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000 - 西城秀樹さんの一周忌に寄せて

2019.5.23 初稿 Twitter - Twishortへpost
2019.11.5 Twishortより転載 一部改訂

西城秀樹さんの一周忌に寄せて

 2018年5月16日、 西城秀樹さんが亡くなった。それまで秀樹さんとは全く無関係の生活を送っていた1960年代後半生まれの私が、突然の秀樹ロスに陥り、この一年ヒデキ浸けの毎日を送った。2019年5月16日の秀樹さん一周忌、私は豊洲PIT フィルムコンサート会場で、泣きながらペンライトを振り大声で叫んでいた。

 同日発売されたCD+DVD BOXの「HIDEKI UNFORGETTABLE」を、泣きながら全て聴いた。Disk 5を聴き終わった後の静寂が、心を締め付ける。

 この国民的スーパースターの姿、私が生前認識していたのは1割程度で、残りの9割はこの一年間に知ったものばかり。その状況に驚くとともに改めて、とてつもない存在であった西城秀樹さんについて、私なりの視点で今どうしてもまとめたいと思った。その原動力は、後で知った9割を、これほどの才能の結晶をもっと多くの方に知って欲しいと願うところにある。

 秀樹さんのファンは、多くがもう大人だ。しかし、秀樹さんが駆け抜けた軌跡は、若い人たちにこそ知ってもらいたいと強く思う。

 以下には、私がなぜ秀樹さんの生前、その圧倒的なパフォーマンスに気づくことができなかったのかを、ごく個人的な振り返りとともにまとめたものが含まれる。自分語りをしたいわけではなく、音楽の専門家ではない私に似たような来し方を経てきた同年代の方も多いのではないかと思ったからで、共感していただける部分があればよりご理解の助けになるのではと考えた。いささか多弁と感じる方がおられたらお詫びしたい。

私と日本の歌謡界、音楽との付き合い方を振り返る

 西城秀樹さんがデビューした70年代、テレビは一家に一台。私は子供~小学生だった。当時、連日テレビで放送されていた歌番組に登場する歌手には、上手い人が多かったと記憶している。家庭が厳しかったので、NHK以外の番組を観られることはあまり多くなかったが、ザ・ベストテンや紅白歌合戦は見せてもらえた。

 大スターだった西城秀樹さんは特別ファンだったわけではないがカッコいいお兄ちゃんだな、いいな、という感覚だった。いわゆる昭和歌謡曲全盛期で、演劇的な世界が歌われることも多く、秀樹さんだけが特別に目立ったキャラクターだった印象はない。沢田研二さん、五木ひろしさん、山口百恵さん、ピンク・レディー、それぞれが自分の個性を発揮してお茶の間を楽しませていた。秀樹さんの、今ならわかる強烈な色香は、子供の自分には単純に理解を超えていたので、形として受け止めていた。

 中学生に上がる頃、たのきんトリオが人気者に。そのあたりから、アイドルと呼ばれる人たちが増えた。この頃はまだ、歌番組で若い歌手が洋楽カバーを歌うこともあったように記憶している。80年代中盤には集団で踊りながら歌うチームなども席巻し始め、家庭がクラシック好きだったりピアノを習わせてもらっていたりした私は、親のボヤきも手伝って歌謡曲を歌う歌手の質が全体に下がってきたことに気づいていた。音痴でも喉が締まっていてもテレビで歌っていいの?歌手と名乗ってるのに?前はもっと上手い歌手がたくさんいたのに…。そんな反発もあって、日本の歌謡界に対する純粋な興味を次第に失っていった。

 小学生の頃からABBAやノーランズ、リチャードクレイダーマンなどのイージーリスニングは好きで、フットルース大流行の以降は洋楽の流行りものをより多く聴くようになった。MTVも大好きだった。音が豊かだし、和音も楽しいし、何より音程が外れていないのが良かった。高校生でブラスバンド部に所属したこともあって、ブラス系からジャズ、遡ってビッグバンド、フュージョン、クラシックも含めて、音楽全体を楽しむ方向に変わっていった。

 日本語の曲はというと、私小説的な世界にハマるにはニューミュージックのユーミンや中島みゆきさん。この方々は楽曲に加え歌詞の力がすごかったので、70年代に歌謡曲が担っていた、擬似ノンフィクションの世界を楽しむにはうってつけだった。他はYMOや山下達郎さん、矢野顕子さんもよく聴いていた。

 ニューミュージックの歌手がテレビに出ないのも、中高生にしてみたらカッコ良く見えた。テレビに出ている歌手とは違う、自分のポリシーがある人たちに見えた。

 とはいえ、時々NHKの歌謡ショーに出てくる渡辺真知子さんや高橋真梨子さん、布施明さんなどの大御所を見ては、やっぱり昔の歌手は凄いなぁなんて言っていた。実際は昔の歌手、などという失礼な表現は当てはまらないことは今でこそ理解できる。だが当時の私には、そんな風にしか歌謡界を受け止められなくなっていた。

 80年代中盤以降は大学生に、90年代に社会人になる。等身大の自分を歌うJ-POPが流行った時期もあった。でも私には楽曲そのものが物足りなかった。単純なコード進行や喉を締める感じもイマイチだった。気に入ったものもあったが長続きしなかった。結果、よりパワフルでメッセージ性の強いロックバンドに傾倒したり、ワールドミュージック、アシッドジャズ、マニアックなアングラ系なども聴いたりしていた。

 少し話は逸れるが、秀樹さんは1981年からガールズシリーズという、単純なコード進行のポップスを3曲も続けてリリースしている。後にこれを聴き込んで、また映像を観て驚愕した。これらの曲をこれほど厚みのある豊かな仕上がりに持ってくる力量は、ただ事ではないと目を、耳を疑った。

 また、ニューミュージックも洋楽も、秀樹さんはほとんど先駆的にライブでカバーを歌っていたことも知る。特に日本人の歌については、状況を理解するのに時間がかかった。秀樹さん、こういうの歌って大丈夫だったんですか?何か事務所的に取引でもあったんですか?とすら思った時もあった。なぜなら「歌謡曲」の人だと思っていたから。

 私がすっかりテレビの歌番組から離れてしまった頃、秀樹さんはアイドルを脱する道を進んでいた。私にとっては本当に時々見かける程度。秀樹さんは変わらず上手かったけれど昔よく聴いていた歌ではないし、日本の歌謡曲の世界をナナメに見ていた私は真剣に視聴していなかった。

 秀樹さんがデビュー当時からライブで新しい挑戦を繰り返し、あらゆる歌を驚くべき才能を持って爆発的に表現していたことは、全く知る由もなかった。

 2000年以降、仕事に責任も出て忙しくなってからは、それまで開拓してきた好みの音楽のジャンルを遡ったり類似するアーティストを聴いたりが続く。さらに大人としての葛藤、負荷も大きくなってくると「音楽は若者の特権だな」という心境になっていく。ここ十数年間は、新しい音楽を探す時間も、音楽を聴く時間も取れなくなり、ただ生活に追われる毎日を過ごしていたのが実情だった。

西城秀樹さんとの再会、音楽との再会

 今、追わずとも目に入ってくる日本の歌謡界は、ほんの一握りのトップスターを除き二流が良しとされる、二流を育てることこそ尊いという価値観が本流になっているように見える。

 アートとは本来、一流が本流で二流がサブであるべきなのだが、悲しいかな狭い島国の日本では、少しだけ抜けた価値観があたかも100%正しいかのような走り方をしてしまう事故が起こることがあって、日本の歌謡界ではそのような着地点が本当に長く続いているように見える。もちろん二流を否定するつもりはないし多くのファンの方がおられることも理解できるし、未来の一流の可能性を尊重し、大切にすべき対象であることは当然なのだが、『程度の問題』である。それこそ『数の論理』で、一流がアンダーグラウンドに押しやられているとさえ感じることがある。とても悲しい。

 私事ながら、私は大学で美学美術史を学んだ。芸術を作るのではなく、観る側から理解し論じていく世界である。そこで得た気づきの一つに、一流しかない場所にいると、一流に気づけない、というものがあった。二流を知ることで初めて、一流が何十倍もの力を持って新しい姿で立ち上がってくるという作用が起こる。

 2018年5月、西城秀樹さんが亡くなった後の衝撃はその作用にも似て、想像を絶するものがあった。ご病気をされて、頑張ってリハビリをされていたのはニュースで知っていたし、昭和の大スターが力尽きたことに強い寂しさを覚えた。「ヒデキ、カンゲキ!」をモジって、何度も友達との会話を楽しんだ、同世代スタンダード秀樹さんの若い頃の姿を懐かしみ、小さなスマホの画面でYouTube映像を再生するところから、私の生活が180度激変する。

 これは、・・・何だ?
 ヤバイ、ヤバイ、ヤバイヤバイヤバイ!!

 50歳を過ぎた中年女性が、普段使わないワカモノ言葉しか発せられなくなるほど動揺が止まらない。涙が溢れる。

 傷だらけのローラ、若き獅子たち、ブルースカイブルー、ヤングマン、子供の頃何度も繰り返し聴いて口ずさめる『日本語の』歌が、幼少期の私の記憶のカケラを大きくすくい取り抱きしめながら、怒涛のように立体的に迫ってくる。一つ一つの言葉が、鮮やかな色彩をまとって心の中心に飛び込んでくる。何かの中心に引きずり込まれたり、空の果てまで飛ばされたりする。

 そこでは、やれ音程が外れているだの、喉が締まっていて息苦しいだの、一辺倒な歌唱法で飽きるだのといった、音楽を聴く上でストレスとなる要素は皆無だったし、何より画面を突き破ってさらにゴールテープの遥か先まで走り抜けていくほどの疾走感、爽快感、圧倒的存在感には茫然自失の連続だった。大人になったからこそわかる、セクシーで完璧なビジュアルにも、一発で心を奪われた。

 憑かれたように音源を買い漁り、ネットに溢れる秀樹さんへの追悼の言葉を読み漁り、流通している本を買い漁り、晩年の闘病生活を知り、YouTubeを夜中まで再生し、高価なイヤフォンを買い、いつでもどこでも聴いては泣き続ける日々。

 そこで知る「シンガー、西城秀樹」には、凄まじい衝撃を受けた。すでに語り尽くされたことだが、もともとジャズの素養があった天才少年は歌謡曲を生業としつつも、大好きなロック、バラード、ソウル、フォーク、ニューミュージック、カンツォーネ、ファンク、ラテン、アニメソングなど、あらゆるジャンルの歌を自分の魂に引き込んで爆発させることができる、稀有な、不世出の、唯一無二の、魂のスーパースター、エンタテイナーへと成長していったのである。

 自分の意識と無意識の感覚が、並行してこれほど激しく心を揺さぶり迫ってきたのも初めての経験だった。その正体がわからないので、動揺は半年以上も続いた。

 意識下では、西城秀樹さんは生活の一部ではなかった。無意識下では、西城秀樹さんは、自分のアイデンティティの土台を大きく占めていたことが痛いほどわかった。

 イトコのお兄ちゃんのような暖かい笑顔と包容力、いつもは会えないけれど遊びに来てくれた時は「今日も歌ってきたよ。宿題やったか?トランプするか?」など優しく気にかけてくれる。このお兄ちゃんと一緒にいれば、何も言わなくても自己肯定感という愛の柱に、ふんわりと寄りかかっていられる、そんな存在だった。心の奥底で、絶大な信頼を寄せていたことを思い知らされた。

 後になって、秀樹さんは誰にでも気さくで懐が大きく真っ直ぐな方で、会えば誰もが好きになってしまう魅力の持ち主だったと知り、子供の直感もバカには出来ないと思った。

 秀樹さんの歌を毎日滝のように耳に流し込みながら、はからずもそんな自分の幼少期の原風景を探し当てるような心の旅が、同時並行で行われていたと思う。これは、私の世代に共通するものかもしれない。無意識下の自分を強く抑圧し、幾重にも扉を閉めて大人としての生活を送って久しかったが、遠くの果てにいるもう一人の自分が秀樹さんの歌に激しく反応し覚醒し、猛烈に、大声で意識下の自分を呼び始め、一番向こうの扉を一心に叩き始めた。私はもう一人の自分に再会すべく、泣きながら、手にケガを負いながら重い扉を一つ一つこじ開けていったのである。

 今でも、秀樹さんの歌を聴きながら涙が溢れることが何度もある。しかし今はもう、無意識下の自分と、しっかり抱き合いながら泣いている。イトコのお兄ちゃんの正体を知って、懐かしさと尊敬の間、愛と喪失の間で、今もなお埋まらない空洞を見つめる日々が続いている。ふと、その空洞は宇宙のようなもので、人であれば本来誰もが心に内包している世界かもしれないとも思う。

 40年近く経って、私は秀樹さんに再会した。これは音楽がつないでくれた縁という意味合いだけでなく、忘れかけていた自分の本質をたぐり寄せるという、驚くべき心の変化をもたらした。この体験は、魂のスーパースター西城秀樹さんからの特別なギフトであり、何ものにも代えられない宝物だと思っている。

 それ以降、休日に十数年聴いていなかった昔のCDを聴くようになったり、かつてレンタルしてカセットテープやMDに録音して聴けなくなってしまった音源を購入したりするなどして、生活に音楽が戻ってきた。音楽の聴き方も変わったと思う。うまく表現できないが、魂で受け止められるようになっている。

西城秀樹さんの凄さと、一般的評価の落差

 秀樹さんは、演出側の意図を増幅させ、自ら主体的に参画し、超えてくるアーティストであったと思う。それでなければ、あれほどの長期間、各界の優れた才能がスタッフとして周りに集まらない。一曲ごとに表現の手法は違っても、伝えるべき共感の本質であるところの、人の魂は根っこで繋がっているということを、ごく自然に理解し影響力を持って表現できるので、歌を仕上げる作業の中でも、譜面や歌詞の方から秀樹さんに近づいてくるようなところがあったのではないかと思う。

 私は青春時代以降、様々なジャンルの音楽に触れ、それぞれの良さ、素晴らしさを知る機会を得た。また私事ながら演劇を学び、演出や言葉に感情を含ませて伝えるという作業に粉骨砕身した時期もあった。その後、スーパースターの秀樹さんに再会した。今秀樹さんがいないことは本当に悲しいけれど、だからこそそのずば抜けた才能を、自分なりに分析理解する作業ができることに、感謝しなくてはいけない。

 子供の頃、みんなが秀樹さんを真似ていた。秀樹さんの歌唱法を真似て、大成したシンガーが多いということも後で知った。今、真似をして歌いたいと思うシンガーがどれだけいるだろうと考える。特徴のある歌い方、表現というのは、本人が本人性を深く厳しく追及していった形態、姿に他ならず、好みは別としてリスペクトすべきものだと思っている。その特徴は、その人がその人である証なのである。

 真似をしたくなる心境というのは、人間というのはこんな表現も出来るんだ、という驚きや感動から始まる。新しい世界の提示に反応するからに他ならない。その表現から共感と共に受け取る追体験を、真に自分のものにしたくて真似る、声を出す、動いてみる。簡単に上手くいくこともあれば、そうでないこともある。そうでないことが多くなればなるほど、あいつはすごい、という事になってくる。追いつきたくて、また自分独自の表現を追求したくて訓練を始めるものも現れる。

 『メロディーを声にして歌う』。誰でも簡単に出来ることのように思われがちだが、音楽における超絶技巧とは、クラシック、ジャズの世界や、ギタリスト、ドラマーだけのものではないと、秀樹さんが教えてくれた。分かりやすいコブシやファルセットだけの話ではない。この偉大なシンガーが、リズム感、強弱、ビブラートや発声、緩急、唸り、囁きなどを効果的に秒速で変化させる歌唱法で、ここまで深く多彩な表現ができるという事実を、日本の音楽界は認めて来なかった、大局として気づくことすらしてこなかったのではないかと思う。個別のジャンルの中での話、という捉え方をして、一人の歌手の総合力として見ようとしなかったのではないか。一部でロックやバラードなどの素晴らしさが知られていても、全体の評価としては秀樹さんを歌謡曲というジャンルの中に押しやって、放置してきたのではないか。

 そして、歌謡曲というジャンルで本流とされる音楽が、80~90年代以降ジワジワと、音を立てて二流化してしまった事に、言いようのない寂しさ、悔しさを覚える。一般的な秀樹さんの評価はそれ以降、「歌謡曲」という実態のない、すでに形を変えてしまった枠の中で留まっているかのような錯覚と共にあった。それが秀樹さんに、私たちに、どれ程の損失を与えたのだろう。

本当の西城秀樹さんを知って欲しい

 西城秀樹さんが亡くなった直後の報道では、闘病中の映像が繰り返し放送された。「歌謡曲」の次は「闘病する昭和のスター」というレッテルが貼られたようでもあり、昔からのファンの方々がこの流れに猛烈に反発されていたのが記憶に新しい。私も、秀樹さんの多くの功績を知るにつれ、安直な設定におもねるメディアに閉口するようになった。

 とは言え、脳梗塞のあと以前のように歌えなくなってからリリースされたアルバム「心響」は、壮絶なまでの迫力で編成されていてどうしても触れたい。実際、私はこのアルバムを聴くのが辛く、長く棚に飾るのみの期間もあった。

 この時期の「技術で歌えなくなったから心で歌うことにした」「話すのは辛くても歌ならスムーズに言葉が出る」との秀樹さんのコメントは、万人の胸を打つだろう。それは、あれほどの高みで歌を操ってきた秀樹さんの言葉であるからこそ、天才の深遠を見るような計り知れない感動を呼び起こすのだと思う。

 傷ついて足を引きずりながらも、一条の光を探してもう一度顔を上げる男の姿「蜃気楼」を歌い上げる秀樹さんには、かつて「若き獅子たち」で太陽に向かい前進することを誓った青年の姿が重なり、まるで映画を観ているかのような神秘的な光景が浮かび上がってくる。例えようもない力で、見るもの、聴くものの心を丸裸にし、私たちには前進する以外の選択肢は見えなくなる。「ヤングマン」で力強く逞しく先導してくれた秀樹さんの躍動する背中すら、彼方に見えるようでもある。

 今、新たに秀樹さんのファンになった若い世代の方々には、これほど素晴らしい歌手が、当たり前のように毎日テレビの中で活躍していた時代があったことを知って欲しい。そして、音楽のすべてを体現できる秀樹さんの歌の全体像をフルで浴びられる幸せに浸って欲しい。秀樹さんを入り口に、世界のさまざまなジャンルの音楽をたくさん聴いて、秀樹さんがいかに優れたアーティスト、エンタテイナーであったかを多層的に感じ、行ったり来たりしながら愛して欲しい。そして、音楽を目指す心意気がある方々には、音楽をもって聴衆と共感できる可能性は、探せば無限にあることを忘れないでいて欲しい。

 私は、40年近く秀樹さんの本当の姿に気づけなかった。なぜ?私がある時期から日本の「歌謡界」に興味を失ったことが大きい。ひいては「歌謡界」というレッテルに支配されていたことが要因だと思う。

 人間はレッテルを貼るのが好きだ。仲間を見つけやすいし、好きに優劣をつけて自己満足が出来るし、洗脳しやすいし、簡単な商売だって出来る。自らのレッテルを死守して排他的な行動に出る段階に至っては、選民思想か利益・既得権を守ろうとする姿に他ならない。

 ただ、恒常的に脱皮を繰り返す真のアーティストは、捕まえたと思ったらもうそこに居ないのが常だ。加えて、安易なレッテルに安住せずとも、彼らの本質は揺るがない。

 これもすでに多く語られていることだが、秀樹さんは、音楽における時代の流れを実に柔軟に見渡していた。古いもの、新しいもの、日本のもの、海外のもの、全てに心を合わせ、感性に合うものを区別することなく選び取り、いとも簡単にこなしているかのように提示してくれていた。一緒に楽しもう、と。まさに音楽を通じて世界を繋ぐ担い手・歌手として、膨大な量のプロフェッショナルな仕事をやってのけた。病気さえなければ、さらに深い人生の極みを、新しい景色と共に見せてくれていたに違いない。

 秀樹さんと同世代、または秀樹さんを導いた立場におられた音楽業界の方々の中には、すでに現役を退いた方もおられるため多くは望めないことは百も承知だが、今こそ、ジャンルや方向性、過去のしがらみといった枠を取り払って、西城秀樹さんという広島が生んだ超一流シンガーの偉大な足跡を、広く、明確に残していく作業、歴史に刻みつける作業に、堂々と着手されることを望みたい。

 西城秀樹さんは、音楽的に非常に優れた歌手であっただけでなく、苦境にあっても新しいアプローチはいくらでも自分の力で作り出せるという強い示唆に満ちた存在だった。それこそが、新しい世代に引き継ぎ残していくべきメッセージであり、若い人々の可能性を引き出す力たりえるものと確信している。

最後に

 私は西城秀樹さんに再会して、もう一度無意識下の自分と手を繋いで、もっと自分を信じ、自分が好きと思えるものに正直でありたいと心から思った。

 役者は演技で100%表現しろと言われる。後付けの言葉で説明したり補ったりしなければ成立しないものは、完成形ではないと。音楽家は音楽で、画家は作品で100%表現すべきで、表現に携わる方々は、みなそれを目指していると思う。

 その表現そのものをしっかり感じ、信じたい。見たくないテレビは消せばいい。友達に付き合って、自分を騙さなくていい。本当に、心にウソはつけないと悟った。もう二度と、レッテルや大衆扇動的な後付けの言葉に、参考にこそすれ踊らされてはいけない。

 秀樹さん、ありがとう。あなたを、決して忘れない。

 これからも新しい世界を見たり聴いたりする勇気を持っていたい。秀樹さんが、愛すべき好奇心を持って自分を信じ、生き様もろとも人間を拡大していったように。

 柔軟でいたい。既成のジャンル、方向性にとらわれることなく。排他性を一旦横に置いて、本質でまとめ上げる達人であった、秀樹さんのように。

 そして、前を向く人でありたい。
 これからは。


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 最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

 秀樹さんの過去の映像、音源、記事やエッセイ、思いなどを惜しみなくネット上に提供してくださった多くのファンの方々、そして天国の西城秀樹さんに、精一杯の愛と感謝を捧げます。

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2019.11.5:
Twishortからの転載にあたり、わかりづらい年月表示、他一部の表現を修正しました。

Twitter元記事:
https://twitter.com/htreiko/status/1131274744387424257?s=21

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