バリアフリー、ノーマライゼーションについて思ったこと

ー電車で乗って通勤しているとき、月数回は見かける障害者が乗車してくる

彼は体をまっすぐした状態で立てない、首と腰がいびつな曲がり方をして歩いている方だ

「どなたか席を譲ってくれませんか」

彼はそう声を張り上げて宣う

優先席に座る乗客に対して自分の優先性を主張しているわけだ、これについては仕方のないことだと思う

そもそもそういう人が座るような想定の席なわけで、そこに彼が座ることに何の問題もない

彼は譲ってくれた乗客にお礼も言う、良いことだ

近頃は譲ってもらって当然と言わんばかりの老人もいる中、立派なことだと思う

ただ彼が座る時、降車する時に複数人に対して至るところでぶつかり、それについて一切謝罪をしないことについては不快感を抱く

これらの心情を他人に打ち明けると「器量が狭い」だとか「差別的だ」という返しをされることがあった

「仕方がないこと」だとか「自分が我慢すればいいのだから」、と彼らは言う

だが果たして、それは本当に「仕方がない」ことであるだろうか

ー先日、「新幹線の車いす席には予約が必要」という旨で論争が起きていた

おおよそツイッターで見る限りの内容では「予約は必要か、不要か」の論点であったが、予約を不要とする側は口を揃えてこう言う

「『バリアフリー』や『ノーマライゼーション』の観点から予約しなくても乗れるようにするべき」と

福祉の話になるとほとんど必ずといっていいほど「バリアフリー」、「ノーマライゼーション」という言葉が出てくる

「バリアフリー=、社会生活に参加する上で生活の支障となる物理的な障害や、精神的な障壁を取り除くための施策、
若しくは具体的に障害を取り除いた事物および状態」

「ノーマライゼーション=障害をもつ者ともたない者とが平等に生活する社会を実現させる考え方」

端的に言えばこれらは「健常者、障害者の分け隔てなく平等で暮らしやすい社会づくり」を目指した考え方である

これらの高齢者や障害者といったいわゆる「社会的弱者」に寄り添った考えはしばしば称賛される傾向にある

言葉の意味だけを取れば正しく、「平等」で「健全」な社会の在り方である

だが、我々はこれらのお題目を「障害者のみ」が得られる利益追求の為の言葉として使っているのではないだろうか

例えば電車内では(電車内だけでもない話ではあるが・・・)一般人が他人にぶつかれば大抵の人間は謝罪する

それが倫理的に正しく、相手にぶつかることは相手に損害を与えているからに他ならないからだ

だがそれが障害者になった途端に「謝らなくていい」というのはぶつかった相手の「損益」は無視され、

「障害者が座るという利益」のみが重視されている

他方で、新幹線の議論では「バリアフリー」、「ノーマライゼーション」を掲げて

「車いす席を予約しないでも利用できるようにするべき」と謳う者が不特定多数いた

彼らの言い分もわかる、同じ人であるなら「健常者は良くて障害者はダメ」というルールは不平等である

ただ、それらの平等を達成するためには多忙中でも彼らの乗車補助のために少なくない人員リソースを割かれる「JR側の損失」、

そしてその人員が減ったことによる対応の遅れで迷惑を被ることになる「一般客の損失」が勘定から欠落している

ー「相対的平等」という言葉がある

これは「個々人の特性や能力に応じて『等しき者を等しく取り扱う』ことが要請されるという立場」というものだ

会社で女性にのみ産休を認められていたりすることはまさしくこの「相対的平等」であり、

「法の下の平等」もこの「相対的平等」の立場をとっている

バリアフリーやノーマライゼーションにおいても一般認識では「相対的平等」が基本で、

「できない側」を「できる側」にシフトさせていく考えが蔓延している

私は社会福祉を学んだ立場から、この一般認識に対して常に一つの違和感を抱き続けていた

というのも、それにおける「相対的平等」は「できる側の健常者」と「できない側の社会的弱者」との対応の違いで不公平を生む可能性を孕んでいるからだ

ハッキリ言うならば「相対的平等」の恩恵に預かれるのは「できない側の社会的弱者」ばかりだ

例えば一般の社会規範(ここではルール、マナーと同義として取り扱う)としては公共の場で人の迷惑になることは容認はされない

電車で言うなら「電車の中で騒いではいけない」だとか「スペースを占有してはいけない」だとかが社会規範に当たるだろう

しかし蔓延している「相対的平等」の観点に基づくと

「『できる側』は迷惑をかけてはいけないが、『できない側』は他に迷惑をかけても仕方がない」ことになってしまう

この時点で「相対的平等」という言葉はダブルスタンダードに陥っており、

「できない側」の人間の行動によって損失を受けるのは常に「できる側」の人間で、

それらの「できない側」の行動によって被る不快感、場合によっては電車遅延などの損失の補填は「できる側」に一切行われない不平等が発生している

刑罰にしても、「できない側」の加害者が障害を理由に責任能力を問われずに社会的制裁が軽くなる事例はいくつもある

今回の新幹線の件にしても、「できない側」である車いすの方が乗車する際には他者の手助け、補助が必要不可欠だ

そしてそれには必ず「できる側」のリソースが必要になってくる

今回の予約不要推進派の意見は

「突発的に来た車いす客に対し、多忙なタイミングで乗車補助を行うために急に人員リソースを割くことで招かれるであろうJR側の労力的損失」及び

「車いす客への対応から伴う対応の遅れによって発生する一般客の時間的損失」などについては一切考慮がない

「それは仕方がないこと」といえばそれまでだが、「仕方がない」という言葉で済ませること自体がそもそも違和感なのだ

果たしてこれは本当に「平等」といえるだろうかと疑念すら抱く

ー前述のとおり、「障害者だから仕方ない」「我々健常者が我慢すべき」という意見がおおよそこういった問題の着地点になることが多いが、

この言葉の捉え方を変えると「彼ら(=『障害者』)は私達(=『健常者』)と違うからしょうがない」という認識を根底に持っていることにならないだろうか

更に言い換えるなら「自分と同じでないから同じ社会規範を守ることを期待していない」という考えになるわけだが、

これこそ差別そのものではないのだろうか

更に問題なのが、「バリアフリー、ノーマライゼーション」を意味を考えると現代日本ではどうしても「できない側」に対して合わせ、「できる側」がリソースを割く必要に迫られる

だが「できない側」のはずの、一見「できる側」に見える軽度の障害者にはそれが適用されず、ともすれば「できる側」に合わせるように要求される

「できない側」の中で「仕方ない側」と「できる側に合わせる必要性がある側」に区別されていることになる、これは立派な差別ではないだろうか

これらの問題が解決しないまま「相対的平等」に則ること自体が既に破綻しているのだ

ー福祉問題ではまるで万能の言葉のように「バリアフリー、ノーマライゼーション」を謳う良識派は多数いる

だが、実際のところ彼らの言うそれらを現実的に実行したところで「できる側」の人間の利益は考慮されていない場合が多い

しばしば良識派は耳障りのいい言葉を使って可視化されている「できない側」に対して行き過ぎた配慮をした結果、

それに対応しなければならない「できる側」の人間と可視化の難しい「できない側」に常に負担を強い続けてきた

故に「仕方ない」という安易な言葉で済ませず、少なくとも「できない側」であっても社会規範は遵守すべきだし、守れない場合は非難されるべきである

「できる側の誰も」が一方的な負担を前提としない、「できない側の誰も」と相互満足するようなWIN-WINになる関係こそ、

本来のバリアフリー、ノーマライゼーションであり、「相対的平等」のあるべき姿ではないだろうか

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?