【#みらいの校則】自分たちの手で「こねこね」する
ひそかにずっと注目していた、NPOカタリバの「みんなのルールメイキングプロジェクト」。
中学時代の少し苦い思い出とともに、今はどうかなと母校に思いを馳せます。
「校則がない自由な学校です」
小6の冬、中学校見学に行った時に言われたこの一言を今でも覚えています。寒い中、体育館の床からおしりを伝って感じる冷たさまで思い出せます。
そっか、自由な学校なんだ。いいな。
実際、入学したら校則はありませんでした。校則がびっしり書かれた生徒手帳なんてものはなくて、代わりに紙ペラ一枚のカードサイズの生徒証明書がもらえただけ。
私の中学校は生徒の自主自立を重んじる学校ということをウリにしていて、ちゃんと私たちも決まりを守っていました。
…決まり?
校則はないけど、「なんかわからない決まり」はたくさんありました。
靴箱のふちに靴のかかとを揃えるとか、
傘立ての傘の柄の向きを揃えるとか、
制服のリボンのわっかの大きさは指2本分とか、
くるぶし丈の短い靴下は履いちゃいけないとか、
ロッカーに入れたかばんはぺったんこにして10㎝以下にするとか、
運動会のはちまきはカチューシャみたいにしたらダメで、地面と平行になるように巻くとか、
机の上の教科書を置く位置を揃えるとか。
当時の私たちはこれで評価されることが当たり前だと思っていたし、それで来賓の方や他校の先生方から褒められることが誇らしかったのです。
一方で感じる窮屈さ。校則がないのになんでそんなことしていたんだろう。
学校の中の決まりという「聖域」
「なんかわからない決まり」は「わたしたちの伝統」や「わたしたちの文化」という言葉に形を変えて、ずっと私たちの生活を根拠のない規範の中におしとどめていました。誰も本質に触れてはいけないようなものとして。
これ、何のためにやってるのかな。必要かな。
私たちがやっていたことの中で本当に意味のあることは何なのか、みんなで一個一個考え直す機会をつくりたかった。
生徒会選挙に出て訴えてみたけれど、それを当たり前だと思って一生懸命取り組んでいる人たちにとっては、そのクリティサイズはあまり心地のいいものではないから、いろいろなひととぶつかったり、傷ついたりしました。
自由といっても、「今ここにきまりが存在している」ということだけが正しくて、そこから先の聖域には踏み込めない自由だなぁ。ずっとそう思っていました。
「伝統だから」「そうやって今までやってきたから」って、なんて便利な言葉なんだろう。
自分たちの手で「こねこね」する
だから「みんなのルールメイキングプロジェクト」という名前を一番最初に目にした時、思ったのは、「そうか。ルールってみんなでつくれるものなんだ」ということ。
ずっと私が窮屈だったのは、きっと、学校の文化や伝統という言葉の陰で、私たちじゃない「誰か」が決めたことをやらなきゃいけなかったからです。
校則や学校の中の決まりは、ずっと前から決まっていて、石のように硬くて冷たくて、変わらないもののように感じてしまいます。
けれど実際は、手の中にあるねんどのようなものだと思うのです。こねこねしているといろんな形になるし、体温が移ってほんのり温かくなる。
ただポンと手渡される石のような決まりではなくて、自分たちの手で、自分たちがもとめる形を生み出していけるもの。みんなの手で、みんなにフィットするように何度でも形を変えていける。とってもクリエイティブなもの。
みんなでつくる学校の中のルールはそんなものであってほしいなと思います。
そうやってつくりあげられた空間の中で、だれもがのびのびと過ごせる空間が学校だったらいいなぁと思って、私の中学時代を少しだけ振り返ってみました。
みんなで「こねこね」できる学校に、社会になったらいいよなぁ。
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