、ジェームズ・スコットが”Seeing Like a State”の中で使った言葉です。

ハイ・モダニストは、少数のエリート経済学者や社会工学者だけが合理的、効率的な経済、都市、農業、林業を設計できると信じ、それを集権的、トップダウン的なシステムで実現することで理想的な社会を作れるとする信念の持ち主だ

P. 52-53

ハイ・モダニストの手法では、複雑なシステムを分析し単純な要素に分解し、要素の関連や配列を「単純化(Simplification)」し、管理者とって「把握しやすく(Legibility)」するとされます。
ジェームズ・スコット”Seeing Like a State”ではハイ・モダニズムに対する批判的考察が主題となっており、典型的な例として、ル・コルビジェとウラジミール・スターリンを挙げ、その批判者として、J・ジェイコブスとローザ・ルクセンブルクを挙げています。この二つの要素に集約される例として、科学的林業や大規模・機械化農場を挙げています。
いずれの場合においても、ハイ・モダニズムの「単純化」と「把握しやすさ」に対して「複雑性」が鍵となるとスコットは述べます。

ヴァナキュラーな領域 I・イリイチとJ・スコット

イヴァン・イリイチは「脱学校の社会」、「コンヴィヴィアリティの道具」で知られる思想家です。イリイチの著作のキーワードとしてよく知られているのは、ヴァナキュラー(Vernacular)コンヴィヴィアリティー(Conviviality)という二つの言葉です。
ヴァナキュラーという言葉の意味を拡張し、「自給的」という意味で使うことをイリイチは提案しています。
イリイチのいう「ヴァナキュラーな領域」は商品生産のための活動とは別の自家消費と互酬的なやりとりのための生産の領域であり、地域の生態系の持続的な利用の知恵と不可分な関係を持つ領域です。
このヴァナキュラーな領域について、筆者はJ・スコットのハイ・モダニズム批判との関係で再検討し、

  • ヴァナキュラーな領域(1)=生態系の資源を利用する自給的な生業を営む人々からなる領域

  • ヴァナキュラーな領域(2)=自給的な生業だけでなく、小規模な工場、店、事業所などの事業者と働き手、職人、フリーランス、芸術家など多様性の高い人々の相互作用からなる複雑性の領域

という拡張を図ります。
イリイチはヴァナキュラーという概念の対立概念である近代的制度の典型例として、近代国家が人工的に設計した国語を考えていました。
スペインのイザベラ女王の下で創出されたカスティーリャ語の創出によって、バラバラの地方語を話す断片が集められて、統合的な一つの王国が形成されることになったことを念頭に置いており、近代の国民国家の形成のために、国語の創出が決定的な意味を持ったと考えていました。
こういった考察からも、筆者はJ・スコットとイリイチの探求は相互補完的な関係にあると指摘します。

I・イリイチの学校制度批判

「脱学校の社会」はイリイチの代表的な作品であり、義務教育制度の批判を行いました。

上位の子供たちは義務教育の恩恵を受けることができるが、貧困層の子供たちの多くは途中で脱落してしまい、そのため、この制度は、貧困層の子供たちに劣等感をもたせ、学ぶことを嫌いにするものになっていると指摘します。
また、学校制度は、専門職としての教師だけに教える仕事を独占させ、他の人たちを教える仕事から締め出しており、これも、貧困層の子供たちが学ぶ機会を奪われる一因になっていると指摘します。
イリイチは義務教育制度を解体し、様々なスキルを持つ人とスキルを学びたい人を結びつけるネットワークなど、新たな教育・学習システムを設計することを提案しています
筆者はイリイチの”Celebration of Awareness a Call Institutional Revolution「オルターナティヴス-制度変革の提唱」”を読むとさらに深く「脱学校の社会」を解読できると指摘します。
この著作はカソリック教会に対するイリイチの考え方が具体的に書かれており、
「カソリック教会は巨大なヒエラルヒー組織であり、組織の中での決まった昇格コースを歩む人ばかりでは時代に適応した自己変革ができなくなる」としています。
「義務教育制度は、制度依存症の人間を作る制度」だとイリイリは言おうとしたと考えられます。

「制度依存症」の人は、与えられた制度を絶対化し、それを変えたり、そこから逃げることは考えられず、場合によっては制度からの圧迫に耐えられず自殺してしまう。

P. 82

イリイチの思想的な課題は、人々がこうした制度の依存から脱却し、自立性を高める条件をどうすれば作ることができるかを明らかにすることだったと言えます。
イリイチが「脱学校」を主張するのは、こうした学校制度を解体して、本来の「学び」を促す仕組みとして、教育システムを設計しなおすためであると筆者は主張します。

コンヴィヴィアリスト宣言

最後の章では、近代的な制度の弊害に対抗する道を探るイヴァン・イリイチの考察の中で、重要なキーワードのヴァナキュラー(Vernacular)とコンヴィヴィアリティー(Conviviality)のうちコンヴィヴィアリティーについて注目します。
イリイチは「コンヴィヴィアリティーのための道具」という著作の中で、道具(Tool)や制度(institution)という視点を中心に、新しい方向への転換のガイドラインを示そうとしました。この著作で、「操作的な(manipulation)道具↔︎コンヴィヴィアルな道具」という対立軸を設定しています。

操作的な道具とは、その製品を設計した設計者が、道具の特定の機能や意味を決定していて、利用者は設計者の意図に従って使うだけで、工夫の余地が残されていないような道具のことを指します。
他方、コンヴィヴィアルな道具とは、利用者が創造性を最大限に発揮することを促すような道具という概念です。
前出の訳書の中では、「コンヴィヴィアル=自立共生」と訳されており、この自立的であるという概念がキーワードになるのではないかと考えます。
さらに筆者はこのコンヴィヴィアリティーの概念を引き継ぐ活動として、フランスの社会学者、アラン・カイエを中心とする”Convivialist Manifesto(コンヴィヴィアリスト宣言)”を紹介します。
宣言の狙いは、地球規模の環境問題や格差の拡大、暴力的な対立の激化など、現代世界の様々な困難に対処するために必要な簡潔な基本方針をまとめることであり、特にネオリベラリズムの弊害への警告と脱成長(Degrowth)の考え方が柱になっています。宣言の中で具体的な政策として「ミニマム・インカム+マクシマム・インカム」の概念が強調されています。

コンヴィヴィアリストの実践的指針(p. 94)

アラン・カイエは、近代政治の経済思想は、功利主義の人間観に支配的な影響を受けているとし、功利主義批判を行います。カイエは功利主義に対する有効な批判として、マルセル・モースの「贈与論」を取り上げます。

功利主義をめぐる議論では、「利己主義か利他主義(altruism)か」という二項対立に陥ってしまう点に大きな問題があるとカイエは考えており、モースの洞察により贈与にはこれを克服する特質が含まれているという点を指摘しています。
モースは北米の太平洋岸の先住民クワキウトルのポトラッチやロブリアンド諸島のクラ交易に代表される贈与の文化について考察し、こうした社会には、コミュニティ同士の紐帯が贈与を通じて作られ、維持されていること、威信財の循環の過程で貧しい人たちにも富の再分配が行われていることを明らかにしました。
こうした価値規範のもとでは、気前の良さを示すという利己的な動機が結果として、多くの人たちに富が行き渡るという利他的な効果をうむことを指摘しています。

さらにカイエはモースの姿勢を引き継いで、市場/国家の二者択一ではなく「第3の道」として社会に根ざす経済活動の可能性を開拓しようとしています。
贈与のパラダイムを「市民社会に根ざす経済活動(Civil society-based forms of economic activity)」に活かせるようなモデルをカイエは構想しており、人々が持ち寄った資源や知識をプールし、それをもとに非営利の社会的活動を行う自発的な組織(Voluntary association)を構想しました。
カイユの考え方を少し変形すると、コモンズのモデルになると筆者は位置付けています。

ゼミでの議論

複雑性の排除と誰がそれを望んだのか?

第1節における、ハイ・モダニズムvs複雑性では、コルビジェのヴォアザン計画から議論がスタートしました。ヴォアザン計画は現代都市に大きな影響を与えていますが、J・スコットがハイ・モダニズムの特徴として批判する、「単純化」と「把握しやすさ」を体現したものであると実感しました。
また、日本における同様の例として、農村における圃場整備が話題に上がりました。
ゼミの中では、「列挙された政策は生産性を上げるためのものであり、逆説的に複雑性のある世界は生産性が上がらなかったことを示すのではないか?」また「それはむしろ不平等を固定化していたのではないか?」という議論が行われました。その面で言うと、むしろ複雑性の排除は民衆が望んだ結果だったのではないかという部分にまで議論が及びました。当初は民衆が望んだ複雑性の排除の結果として、様々な弊害が明らかになり、複雑性の重要性が明らかになったとも考えられるのではないでしょうか。

国家の成立と学校教育

第2節以降はイリイチの話題になります。
イリイチの思想は何度も読み返されていること、南米での活動が紹介されました。
その中で国語による、国家の生成に議論が及びました。民主化した国民国家=Nation stateは、国家に帰属意識を持たせるための仕組みが必要となり、そのために官僚制が蔓延り、人々の自立性が失われていくのではないかと言う議論になりました。
その制度の中に、学校教育があり、義務教育の国による違いも話題になりました。例えば、住環境がそのまま教育格差になってしまう例や、総合型学習の重視は経験をお金で買うことにつながってしまい、メリトクラシーとして批判の対象となっていることが挙げられました。

贈与論と非貨幣的な価値観

贈与論についての議論で、「人は貨幣的に測定できるものしか認識がしづらいのではないか?」という問いから、フィンランドにおけるHappy tax payerという考え方に話が及びました。フィンランドは税金が高額になりますが、学び直しをする時に大学の学費が無料になるなど、払った税金が自分に返ってきている納得感があるのではないかという議論になりました。
このことから「自分から離れていったものが、自分のところに戻ってくる」という感覚が重要で、そのような感覚を持った非貨幣的な価値観のコミュニケーションをデザインしていくことがこれからの社会に求められるのではないかという議論になりました。

感想

直近でイリイチの「コンヴィヴィアリティーのための道具」を読んでいたため、イリイチの思想をより深く理解することができたように感じました。
現在、会社でDXを担当している立場として、「脱学校の社会」における、カソリック教会のヒエラルキー構造と自己変革のできなさについては身に染みるものがありました。また、AIに関連した様々な技術が開発される昨今において、「コンヴィヴィアル=自立共生的」な道具というイリイチの思想は、科学万能を掲げる使用者や開発者の思想への、倫理的な面からの再考を求めるものであるように感じます。

議論の本筋とは離れるのですが、学校教育の議論の中で、海外における住環境と教育の格差で印象的だった出来事がありました。
議論の中で海外の教育についての例でブレイディ・みかこさんの「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」の話題を挙げたのですが、ゼミ員のほとんどが、この本を読んでおり、共通認識の下で話ができました。話題の本ではありますが、日本においても共感ができることは世界各地で似たような問題が起こっていることの証左であるようにも感じます。

ウクライナ戦争をきっかけとした世界の混乱は、グローバリゼーションの終焉をもたらすのではないかという論調も聞こえます。そのような時代において、よりローカルに目を向けた試みや考えを重視していくことが大切なのではないかと感じます。また、新自由主義に代表される近代的な価値観へのアンチテーゼとして、より批判的に現代の価値観を捉えていくことの大切さを本章を通じて感じました。

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