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なぜ『ゲーム性』の議論は忌避されるのか(後編)

前編では、RPGなど"静的なゲーム"が念頭にない人とは前提が異なる、ということを考えてみました。

逆に"動的なゲーム"は、アクションゲーム(全般)です。ただ、静的なゲームと動的なゲームを分断させて「混ぜるな危険!」みたいなことを言うのは違います。好みや前提が異なるからこそ、議論を成立させるために相手が何を前提にしているかを探っていきたいところです。

アクションゲームが好きな人のなかには「ゲームとは、(プレイヤーである人間の)能力測定器だ」と言う人がいます。こういう意見は静的なゲームを好む人からはあまり聞こえてないので貴重です。実はゲームに求めるもの(のひとつ)は表面的なアクション要素ではなく、"能力発揮の機会"だとわかります。

動的なゲームなら、もちろん反射神経でしょう(結局アクション要素を求めていますけどね)。静的なゲームも推理力・洞察力などを発揮する機会があります。「うまくいくかわからないけど、やってみたらうまくいった。うれしい」というのが他の分野では味わえない「ゲームならでは」の特徴であり、ゲーム性と言えるかもしれません。

ただ、映画や小説でもミステリーなら自分の推理力・洞察力を意識できますよね。反射神経だってスポーツで活かせます。

前編では「"ゲーム化"されたものを、ゲームに含まない意識があるのでは」ということを書きました。ただ、これは逆に見れば「ゲームとは、すべて"何か"をゲーム化したもの」と考えることも可能です。

結局、「ゲーム性」という言葉はその定義をはっきりさせたところで意味するところの範囲が広すぎるうえに、(たいてい)わかりきったことに着地します。ゲームについて語り合うのは楽しいことなので、もしも話のなかで「ゲーム性」という"大きすぎる主語"が出てきてしまったときは、ちょっと分解してみて、なにが求められているかを探り合いたいところです。

ただ、この「なにが求められているか」を探るのに必要なのは瞬発力ではなく洞察力です。「○○にはゲーム性が足りない」などと言われてイラッとしても、そこはRPGなどの静的なゲームを好む人が議論をリードしていけたらいいなと思います。

またクリエイター・表現者なら、議論にならずとも、ひとが何を求めているかを知る機会を大切にしていきたいところです。

ゲームは特に、たくさんの人に遊んでもらうために「アレもあります! コレもあります!」と時に相容れない要素を組み合わせて詰め込んでしまうことがあります。

例えば、"能力の発揮"を楽しみたい人でも、それを他者と競い合いたいかどうかはまったく別の話です。あくまで「自分との戦い」を楽しみたい人に、他者と競い合うことを強いるのは、とんでもないハラスメントだと言えますが、これについては(長くなるので)またいずれ別の機会に考えたいと思います。


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