井筒俊彦『イスラーム文化―その根底にあるもの―』

はじめに

本記事は、私の学生時代のレポートをそのまま掲載したものだ。講義は宗教学。レポートのテーマは、はっきりと覚えていない。ただ「本を1冊選び紹介すること」が条件のひとつだった。

なお、本来なら他文献等から引用して論拠や問いを補強しなければならないところ、私個人の考えや思い込みで考察を進めている箇所が多々ある。そういうところも含めて楽しんで欲しい。
また、誤字脱字もそのまま掲載している。いかに締切に追われていたか、レポートの内容の稚拙さとともに楽しんでいただければ幸いだ。

なぜ今、学生時代のレポートを記事にしようとしたか。
それは、宗教二世に関する議論について様々思うところがあるからだ。その点についてはタサヤマさんやダッチ丼平さんが、分かりやすいnoteを書かれているのでご参照いただきたい。

これらのnoteを踏まえると、現在の宗教二世を巡る議論や人々の捉え方について、そのスタンスから考え直さなければならないのではないか、と考えざるを得ない。
それは、40年以上も前に井筒敏彦が、『イスラーム文化―その根底にあるもの―』の中で警鐘を鳴らしたもの、そのものではないだろうか。

以下のレポートから、少しでも井筒の懸念を感じ取ってもらえれば幸いだ。

『イスラーム文化―その根底にあるもの―』井筒俊彦

1.本書を選んだ理由

 近年イスラームに関する話題は事欠かない。今世紀に入ってからでも9.11テロや、イラク戦争、最近ではイスラーム国のテロなど、世界を揺るがす大きな事件が相次いでいる。一方で、私たちのイスラームに対する認識は深まっているのであろうか。恐らく、怖いとか不気味などといった負の感情は多かれど、親しみやすいとか訪れたいなどというプラスの感情は少ないであろう。しかし、イスラーム圏の人すべてがテロを望んでいるわけではないし、不気味な人ばかりではない。私たちはマスメディアから流れる情報を鵜呑みにしてイスラームを見ている。私たちは、イスラームをいかに捉えるべきか。ただ単に、風習や文化、思想をとらえるだけではなく、人間対人間のつながりをいかに構築していくべきなのだろうか。そのヒントを求め、本書を選んだ。

2.講演概要

井筒俊彦著『イスラーム文化―その根底にあるもの―』は昭和56年春に、国際文化教育交流財団の主催する「石坂記念講演シリーズ」の第4回目に行われた講演を、加筆修正し出版されたものである。同財団は、教育面における国際交流を通じて日本と諸外国との相互理解の促進に資することを目的に、1976年に設立された。現在は公益財団法人への移行登記を行い、名称を「公益財団法人 経団連国際教育交流財団」に変更している。本講演は、経済人を相手に講演を行ったものである。それではなぜ、経済界は本公演を筆者に依頼したのだろうか。
まず、経済界側の事情を見ていく。本公演の前後に、オイルショック、イラン革命、イラン・イラク戦争といった大きな出来事が次々と発生している。また、著者も講演の中で言及しているように、国際化の波が押し寄せており、その流れでイスラームも理解しなければならない状況にある。つまり、経済界側の事情としては時局的にイスラームを理解する必要に迫られている背景がある。当然、少しでも日本の経済の利益になるような講演を期待しているはずだ。
一方、著者の井筒俊彦はどのような人物なのであろうか。著者は1914年に東京都に生まれ、31年に慶応義塾大学経済学部予科に入学、のちに英文科へ転進、37年卒業し助手となる。50年助教授を経て54年教授に就任。69年、カナダのマッギル大学教授、75年イラン王立哲学研究所教授を歴任した。79年、イラン革命のためテヘランを去り、日本で著作や論文執筆、講演などに励んだ。主な研究の手法は、思想を含んだ文献の中の世界観を析出することである。講演の中でも、「イスラームという宗教の性格、イスラームという文化の機構が根源的な形で把握されてはじめて、イスラームはわれわれ日本人の複数座標軸的な世界意識の構成要素と知れ我々のうちに創造的に機能することができるようになる(p12)」というように、イスラームの思想文献である『コーラン』からその世界観を析出し、聴衆がイスラームを正しく理解するための材料を提供している。
経済と言語学者という、まったく接点がなさそうな両者を結びつけたものは何であろうか。著者自身、講演の話を受けたときは、全くの異世界である経済界からの話に戸惑ったと後記で述べている。しかし、「文化・教育面における国際交流を通じて、我が国と諸外国との相互理解と友好・親善を増進することを目的」という石坂記念財団の趣旨には根本的に賛成していること、また著者自身が、学術界の極端な専門的傾向に反対しており、学問諸分野の自由交流、白門の国際化、学際化の必要を口にしていた背景もあり受諾した。
ここまで、講演者と聴衆の背景を説明してきた。経済界側としては、イスラーム研究の第一人者の学者からイスラームの正確な姿を教わり、経済活動に活かしたいという、いささか単純な思惑があっただろう。しかし著者は冒頭で、そのような情報は通商貿易に携わっている人、またジャーナリストの方が詳しいと、その姿勢を退けている。そして本公演の意義が、イスラームの構造、全体像、その根底にある精神をとらえることにあるとしている。いや増して急速に進むグローバル化のなかで、私たちはどうしても表層的な面しかとらえることができない。この講演の著者のスタンスは、そのような姿勢を戒めているようにもとらえられる。

3.本書概要

本書の概要を見ていくうえで、まず著者の問題意識を明らかにする。著者の問題意識が具体的に表れているのは以下の部分である。「イスラームとは一体何なのか。イスラーム教徒(ムスリム)と呼ばれる人たちは何をどう考えているのか。彼らはどういう状況で、何にどう反応するのか。イスラームという文化はいったいどんな本質構造をもっているのか(p12)」さらに、それを理解したうえで、「以上のことを的確に、主体的にとらえ、呑み込む必要がある。そうしなければ、イスラームを含む多元的国際社会を具体的な形で構想できない(p12)」と私たち自身の世界観の変革を求めている。最後に、イスラームを理解し、それを踏まえて私たちの世界観を変革することのメリットを以下のように述べている。「イスラームという宗教の性格、イスラームという文化の機構が根源的な形で把握されてはじめて、イスラームはわれわれ日本人の複数座標軸的な世界意識の構成要素と知れ我々のうちに創造的に機能することができるようになる(p12)」これらのステップを踏まえたうえで、初めて「イスラーム文化の枠組みとの新しい出会いの場というようなものを考えていかなければならない(p12)」と、異文化を正しく理解しようとすることは一筋縄ではいかないことを忠告している。本書を貫くテーマでもあり、「イスラームをどのように理解するか」という簡単にできそうなことが、実は難しいことを知ることがイスラーム理解の第一歩と言える。
ここからは、本書の展開を簡単に見ていく。
 1章では「宗教」と題し、前半では『コーラン』の解説を軸に、イスラームに対する典型的な思い込みを否定しながら展開している。特に、イスラームは砂漠文化ではなく、商人の文化であること。それゆえ1つの文化の中に、複雑な内的構造をもつ国際性豊かな文化であることが強調されていた。後半では『コーラン』の解釈の問題を取り上げ、『コーラン』のもととなる神の特徴を挙げていった。特に神と人間との関係が主人と奴隷であり、両者をつなぐものが『コーラン』だということは、イスラームの大きな特徴である。
 2章では「法と倫理」と題し、『コーラン』とイスラーム法の成立史を中心に展開し、イスラーム内部の矛盾的対立を明らかにしている。特に、キリスト教、ユダヤ教との比較を中心に論を展開しており、イスラーム共同体の精神や聖俗不可分、イスラーム法といった、私たちになじみがないが重要な概念を説明していっている。
 3章では「内面への道」と題し、理解しがたいイスラームの精神的側面の解説を軸に展開している。ここでの中心となるのが、ハキーカとシャリーアという、相反するとらえ方であり、これはちょうど密教と顕教の関係に近い。
 以上、本書の展開を簡単に見てきたが、これだけでも独特の文化を形成していることがわかる。また、私たちの常識を捨ててイスラームを理解しようとしなければならないこともわかる。著者は、「イスラームとは何か」という問いに対し、それを考えるうえでの基本的な姿勢を以下のように提示している。「外から客観的に事態を観察することのできる立場にいる日本人は、その中のどの一つがというのではなく、要するにイスラームとはこういうものなのだ、このような相対立する三つのエネルギーの間に醸し出される内的緊張を含んだダイナミックで多層的な文化、それがイスラーム文化なのだという風に考えていくべきではなかろうかと思います(p.215)」と自身の提示した「イスラームとの出会いの場」に臨むにあたる私たちの態度を、以上のように結論付けている。

4.終わりに

本著が上梓されてから30数年が経過したが、「イスラームとの出会いの場」が創出されているとは言い難い。グローバル化、地球市民という言葉は踊れども、その実態は地球規模での西洋化に他ならない。グローバル化がほぼ無条件でよいものとされ、それにそぐわないものは淘汰されるのが当たり前な社会ができあがりつつある。同様に、イスラームに対する理解の深まりも一面的なものにとどまっていると感じる。それは、テロなどの反社会的行為や、断食、礼拝などの私たちの文化では理解しがたい行為を知識として得、そのイメージだけでイスラームを価値判断している風潮である。著者は本著の中で、日本的なイスラーム学の興隆を念願してきた。そのために、イスラーム文化をイスラームたらしめる生きた精神の把握こそが肝要だと繰り返し述べてきた。しかし、現実にそのような土壌は生まれていない
その原因の1つとして、日本人の経済観があるのではなかろうか。本講演は経済界の面々が聴衆として参加したものである。その中で著者は再三にわたり、イスラームの立場からその構造や精神を紹介してきた。当然聴衆にもその姿勢は求められる。しかし、経済界の面々の多くは、イスラームをいかに“利用”できるかどうかしか考えていなかったのではなかろうか。私たちは中東と聞くと石油のイメージが強いように、参加した人々もいかに石油取引で優位に立とうとすることしか考えていなかったのではなかろうか。現在の日本人の価値観は、あらゆる分野において経済に重きが置かれている。そうであれば、現在の日本に「イスラームとの出会いの場」が創出されていない遠因は、飛躍するかもしれないが、この講演会の聴衆の姿勢に如実に表れているのかもしれない。
「イスラームおよびイスラーム文化の正しい理解のためには、概説・概論ふうの一般的叙述も必要であろうけれど、それにもまして先ずイスラーム文化を真にイスラーム的足らしめている生きた精神の把握が大切であると考えるからである」との著者の主張は、現在の日本に欠如している“何か”を示唆するものではなかろうか。私自身もイスラームだけでなく、様々な自身と異なるものと出会ったときに、表面的なものだけではなくその精神性までくみ取れる力を磨いていきたい。

参考文献


・井筒俊彦著『イスラーム文化―その根底にあるもの―』1981、岩波書店

参考HP
 ・公益財団法人 経団連国際教育交流財団HP(2015/1/12)
https://www.keidanren.or.jp/japanese/profile/ishizaka/index.html
 ・慶応義塾大学出版会HP>人文書>井筒俊彦入門(2015/1/12)
http://www.keio-up.co.jp/kup/sp/izutsu/