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創作に役立つ用語辞典『トゥキディデスの罠』(後編)

紀元前5世紀に古代ギリシャで起きたペロポネソス戦争のように、新興国の存在が覇権国を脅かすことで戦争の危機が高まる――国際政治学者でハーバード大学教授のグレアム・アリソンは、この現象をペロソネソス戦争に従軍した歴史家の名に因んで『トゥキディデスの罠』と呼びました。

この『罠』は別に戦争のような大事に限らず、あらゆる場面に潜む普遍的なものです。前回の記事では「追われる者」が"不安"に陥る例を挙げましたが、いずれも当事者が抱える"本音"を表に出さないケースでした。本人も、自分の不安がどこから来るかわかっていないこともあるでしょう。

しかし、本音を隠さないケースもあります。

例えば、移民や外国人労働者を嫌ういわゆる「排外主義者」。彼らは、堂々と「自国民の地位喪失(仕事を失う)の危機」をその理由として訴えます。いったい何が違うのでしょうか?

同盟者の影響

違いは、同盟者の存在にあります。

台頭する新興国アテネに不安を抱いた覇権国スパルタですが、いきなり戦争を始めたわけではありません。軍事対決に慎重だったスパルタは当初、静観しようとしたのです。

しかし、アテネは単独の国家ではなくデロス同盟の盟主であり、スパルタもペロポネソス同盟の盟主。強大な同盟に属していても、それぞれの同盟諸都市は自信をもって脅威を退けられるとは思えませんから、盟主に対して"対応"を求めます。そうして"そそのかされた"盟主は、同盟者への"信頼"のために立ち上がるしかない状況に置かれていきます。

「転校生がなんだかムカつく」ということはあっても、ひとりでできることは冷たく接することくらい。ところが「あいつムカつくよね」と言い合える仲間が見つかれば、「あいつのこと無視しようよ」という声があがり、そして仲間とのつながりを維持しようとその提案を受け入れ、やがて行動がエスカレートしていくことは説明不要でしょう。

ひとことで雑に言えば「集団心理」に過ぎないのですが、集団心理はかなり遠目に客観視して「集団の中身を見ない」用いられ方をする言葉なので注意が必要です。たしかに現実ではなかなか集団の中身は見えませんが、だからこそ創作では、集団の中身に存在するロジックを見せることが重要になると言えます。

また、集団を大雑把に捉えることで実体以上に「大きな存在」と見なすことは不安を高めることになります。これはこれで、『トゥキディデスの罠』に深く関わる要因とひとつとして活用できることでしょう。

自信と不安のジレンマ

脅威が迫っているとき、自信がない人は不安に陥りますが、自信がないので行動できません。逆に自信がある人は不安に陥らないので、行動の必要性を感じません。脅威は存在していたとしても、はじめはこのような"静"の状態にあります。これは現実でも創作でも同じで、"静"から"動"への変化にはそれなりの理由が必要になります。

その理由のひとつとして挙げられるのが、同盟者が不安当事者に与える"自信"です。ただし自信には、ふたつの方向性があります。ひとつは"不安を解消"するもので、これは事態を平和に向かわせることでしょう。もうひとつは"行動を支える"もので、これは事態を争いへと向かわせます。

あるいは不安の解消も無理だし行動を支えられない、つまり"自信を与えられないケース"もあるでしょう。この場合、同盟には"ほころび"が生じることでしょう。

フィクションでは"動への移行"を見たい

『トゥキディデスの罠』を知り、緊張を招く"事態"の背景にジレンマが存在することを意識すると、フィクションにおける世界設定や登場人物の設定に必要なことが浮き彫りになります。

主題が戦争であれ恋愛であれ、なにかしらの"火種"があり、行方を決定づける当事者がいるところまでは"静"であり、背景です。

そこに物語を"動"へと移行させる要因が現れ、物語は動き始めます。その役割を主人公が担うこともあれば、別の何かによって引き起こされることも。

そして創作では、現実では見えないことが多い"静"から"動"へと移行する瞬間やその理由がきちんと描かれることが重要になります。"静"の状態を見せることで、小説やマンガの読者、ゲームのプレイヤー等の観客は"動"を予想し、それが当たって喜んだり、外れても道理に合った説明がなされることで納得し、感心します。しかし、予想が外れて納得できなければ「つまらない」という気持ちになるのも無理のないことです。

とはいえ、予想があたってばかりの作品も「観る価値ない」と思われることでしょう。いかに要所で予想をはずし、それでいて納得してもらうか――それが重要ですが、残念ながらその方法について簡単な答えはありません。世の中にはすでに多くの名作が存在し、様々な展開が"既存のもの"になっています。

それでも、この記事を読んでくれたあなたが、これまでにない名作を生みだして、フィクションの世界を『トゥキディデスの罠』に陥れる新興国となることを期待しています。また、良き同盟者との出会いも。


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