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まい すとーりー(12) 我が故郷 昔と今①

霊友会法友文庫点字図書館 館長 岩上義則
『法友文庫だより』2017年夏号より

※写真はイメージ写真です。本文と関係はありません。


故郷の風

 季節は、新緑5月の下旬に入っていた。1年ぶりに帰郷した私が、実家の縁側に腰をおろしてホッとしたときだった。微風というには強すぎる一陣の風が胸に飛び込むように吹いてきた。実家の周辺に低く連なる里山に、今を盛りと咲き乱れる山藤や山ツツジ、さまざまな雑草や土・岩肌をしたたり落ちる小さな清流、それらの香りをふんだんに乗せた薫風が、まるで「お帰り」と迎えてくれるかのごとくに吹き渡るのだった。

 私は、初夏の風を全身に受けながら「これこそが故郷の風だ、今も昔もちっとも変わらない不滅の香りだ」と思いながら胸いっぱいに吸い込んでいた。山河は故郷の象徴だが、おらが故郷のそれは、地元住民の格別な情がにじんでいて、ことのほかいとおしい。
 

山間の隠れ里・出雲

 私の故郷は石川県の能登半島。県庁所在地の金沢を日本海沿いに20㎞ほど北上すれば、半島の根元に当たる羽咋(はくい)に至る。
 さらに海岸線を進むこと約15㎞。そこは、原発の地として知る人ぞ知る志賀町の中心地。それを北東に約4㎞入った山間の集落が私が生まれ育った出雲(いずも)である。
 出雲は、行政区画では火打谷(ひうちだに)に属するが、そこは飛び地の集落で、自治会も別に組織されている。出雲は、最盛期でも35世帯、人口はせいぜい230人といったところか。それが、今や27世帯にまで落ち込んで、人家も人口も減少に歯止めがかからない過疎地になってしまった。

 半世紀をはるかに超える過去を思い起こせば、出雲は隣村とは距離があり、バスや電車も走らず、1軒の商店さえなかった。この集落には1本未舗装の道路が通っていて、それから分岐する数本の小道がある。それに、道路沿いには小規模な田畑と幾筋かの小川を目にすることができた。
 人家のほとんどは、裏山が迫る道路際の傾斜地を均(なら)して建っており、大半が農家だ。農家には、馬・牛・豚・ヤギ・鶏などが、田畑の耕作や食料を目的に飼われていて、人家と家畜小屋が軒を接するように建っていた。どの家も子だくさんで、5、6人は当たり前。道路は常に子供の遊び場で、石けり・縄跳び・コマ回し・野球・竹馬・隠れん坊。当時は事故を心配するほど自動車は通らず、時々のどかに荷馬車や大八車・自転車が通るのみ。だから、道路は1日中子供たちに占領されて、それはそれは賑やかだった。小川のせせらぎはサラサラと爽やかで、そこでは、近所のおばさんが洗濯物をすすぎ、野菜の泥を洗い流していた。
 

目が見えない少年を仲間にした子どもたち

 そんな牧歌的な風景にも目を向けず、遊びにも加わらず、学齢期なのに学校へも行けない少年がいた。ただ、道路ではしゃぐ子どもたちの声には関心が強いらしく、いつも真剣に耳を傾けていた。それは、目が見えなくなって半年経った私のことである。

 3歳の頃、猫の目のような動きをする異常が見つかったと両親は言うが、視力に異変が見られないし、医者までは30㎞、おまけに、時局が戦時下の昭和19年とあっては、成すすべもなく、結果的に終戦まで放置するしかなかったのだろう。
 終戦間もない20年の秋、ようやく名医に巡り合えたものの、脳腫瘍による長期の視神経圧迫で眼球にも萎縮が認められ、腫瘍の除去とともに視神経も焼かれて失明のやむなきに至った。

 さて、そんな私だが、失明後はとても元気な子どもに帰っていた。
 見えないことは明るくはないが暗くもない。家の中で転ぶのもぶつかるのもお構いなしの腕白ぶりが戻った私は、見えていたときの村の風景が明瞭に思い出されてくると、無性に外へ出たくなっていた。見えない生活に対する慣れと健康の回復が暴れん坊本性に力をそそいだ。

 勇気ある一歩を踏み出したとき、道路の少年たちは「あっ! よっちゃんが来た」と歓声を上げた。
 だが、次の瞬間に表した彼らの反応を私は生涯忘れることはないだろう。重い沈黙に包まれてしまったその場の雰囲気のことをである。しばらくぶりに顔を見せたよっちゃんが、よもや目を開けず、視線さえ合わせられない姿で自分たちの前に現れようとは想像だにしなかったに違いない。
 けれども、その一方で少年たちは、予想外の私の元気さと行動の確かさに驚きと安心を感じたのも事実だったろう。目が見えないとは言え、入院前のように木登りをする、コマを回す、ジャブジャブと小川に入る。そうしたことをやってのけるのを見たとき、少年たちは当惑しながらも、何とか一緒に遊べるのではないかという可能性を感じてくれたようである。
 中でも、リーダー格の2人が偉かった。自分たちから進んで遊びに誘うようになり、家まで迎えに来てくれた。そして「これはできる、あれは無理」というふうに、一緒に遊べるものと、そうでないものを見事に選別するのには感心したものだ。私はそのお陰で、上手に泳げるようになったし、竹馬にも乗れるようになった。

 夏の日中、材木を運ぶ荷馬車が通ると、少年たちは私の手を引いて駆け出し、馬車の後ろにしがみつかせる。そこから馬車によじ登るのは私の自力に任される。材木に腰かけて歌を歌いながら1㎞ばかり先の川へ遊びに行くのだが、馬車はそのための交通機関だったのである。

 冬は冬で楽しかった。ソリや雪だるまや雪合戦と、雪国ならではの遊びに興じた。思い出は楽しさだけではない。呵責なく見えない弱みにつけ込んでくるからだ。特に雪合戦では惨めな敗北に何度泣かされたことか。

 出雲の農家ではさまざまな農業が試みられていたが、その1つにタバコ作りがあった。畑で育てたタバコの葉を乾燥させて業者に売り渡すまでが農家の作業である。タバコの乾燥は、昼夜を分かたず24時間行われる。大きな炉で燃やした火で巨大な鉄の窯を高温に熱し、中に吊るしたタバコの葉を乾燥させるのだが、良いタバコに仕上げるには温度管理が肝心。そのため、常に窯番を置いて監視を続けねばならない。1窯乾燥させ終わるのに何日かかるのかは知らないが、1夏中それにかかりきっていたことを覚えている。

 夕方になると、乾燥小屋には、いつの間にか村人が集まってきて、あっちでは宴会、こっちでは将棋というふうに、思い思いの過ごし方が見られる。私も何軒かの乾燥場へ将棋の他流試合に出かけたものだった。
 その頃、出雲では、とても将棋が盛んだった。盲人の将棋は、針金の枠でマスを囲って、触って分かるようにしてある将棋盤と、触って区別できるようにしるしを付けた駒を使うので、私自身がそれを持ち歩かねば相手をしてもらえない。私は互角に戦えたが、時に「ずる」をする子がいる。1つや2つ駒を動かしても、見えないから分からないだろうという浅はかさからの行為だ。
 ところがどっこい、こちとらは棋譜を全部覚えているのである。「ずる」された瞬間、怒りまくった私は、駒を掴んでその子に叩きつけたものである。
 面白いのは、それっきりその子と気まずくならなかったことだ。逆に感心されてしまい、今でも故郷で会う度に、そのときの思い出話を懐かしそうに語りかけてくれるのである。

(つづく)

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