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まい すとーりー(13)我が故郷 昔と今②

霊友会法友文庫点字図書館 館長 岩上義則
『法友文庫だより』2017年秋号より

※トップ写真はイメージ写真です(写真ACより)。
 本文と関係はありません。


 今回は、故郷の物産、静寂の魅力、音風景、それと、私を盲学校へ入学させるよう両親を強く説得した坊守(ぼうもり: 浄土真宗で言う僧の妻)の話を書かせていただく。

思い出深い故郷の味

 能登の物産には山海の珍味が数々あり、近年は、ころ柿と呼ばれる干し柿の一種も、地元志賀町の物産として全国区で知名度を上げている。だが、こと我が集落出雲に限って言えば、物産・名産に値するものは何もないというのが当たっていそうな気がする。
 それでも、個人的には、春の里山で取れるフキノトウ・ワラビ・ゼンマイ、夏のスモモに山ブドウ、秋のしば栗やイチジクといった山菜や木の実は、この年になっても、なお忘れられない味わいである。

 ただ、私は偏食が激しかったので、食べ物に関しては嫌な思い出も多い。裏山の畑はネギや人参・ごぼうがよく穫れたが、それらを毎日のように「これでもか・これでもか」と食べさせられたのには本当にまいった。特に、ネギが入った料理は吐き気がするほど嫌いだった。
 今でこそ冷ややっこにネギをちらし、焼き鳥もネギまを好んで食べる。しかし、当時は「こんなにネギばかり食わされるのなら畑を踏み潰しに行こうか」と本気で思ったほどネギを憎んでいた。

 それに引き換えめちゃ好きなのが秋に産するイチジクだった。今都会のスーパーに並ぶそれは小さくて堅くて甘みが少ないが、故郷のイチジクは全てがその反対で、「ほっぺたが落ちるうまさとは、このことか」と唇を真っ赤に染めてかぶりついた好物だった。

懐かしい音の風景

 話を村の音風景に移すが、これにも特筆するようなものがあるわけではない。
 少年たちの騒ぎ、牛や馬や鶏の鳴き声がするといっても、田舎ならどこでもおなじみのものだし、のどかで平凡で、周りが静か故に耳につくだけのことである。騒がしいか静寂かを決めるのは、単に騒音の量とか質ではない。音の性質を騒音にも快音にも変えるのは、空が広いこと、草木の緑が豊富なこと、構築物が多い少ないといった要因が影響していると思う。
 我が故郷は、その静寂の要因が全て揃った谷合の村なのである。そんな村で私がお気に入りの音風景を二つ披露しよう。

 その一つが、山奥から聞こえてくる木挽が引く鋸の音。ギーコギーコという単純そのものの、眠気を誘うような真昼の子守歌が、風に乗って聞こえてくると、田舎の静けさが一層際立って、ことのほか好きな音だった。
 それに、山鳩の「デデッポー」が伴奏を添えれば、まさしく陸の孤島と呼ぶにふさわしい別世界になるのであった。

 もう一つのお気に入りは山鳥の羽音である。ここで言う山鳥とは、山に居る鳥全般を指すのではなく、キジ科の一種でその名をもつ固有種のことである。雄は尾羽根が極めて長く、竹節状の横帯のあるのが特徴。その尾羽根によるらしいが、一たび羽ばたけば、まるでオートバイが走り出したかと錯覚するほどのすごい音を発する。

 少し横道にそれるが、羽音のすごさで付け加えたいのがオオジシギという夏鳥のこと。シギの一種で鳩大の大きさ。オーストラリア辺りから来る渡り鳥。こちらは、羽ばたいて上昇するときの音より、繁殖期における急降下しながら存在を誇示するときの、尾羽根を開閉させる音がすごい。最初に「ズビャズビャズビャー」というような音をたてた後、「グァグァグァグァグァグァー」とでもいうような羽音で締めくくる。雷シギと別称されるだけあって、驚くべき羽音をたてる。

 また山鳥に話題を戻すが、話によれば、山鳥は、しばしば蛇の襲撃を受ける。そのときは、覚悟を決めて蛇を全身に巻き付かせる。そうしておいて、締め付けられる寸前に、乾坤一擲(けんこんいってき)、強力な羽根の一振るわせで、瞬時に蛇をちぎり飛ばしてしまうのだという。
 羽音のすごさと力のほどは、蛇の話で十分に納得できるものである。この鳥は、本州・四国・九州に広く分布して住んでいるが、今日の我が故郷では、山が削られ、伐採も進んだことから、見ることも聞くこともめっきり少なくなってしまった。

 

心強い羅針盤になってくれた坊守

 さて、坊守の話を語ることにする。私の目が見えなくなって一番落胆し、行く末を案じたのは言うまでもなく両親である。しかし、それは、どちらかと言えば、おろおろするばかりで、目の見えない我が子をどのように育てるべきか、どんな未来を開いてやるべきかといった前向きな要素がにじむものではなかった。
 それに対して坊守は、両親の心配と障害の深刻さを冷静沈着に受け止めた上で、心強い羅針盤になってくれた人である。

 私の行動半径はドンドン広がり、村の少年たちが学校へ行ってしまった日中でも、岩場で沢ガニを捕まえたり、木や竹に上ったりして暇つぶしをしていた。それを、実家にほど近い浄厳寺(じょうごんじ)という寺の坊守が優しいまなざしで見ていたらしく、私に声をかけるようになっていた。

「今日も来たかいな。けがをせんようにのう」

 そんな言葉が繰り返されるのだった。この言葉の陰には「このまま年月が過ぎていったのでは大変なことになる。1日も早く手を打ってやらねば、この子の未来に悔いを残す」という深い憂いと思いやりがあったのだろう。

 その坊守が、ある晩両親を訪ねてきた。
 私は別室へ遠ざけられたが、結構話声が漏れてくる。盲唖学校がどうとか、役場の手続きがどうしたとか、勉強させるのがどうのこうのという会話の端々が聞き取れた。
 そのときには、盲唖学校といっても何のことやら理解できない私だったが。話の途中から母が泣き出している。
「8歳にしかならない子を、どうして親元から離せますか」と次第に涙声が強くなる。坊守の方は叱るような、きつい口調になっていく。ひょっとして、私のことで3人が言い争いを始めたのかと、むずむずしてきたが、一向に話の筋が読めない。

 結局、坊守が我が家に来た用向きは
「私を金沢の盲唖学校に入学させた方がいい」
「一切の手続きは村役場でできる」
「盲唖学校から遠い家庭の児童には寄宿舎が用意されている」
の3点だったようだ。
 それからの家族はハチの巣をつついたように「駄目だ・嫌だ」の大騒ぎになったり、反対に、お通夜のように沈痛な空気に変わって、シクシク泣く者がいたりして大変なことになった。
 当の私は、村の少年たちが次々に、小学校へ入って勉強や体操の楽しさを語り聞かせるので、うらやましかったときだけに、盲唖学校行きの話はとてもうれしかった。
 学校へ行けたらみんなと同じになれるんだ。勉強ってどんなものか分からないけど楽しい気がした。しかし、両親の迷いはどこまでも深く、簡単に決断できるものではないらしい。近所に住む叔母などは、私に取りすがって泣いた。

 これが家からの通学なら何の問題もないのだが、学校と家が、通学が叶わない距離にある家庭の場合、同じ石川県内とは言え、金沢はあまりにも遠い所に思えたに違いない。
 それもそのはず、当時の交通機関は、スピードの遅い汽車であり、2、3時間に1、2本しか走らない上に乗り換えに手間もかかった。我が家の最寄り駅が粗末な小屋程度の無人駅だった。しかも、最寄り駅と我が家の距離は歩いて40分もかかる長さである。
 それだけに、「かわいい子には旅をさせろ」という格言を知っていたにせよ、実の心境は、子供を外国へ送り出す以上に大きな心配に悩まされていたものと想像される。

 坊守の信念は固かった。親の心情に涙を流して同情しながらも「このままもうしばらく」と言う家族の安易な考え方には頑として耳を貸さなかった。

 坊守に究極の自信を与えたのは、私本人が学校へ行きたがる意思を示したことだった。だから、2回目の訪問は、もはや相談や説得ではなく、命令口調になっていた。

 その折、坊守が私を評して言った言葉が今も頭にこびりついている。
 それは「この子は我高な子やからきっと勉強も頑張るし、良い社会人にもなれるだろう」というものだった。

「我高(がだか:方言) な子」とは「自我の強い子、自己中心的」という意味が濃いから絶対に褒め言葉ではない。「我高い」は、日頃母親にも言われていて知っていたが、常に悪い意味で言われていた。
 それが「我高いから勉強も頑張る」「我高いからいい社会人になれる」というのだから、あながち悪いことだけでもないと察した。でも、どういうことだろうと子ども心にも深く考えたのを覚えている。そして「自分を我の強い子どもと見ている人が母以外にもいるんだ」という事実を知ったのもショックだった。
 しかし、坊守の「我高い」は、後になって、私の生き方に大きな示唆を与えるものになった。言い方を変えれば、私の生き方にアクセルとブレーキの踏み分け方を教えてくれた一言であり、その意味でも浄厳寺の坊守は大恩人・感謝の人なのである。

 

石川の盲唖学校へ

 親にあれほどの心配をかけ、近所の人をも悲しませて盲唖学校へ入学した私だったのに、実は、いつまでもホームシックが消えず、故郷に未練を残してメソメソしたのは、だらしなくも私自身だったことを告白しなければならない。

 昭和25年4月6日は、自分を最も辛い思いにさせたメモリアルの日として脳裏に刻みつけることになった。
 その朝、村中の人が総出のようにして私を送りに来てくれたが、私の涙は止まらない流れになってしまった。歩き出す気力も出ない。
 その点、いざ覚悟が決まれば母親は強かった。
 私が泣きじゃくろうが動くまいと抵抗しようが、まるで罪人でも引き立てるかのように、力ずくで私を引きずって駅へ向かった。
 マッチ箱と称された小さな汽車がカタカタと線路を響かせて停車したとき、「乗らないよ」と絶叫するのも何のその、父親と2人がかりで、強引に車内へ押し込んでしまった。汽車は無常に走り出し、2時間後には、しとど春雨の降る金沢駅に着いた。
 そこから寄宿舎までは市電に乗って15分、迎えに出てくれた寮母さんも、「こんなに泣きながら来た子を見たことがない」とあきれたり笑ったりしていたそうである。

 これで済むならかわいい物語りで、めでたしめでたしだが、私の未練はしつこかった。寝付けない、食べられない、微熱が出るなど、さんざんな入学になった。そして、いつまでも愚痴っぽく思い続けたのは「どうして自分から進んで学校へ行くなどと言ったのか」という悔いばかり。

 この種のみっともない話は山ほどあるのだが、さすがに、これ以上書くのは、たとえ子ども時代のこととは言え、私の名誉に関わる恥になるので控えねばなるまい。
 ただ、自己弁護のためにあえて言えば、程度の差こそあれ、遠くから来る視覚障がい・聴覚障がい児は、みんな寄宿舎での夜を泣き明かした経験者であることを付け加えておきたい。
 弱視の子の中には脱出を試みる者もいたし、聴覚障がい児は普通に目が見えるから逃げ方も上手で、とんでもない遠隔地で警察に保護される例があった。

  望郷の念は、時を経るほどやみがたく、帰郷の機会も人一倍多い私であるが、次回は、今日言うところの共生社会の先駆けは、我が集落の出雲に発しているのではないかと思える村人の熱い人情について語ってみたい。

 

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