放送大学大学院(12) 履修した科目
修論指導以外の科目の概要を書いておこう。
■アカデミックスキルズ(必修)マルA
1単位授業。先行研究の読み方などを学ぶ。レポートは、自分の修論作成のために報告した参考文献を題材にしたもの。レポート提出はwakabaからできる。入学最初の半期に履修することにより、研究生活に慣れるまでのペースメーカーになるように思う。
■法律文献購読 マルA
1単位授業。アカデミックスキルズが1単位なので、帳尻を合わせるために履修。法学の学び方の基本を確認する。流し聴きしてれば十分な内容が多いが、ときどき「ハッ」とする。
■経済政策 マルA
合理的な費用対効果論のような経済学の主流の考え方に対して、「不確実性」というものに注目して議論が進む。
中盤の公害(外部性)が特に興味深かった。ピグー税が記憶に残っている。金融政策・財政・税制など射程が広い。
試験は択一である。
■現代社会心理学 マルA
学部の社会心理学とほぼ重複する感じ。当然学部のテキストよりは難しい。試験は択一。
■学校行政と教育行政 マルA
地方自治法や地方教育行政法を知らないとピンと来ない。逆に、地方自治を研究しているので、これは知っておかねばと履修した。人間発達科学プログラムの科目である。
試験は択一6問、記述2問という鬼仕様。
記述の解答は、「政治が教育に介入するのはどうなのか。予算がないという理由で自治体によって教育内容が変わってもいいのか」と書きつつ、国がナショナルミニマムとして責任を持つべき政策分野について論述。
■家族政策研究 マルA
戸籍関係は面白い。「民法出でて忠孝滅ぶ」とは穂積八束先生の有名な指摘であるが、これは「国家と家族を相似形」と見た上で、ボアソナードの議論によって「忠(天皇に対する忠誠)」も「孝(家長への敬意)」も失われるという趣旨である。ちなみに、僕は、畏れ多くも穂積先生に肖りハンドルネームを付けてしまった訳だ…。
試験が戸籍分野の記述。比較的自由に論じることが可能であった。
「戸籍は核家族単位で編成されるので、家人Aの債権者が債務の相続を理由に第三者請求した場合、戸籍に記載されたA以外の者の情報まで開示される場合がある」という趣旨の議論を書いた。他に家族向けの福祉なども扱われる。こちらが試験だったら、成績は悪かっただろう。
■リスク社会と市民社会 マルA
市民参加、パブリックコメント、ミニパブリクスなど。
近時の市民参加を見るにつけ、「法が選挙というルールを用意しているのだから、言いたいことがあれば制度の中で言うべき。選挙に出ずに裏から自分の意見を通すべきではない」という思いが根底にある僕には、厳しい科目であった。
近時の流行の「協働」のような思想に対して、色々と考えさせられる科目である。
■イランとアメリカ マルA
オンラインだけど2単位科目である。レポートが3つ。試験はなし。
課題は結構自由で、どちらかといえば「生徒の個性的な考えを見たい」と、いい意味で面白がってる気配を感じる。この点で、高橋先生とは相性が良く、学部の科目履修生をしていた際も成績が良かった。
社会科学を専攻しているが、実は純粋な学問としては人文科学が好きな僕は、キリスト教関係をチョイスしてレポートを書いた。
■公共政策 A
御厨先生の戦後観が興味深い。戦後の地位回復のあたりとか。その他、政策の形成過程は参考になった。
元知事の話はスキップした。ただし、片山善博氏が地方自治体の議会の様子を「学芸会」と批判していたのは印象に残った。実際に見てきた人だからな。
後半は行政学の色合いが強い。
■福祉政策の課題 A
福祉には批判的なので斜め下から学んだ。
特に「生活保護の受給率が低い」という議論が、平然と進んでいることに強い違和感を覚えた。受給率が低いことは問題ではなく、生活保護水準に該当する者が多いことが問題なのではないか。
試験は記述式。社会モデルについて書いた。
■現代訴訟法 B
入学前に科目履修。民訴、民執、刑訴、行訴のダイジェスト科目。個人的に訴訟法が極めて苦手である。「ブルーパージ」の話が印象的で覚えている。
択一試験が13問。トリッキー。
■公共哲学 C
前半は功利主義、ロールズ、ノージック、アレントなど個別の哲学者。後半は総合・横断的な内容。個人的には科学技術の民主的統制の話が興味深い。
「ゼロリスク要求」「民主主義の誤作動」など、示唆が多い内容である。
レポートはロールズとノージックを比較した。
試験は民主主義について論じた。跋扈するタレント議員、そして「理由のプール」(討議・受容・共通の確信形成のサイクルの蓄積がその社会の価値観を形成していく)について。つまり、タレント議員を選んだ失敗を忘れず、次の選挙は真摯に投票しましょうと書いた。タレント議員批判は、たとえ成績が悪くても決して譲らない僕の生命線である。
■所感
科目は幅広く、それぞれが専門的である。その全てを理解し、記憶することは難しいだろう。大学院の授業は、「授業内容を覚えろ」という性格ではないのではないか。
各研究者の大先輩が、己の背中で研究の在り方を教えてくれるというものなのではないだろうか。僕らは、自分の研究に生かせる限りでそれを自分のものにする、ということが求められているのではなかろうか?
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