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ミツバチと私

2024/1/18

ほめです。
ほぼ環境音のみで構築される日常の一幕、淡々と描かれる母と娘の話であり、二人の人生における困難や悩みをまざまざと見せつけられます。
ルシアにおいては体と性自認の不一致からくる戸惑いや、他者にどのように見られるか、思われるかの部分で大いに苦しみますし、
その幼さゆえ自らの生き様を定義することが出来ず、また母に対しての思いやりがある分、なお一層苦しむことになる構図は見ていてつらい。
ですが、そんな中でもわずかばかりの理解者がそばにいてくれたこと、ある意味啓示を受けるということは、大変な幸運でありかつ物語的だなと。
一方でアネの苦悩も大いに理解できます。それなりに有名な芸術家の娘として育ち、同じ道を志すも諦めて母親として生きてきた人であろうということ。
金銭面での苦しさから再起を図ろうとするも、作品づくりの厳しさ、むくわれなさに打ちひしがれる中で、愛する息子の変容ぶりを見て見ぬふりをしてきたこと。
いくら世の中がジェンダーレスな傾向に進んできているとはいえ、その状況に対峙した時すんなり受け入れることができる土壌はまだまだ育っていないという事実。
それでも認めようとする気持ちに切り替わったシーンは、周りの呼び声をかき消す形になり、
この母娘にとって決定的に人生が変わる瞬間として胸をつくものがありました。

水に関するシチュエーションが多く描かれます。
女同士であれば恥ずかしさもなくなるルシア。
恥は他者の目線がないと成立せず、性差の悩みも他人との比較によって生まれます。
ここに洗礼のくだりも相まって、世に生を受ける、祝福されることのメタファーも。
信仰とは確信である、との言葉通り、自身をどう定義するかが決まった夕暮れは、
ルシアという名付けによって一個人が生まれたことを言祝ぎ、かつ伝統の継承として巣箱を3回叩きミツバチに報告する。
この理由付けは展開として唸ります。

とはいえ、本作に対して美しさのようなものを感じてしまうのは、
ソフィア・オテロの外見がなまじ中性的かつ優れているから成立するのではないか、とも考えてしまいます。
性差と同様、美醜も他人を定義する尺度であり、かつ良し悪しを決めてしまうもので、
果たしてルシアというキャラクターがまったく美しくなかったら、どのように感じていたか。
作品が表現しようとしている本質とは関係ないところで評価してしまうかもしれず、これもやはり偏見だよなと思った次第。

エンドロール、川のせせらぎ。
流れ、変遷への余韻がありました。

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