真冬の打ち上げ花火


録画していた『億男』を観ました。いや~、考えさせられましたね。

主要なレビューサイトでも「お金について考えさせられた」という感想ばかりがズラリと並んでいました。映画の内容と言えば、高橋一生のぼそぼそ声キャラは多少面白かったものの、汎用な新書の域を出ないものでした。

大学の授業の感想を学生に書かせても、皆が「勉強になった」と書く割りに7割くらいの生徒は何も内容を覚えていない、ということもざらにあるらしいですね。物が溢れかえって生活が豊かになった現代は、「考えさせられたがりの時代」になったと言えるでしょう。何かについて本気で考え抜く気はないけれども、考えている自分の雰囲気は好きだという。

人間は生来怠け者、というか生物全体がエネルギーをセーブするようなインセンティブの下で生きているわけですが。何かについて考えている風の自分を手軽に手に入れられるようになったことで、そんな自分を演出することがより好まれるようになったのでしょう。インスタ映えのする飲み物を買って、写真だけ撮ってそのまま捨てるようなものです。

何か一つのことについて考え抜くというのは、実はとても難しいことなんですよね。特に、ちょっと検索すればそれなりの回答が出て来る現代においては、物事の本質にまで想いを馳せて考えることのハードルはどんどん上がっています。わかったつもり、になるのは本当に理解することよりも気持ちの良いものですから。何かを、或いは誰かを本当に理解するのはとても時間が掛かり、且つ痛みも伴います。そこそこわかった風の地点で引き返す方が、よっぽど快適なのです。

例えば、「やらない善より、やる偽善」という言葉について改めて考えてみたいと思います。当然ながら、誰かを助ける善行は素晴らしいです。だけど、この言葉が用いられるのは大抵の場合、その善行が批判された時なのです。だから、自分がやっている行ないの意味について改めて落ち着いて精査しなければ、これは思考停止を促す言葉にも成り得てしまうのです。その善行が真に相手の為になっていることもあれば、かえって誰かを助ける以上に傷付けていることもあるでしょう。

その繊細な善行のラインについて、自分に可能な限りの情報を集めて探っていくことが大切になってくるのです。何故なら、善行というものは往々にして一歩間違えれば誰かを深く傷付けることもあるからです。今この瞬間に目の前に見えているものが全てとは限りません。一つの小さな選択が、いくつもの人生を塗り替えることに繋がる場合だってあります。人助けにはスピードが大事になってくることも勿論ありますから、いつまでもクヨクヨ悩んでいられないという状況も発生して来るでしょう。けれども、そうだとしてもそれは正しさについて考えなくても良いことの理由にはなりません。大事なのは、考え抜いた上で自分自身の答えを見つけ、常にその答えを更新し続ける柔軟性を持つことなのではないでしょうか。


僕が大好きな邦画の一つに『聲の形』という作品があります。この映画は、やってしまった後悔について向き合わせてくれた一作でした。本作には典型的な性質を持ちながらも、幼く不完全な登場人物達が出て来ます。そして、そのジュブナイルな不完全さこそが、本作の輪郭を完全なものとして成り立たせています。

そんな作品だから、これを観ることで僕は反出生主義を深めていくことが出来ました。反出生主義とは、簡単に言うと、この世界に新たな命を産み落とすことに否定的な思想のことです。色々な形の反出生主義がありますが、それらに共通するのは、「生きていることは苦しい。だから、新しく苦しみを受ける人を増やしていくのは可哀想だ」という考えです。不完全さを前面に押し出した登場人物達を観ていると、僕はどうしても生きていくことに直視することが困難になってしまいます。自分が不完全であるが故に傷付けてきた人がこれまでに沢山いるし、自分自身も多く傷付けられてきた。だから、こうした苦痛は自分で終わりにするべきだろうという考えが浮かぶのです(『進撃の巨人』の中でジークが似た思想を持っていましたね。作者からは中二病扱いされていますが)。


更に、死ぬ自由についても改めて考えていきたいと感じました。安楽死の議論ですね。去年、我が家の反出生主義のスイッチを決定的に入れた番組としてNHKのドキュメンタリー『彼女は安楽死を選んだ』があります。一言で内容を説明すると、神経難病ALSの女性が、身体が完全に動かなくなる前に外国に行って安楽死をした、というお話です。

彼女はこれまでに何度も自殺未遂をしており、番組には2人の姉が出て来るのですが、姉達も渋々安楽死に賛成しているといった状況でした。(現時点でも歩行はほぼ出来ないのですが)彼女は自分の意識がなくなって、自分が自分でなくなる前に死ぬことを選び取ろうとしていました。日本に居る間、スタッフが話し掛けても彼女はずっと不機嫌に答えているように僕には感じられました。ところが、スイスへと渡り明日には安楽死出来ることが決まった瞬間から、彼女はずっと顔を崩して笑うのです。そんな顔も出来たのかと驚かされるくらいに。姉妹3人での最後の晩餐でも、姉が泣いてしまう中、本人だけは日本では見せたことのない笑顔で楽しく談笑しているのです。

そして、カメラは最期の瞬間まで映します。病室で姉達が見守る中、ドクターがやって来てビデオカメラを回します。彼女はそのカメラに向かって自分の名前を告げ、自分の意志で安楽死に同意していると宣言します。点滴のような管が腕に流され、本人にはスイッチが渡されます。スイッチを押すことで液体が流れ、1~2分で安楽死に至るという仕組みです。彼女がスイッチを押した瞬間、姉達が駆け寄り涙に暮れながら最期の言葉を掛けました。前日にずっと笑顔で居た彼女は、この日もずっと穏やかな顔で「ありがとうね」という言葉を家族に繰り返し、最期は本当に眠ったように静かに息を引き取りました。それはもう息を呑むくらいに美しかったです。僕もこんな最期を迎えたいなと羨ましくなってしまいました。それ程に穏やかで、多分自分にはこんな最期は訪れないのだろうという直感から来た羨望の感覚です。こんな風に苦しみなく最期を迎えられる人はそう多くは居ないのだと、そんなことを確信させるワンシーンでした。

『聲の形』の中でも、登場人物が死ぬことについて前向きに行動する場面が出て来ます。生きていることの苦しみの中でも最もツラいことの一つに、他人を苦しめてしまうというものがあります。自分が誰かを助けること以上に誰かを傷付けてしまう。個人的には、15~25歳の頃が一番そのことに敏感になる年頃のように思えます。そして、ティーンの世界観はあまり広くない場合が多いので、その苦しみを止めるには自分の生を止めるしかないという発想になりがちです。大人からすると、友人と揉めたくらいで何も死ぬことは無い、社会人になるともっと嫌なこともいっぱいある、という感覚なのかもしれません。

だけど、生きることは(そして命を生み出すことは)究極のエゴだとも言えるでしょう。生きることは、無思考で肯定されるものではないのです。自分の生がどこまで苦しいものなのかは自分にしかわかりません。他人は本来、それを肯定も否定も出来ないハズです。逆に言うと、生を肯定出来るのであれば、否定される危険性にも晒されてしまうのです。

主人公の一人である西宮硝子は、何にでもすぐに謝って思考停止してしまいます。彼女は、自分が悪いという思想をベースに持つことで自分を救うという習慣を持っていました。そうなってしまうと、死ぬという選択への帰結が当然のものとなってしまいます。そんな彼女に向けてもう一人の主人公が或る言葉を伝えるのですが、それは僕にとっても反出生から脱け出す最後の砦のような言葉でした。

「君に生きるのを手伝ってほしい」

生きる理由は、本当は自分の中には無いのかもしれない。誰もが一人では生きていけないから、関わり合う中でしか生きることや生まれることを認めることが出来ないのかもしれない。弱さを認め合って、助け合える社会にしか未来は存在しない。そんな理想について、いつまでも甘い夢を抱き続けていられるような台詞でした。

『億男』が伝えたかったのは、お金の価値は人や状況によって変わり得るという話でした。それはそれで良いのですが、一方で、人(命)の価値も相対的なものであることは誰にも覆しようのない事実でしょう。例えば、こんなにも素晴らしい作品を制作してくれたスタッフと青葉容疑者の価値を直感的に同等のものと見なせる人は、そう多くはないのではないでしょうか?

2016年にドナルド・トランプが大統領に選ばれたことが象徴的ですが、近年ではナショナリズム(民族主義)がそれまでに無いスピードで進んでいます。目に見える壁、目に見えない壁、それぞれに阻まれてあらゆる分断が可視化されるようになりました。相手の立場を想像する共感という技術を捨て去って、皆が自分だけの虚像を追い掛けています。どこで誰が苦しもうが、それが自分に直接関係無ければそれで良いかのようです。科学的な知見が蓄積されて、もっと社会が経済的な意味以外においても豊かさに向かっても良いハズなのに、次々と新たな社会問題が生み出され、人間はまるで今日が最期の日であるかのように目の前の消費活動だけに熱心になっています。だけど、僕達はそんな社会と向き合って生きて行くしかないのです。自分の生を維持し続ける限り。そして同時に、そのことに向き合っている限り、僕の反出生主義は治らないのではないかとも思えます。


我々は、いつでも弱者に成り得えます。どんなにお金持ちや権力者であっても、コロナウィルスに罹れば老人も赤ん坊も同じです。幸いなことに、僕はこれまで社会的な弱者の立場になったことは(自覚的には)あまりないのですが、そう成り得る特性はいくつも潜在的に持っています。どこかで小さな選択を間違えていれば、自分の顔や過去、身体も全然違ったものになっていたのだろう。そんな感覚を昔からずっと抱えていました。強い人間と弱い人間の間に本質的な差異など無いし、自分達はそのことに無自覚的に日々生きている。この作品を思い出すことで、僕はそのことに自覚的で居られます。





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