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文字が頭に入ってこない現象について

文字が頭に入ってこない現象とは

今日は久しぶりに、文字が頭に入ってこない現象に出くわした。

私は高校卒業するまで、常に文字が頭に入ってこない状況だったので、まとまった文章がほとんど読めなかった。だから、小学生の時も、中学生の時も、高校生の時の、自らの意思で本を読むということをほとんどしなかった。漫画でさえ読めなかった。

受験前は国語の点数が全然上がらないということで、特にそれについて悩んでいた。結局センター試験の国語も半分ちょっとしか取れなかったので、他の教科でなんとか乗り切った。

大学に入るといつの間にか克服していた。文章がすらすら読めるようになってからは、本を読むのが楽しくなって、自分の興味の赴くままにあらゆる本を読んだ。

調べてみると、文字が頭に入ってこない現象は多くの人が経験しているようだ。

本を手に取り、目次をみて、内容が頭に入ってこず何度も同じところを読み返す。そして疲れて、本を閉じる。https://equal-001.hatenablog.com/entry/2019/05/15/121218

まさにこの感覚である。同じ文を何回読んでも、単語と単語がどう論理的に繋がってるのかわからず。諦めて次の文を読むのだが、それもよくわからず。結局最後まで文字の羅列を目で追うだけになる。

全部文章を読み終わった後には、単語の集まりがばらばらになって記憶に残っているだけで、それらがどう繋がっているのかよくわからないのである。

上に載せた記事では、"集中力が大幅に欠如"しているのが原因だと述べられている。

確かにそうかもしれない。でも、なんかしっくりこない。大学生になるまではほぼ常に文章が頭に入ってこなかったが、常に集中力が欠如していたとは考えにくい。

現象の解明

もう少し調べてみると、手がかりがあった。

英語の試験を立て続けに受けなければならず、毎日のように試験対策の勉強をしていたのですが、あるとき突然英文が読めなくなりました。文章を目で追えても頭で理解できません。
その日から英文だけでなく日本語もあやしくなりました。

試験が、原因なのか?!私の経験上でもテストや受験が近づくにつれて、症状がひどくなる感じはあった。

いや、”試験”という特殊例に限ると考えるには根拠が足りない。

試験対策では"読まなきゃいけない状況"に追い込まれてしまう。読まなきゃいけない状況に追い込まれることが、読めない自分へのいらだちに変わり、集中力がなくなり、より読めなくなるということかもしれない。

私が大学に入って文章が読めるようになったのは、読まなきゃいけない状況に追い込まれることが少なくなったからかもしれない。本をゆっくり読んでもいいし、いつ本を閉じてもかまわないという状況で、少しづつ読める文章量が増えていった、ということかもしれない。

こう考えると、この現象はほぼ全ての人に起こりそうなことである。

たくさん読まなきゃいけないタイミングは誰にでもあるし、誰でもたくさん読むと疲れてきて集中力がなくなるし、誰でも思うように読めなくなると苛立つし、そうなるとより読めなくなるからである。

そうならば、集中力が切れる文章量の閾値や、ある単位の読書量に必要なエネルギーが人によって異なるということなのかもしれない。先ほどの記事にもあった"集中力が大幅に欠如"しているという指摘とも整合性が取れる。

文章を読むのに大きなエネルギーを使う人種や、集中力が切れやすい人種が、この現象に出くわしやすいのだろう。

もう一つ、私自身の経験から示唆されることは、読みたい本を読みたい時に読むことで、少しづつ読める文章量を増やしていけるということだ。

この現象に関するいくつかの記事を参照すると、だいたいこれと同じような改善策が述べられている。

参照:

https://president.jp/articles/-/19933?page=2


この現象を克服するために、もう一つ

この記事で紹介されている

文字を読み直して脳内で考えるのではなく、図上で考えるようにします

というのは、私も受験生の時によくやった。

しかし、この手法は読む文章によって効果がめっきり変わる。

学術論文や科学系の本なら、著者も変数の組み合わせや図形的なイメージを文字に起こしているため、効果がある。それ以外の、言語イメージをそのまま言語に落とし込んでいるタイプの文章は、図上で考えることができないのがほとんど。

私が今まで出会ってきた文章のほとんどは、後者にあたるので、この手法は適応範囲が狭いと言うのが私の印象だ。人によって感じ方は異なるので、何度か試してみるのが良いかもしれない。

ここでなんとなく思ったことがあるのだが、言語のイメージで物事を考えている人と、図形的イメージで物事を考えている人がいて、後者の人は前者の人が書いた文章を読むのに苦労する、みたいな見方もできる。もちろん逆も考えられる。

ここで一つ、私が文章を読めるようになったきっかけが、見えてきた。プログラミングにおけるオブジェクト指向を理解し始めたのが、そのきっかけだったんじゃないかと。

私はもともと図形的なイメージで物事を考えることが多く、文章を読んでいる時も単語と単語を線で結んだり、脳内でベン図を書いたりする。高校生までは図形的イメージで考えるときの道具として、ベン図や2次元空間のグラフなどを持っていたと思う。

それだけだと、言語のイメージで描かれた文章をすらすらと読み解くことは難しい。私自身が文章をすらすら読めるようになったきっかけとして、オブジェクト指向を学んだことが一つのブレークスルーだったような気がする。

オブジェクト指向はベン図における部分集合に、性質や動作を加えたような理論体系だ。図形的イメージで物事を考える人がこの道具を手に入れれば、より複雑な言語イメージを扱えるようになる気がする。

気がするだけであるが、図形的イメージで物事を考えている人は、オブジェクト指向を勉強してみると役立つかもしれない。


そもそも世の中にある全ての文章が最初からすっと頭に入ってくるというのはあり得ない

人によって集中力が切れる文章量の閾値や、ある単位の読書量に必要なエネルギーが異なるということなのかもしれない。

と先ほど述べた。

前項から、読者の思考と文章を書いた人の思考が似ているか、というのも読める文章量に影響していることがわかった。

そう考えると、読書って奥が深い行為だ。読めない文章には、自分の思考とは違った何かが含まれていて、それこそが自分にとって価値が高いのかもしれない。

読める文章は大抵、今まで見てきたものに近いことや、今までに考えてきたものに近いことが多いはずで、あまり新しみは感じられない。今までは読みにくかった文章がすとんと理解できた時に、自分の中で何かが変わり、読書に意味が生まれるのかもしれない。

この記事では文字が頭に入ってこない現象について述べてきたが、そもそも、世の中にある全ての文章が最初からすっと頭に入ってくるというのはあり得ない。読者と著者の思考が全く同じと言うことはないからだ。

また、文章を書く人も全ての読者にわかりやすいものを書くことはできない。人によって思考が違うのだから、ある程度ターゲットを決めて、それに合わせて文章を最適化しなくちゃ伝わらない。

ただ、自分と全く同じような思考をしている方に自分の思考を伝えることにもあまり意味がない。文章や読書に意味を持たせるには、自分と少し違った考え方をしている人をターゲットとして定める必要がある。

この文章が誰かにとって1mmでも意味を持っていたら、とてつもなく嬉しい。











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