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次期主役機はプロパガンダムか(前編)

TVガンダムの新作『水星の魔女』の評判がよさそうだったので、観てみたんですよ。ガンダムシリーズには珍しく、感心をもって第1話を観られました(微妙な言い回し)。

2022年という年は、歴史の潮目が変わったことを、よく感じさせられる年だなと思います。

ぼくが団塊ジュニア世代のオッサンで、ガンプラ世代。ここで「ガンダム世代」と言わないのは、初代ガンダム放送当時はたしか幼稚園児で、小学生低学年のころに再放送を観たけどまともに内容を理解できなかったから。おもしろくはなかった(直球)。でもガンプラは好き、アムロうざい(うざい、という言葉は当時使われていなかったけど)という感じ。

小学生当時、ガンダムの初回放送から時間はたっているけど再放送は続いており、友達と家で遊ぶときにはなんとなくTVで流れていて。でも、内心「もういいか」と思っていて、誰も観ていないことも。

ガンプラブームの方はもう少し続くんだけど、あくまで一過性のもの。『マクロス』(1983年)の登場で完全に上書きされてしまいます。『マクロス』のおかげでプラモブームは続き、近所の模型屋さんも生きながらえはするものの。

目に見えてガンプラ市場が細まっていった1985年、続編の『Ζガンダム』の放送が始まります。楽しみにしていたのですが、主題歌の雰囲気の違いに不安を覚え、ストーリー的にも関心を持てず、2話目以降を観ることはありませんでした。

翌年、さらなる続編『ガンダムΖΖ』放送。あとで知るけど『Ζ』が(初代も)不評だったため、「子どもも楽しめるように」と舵をきったらしい。でも当時中1のぼくに『ΖΖ』はバカらしい作品に思え、1話きりでさようなら。前作『Ζ』から直接つながっているのも「入りにくい」要因でした。

次にシリーズ作品を観たのは、ずっと時間が過ぎてから。

ガンダム20周年の機会に制作(が発表)された『∀ガンダム』も1話目はべつにおもしろくなかったけど、なんとなく見続けたら楽しめました。今では『Ζガンダム』と並んで、シリーズのなかで1・2を争う好きな作品です。

「いやまて、あんた『Ζ』は"1話切り"しただろう」

と、いかがわしく(?)感じた方は少なくないかもしれません。『∀』が良かったので、その後見返したら『Ζ』もおもしろかったというだけのことなんですが、「1話切りしておいて、よく見直す気になったね」と呆れられるのもわかります。

でも、これにはわかりやすい背景があります。ファミコンブームです。

『Ζ』初回放送時の1985年には、ファミコン(1983年発売)が子どもたちの間にすでに浸透しており、ぼくも手に入れたばかりのころ。「よほど惹かれるものがなければ、ファミコンで遊べる時間をアニメには費やさない」と思うのは当然です。今では"1話切り"といえば駄作をぶった切る悪意のレッテルみたいなところがありますが、当時の1話切りは、それほど深刻なものではないわけです。ファミコンの"魔力"が最高潮のときですからね。

逆に言えば、『Ζガンダム』の不評は、あくまで「あの空前のファミコンブームには勝てなかった」ということが最大の要因。ガンダムの不幸は、こうした背景が正しく伝わってこなかったことにもあります。

当時、ぼくらより年上のお兄さん方は、初代ガンダムも、『Ζ』も理解でき、楽しみ、そして彼らは熱狂しました。まあ「オタク」と呼ばれることになる元祖ではあり、その「オタク」に認められても仕方ない、という見方もあったと思います。「オモチャ」であるプラモデルに手を出す比率は子どもより低かったでしょうしね。メディアミックスなんて言葉ができるのはずっとあとのことですし、アニメをただ楽しむ層というのは、スポンサーの玩具メーカーとしては大してありがたくないわけです。

一方、ガンプラブームがまったく再燃せずに来たのは、メカデザインの問題でしょう。初代ガンダムと『Ζ』以降では、センスがかなり違いますからね。ガンプラ販売に結びつかなかった『Ζ』(以降)のメカデザインとそのデザイナーが神格化され、その後踏襲されていったのは不思議なことです。作中に出してしまったからには、続編でも踏襲せざるをえないという側面もあるとは思いますが。

このあたりの齟齬は、『Ζ』を放送当時から楽しめて、そしてメカデザインに影響された世代の(その後の)発言力の強さが影響していると思われます。いちはやく大人になった彼らは周辺業界に身を置いて、シリーズ長寿化に貢献する一方で、同時にシリーズの将来性に暗い影を落としたのではないでしょうか。スポンサーへの忖度を通じて。

まあ、昔のサンライズなどのアニメによくある"角柱"を組み合わせたロボットが、当時ですら「ダサイ」「カッコ悪い」と思われていたのはわかります。だから、ガンダム自体が大きくデザインを変えていったわけですが、ここに大きな落とし穴があります。

それは、主役機であるガンダムには大して人気がなかったということ。

初代ガンダムのモビルスーツは、ガンダム以外は現代兵器を擬人化したくらいのデザインになっていて、いわば「地に足のついたもの」でした。ガンダム自身は例外であり、劇中でも「おおう、なにこの白いの?」という扱いを受ける"浮いたデザイン"になっているわけです。

主役機ではないガンキャノンは世界観に合った重厚さを持つデザインで、ぼくも好きでした。ガンタンクは異形な感じがしてあまり好きにはなれませんでしたが、SFにとって大切な"現在と未来の橋渡し"をする貴重な存在だったと思います。いちいち言葉で語らずとも、表現できているものがありました。

そういう「世界観」に対する評価も根底にあり、ただの「かっこいいロボ」が求められたわけではないガンプラブームだったのですが、メーカーは過度な"主役推し"によって、その逆へ行くことを選びます。ガンダムのストーリー自体は脇役や敵役が支えてきたにも関わらず、です。

ま、ぼくらより若い世代にしてみれば主役機としてのガンダムが"尊重"されるのは当たり前で、「ガンダムとはそういうもの」になっているかもしれません。でも、これって一種の"歴史修正"ではないかと思うんです。

シリーズ前作(?)としての香港

ところで今回のタイトル画像は、香港の民主化運動の中心的人物のひとり黃之鋒(ジョシュア・ウォン)さんが2019年にツイートした当時の彼らの姿を模した姿のガンダムのイラスト(元は香港重機Facebookへの投稿)。

「民主の女神」として知られることになる周庭(アグネス・チョウ)さんばかりが(美人だからというただそれだけの理由で)メディアで多く取り上げられましたが、黃之鋒さんともども日本のアニメが好きな彼らは、香港の惨状を知ってもらうために日本や外国へ向けてメッセージを送り続けていました。

彼らはべつに、彼ら自身が参加している戦いをアニメのようなものと捉えて浮かれていたわけではありません。非暴力で抵抗を続けていた彼らは、香港政府への抗議活動のほかは、実情を外国に伝えて連帯を呼びかけることくらいしかできなかったのです。その手段のひとつとして、かなりのガンダム好きの黃之鋒さんは、日本との共通言語としてのガンダムを用いたというわけです。

その後、残念ながら中国本土の法改正があって彼らは逮捕され、運動は鎮圧されてしまいます。そして、彼らは釈放されたものの、その後彼らからのメッセージは途絶えています。

ガンダムは大人たちの都合で若者が戦争に巻き込まれ、理不尽な運命に翻弄される話として始まりました。香港は内戦にこそ至りませんでしたが、黃之鋒さんや周庭さんはまさに戦いの日々を生きてきた。

日本におけるガンダムへの要求は、簡単に言えば「子どもにウケが悪いから、もっと楽しそうでカッコ良く見えるものにしろ」というもの。決して、戦時中にプロパガンダに使われた『桃太郎』のように、バンダイが戦争を美化しようとしているなどとは言いません。ただ、利益拡大のために結果として「ヤバイ考え」を広めさせようとしてきた側面はあるのではないでしょうか。ガンダム自体はそうでなくても、他のロボットものアニメが影響を受けているのは間違いありません。しかも、都合の悪いことから目を背けた結果、のちのシリーズ作品にも悪い影響を与え、ブランドを棄損してきたように思えます。

――という視点でもって、後編ではもう少し『水星の魔女』について考えていきたいと思います。

え、「アニメと現実の区別がついていない」って? そうですね。でも、そういうの得意なんですよ。

(つづく)


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