コロナ禍と歯医者-20200727

ひさしぶりに歯医者に検診を受けに行った。
定期検診のお知らせを受け取ってはいたものの、連日のコロナウイルス関連の報道を見ていると積極的に街に出掛けようとは思えない。しかしどうも下の前歯の歯茎が疼くような、歯が浮いたような違和感が気になり出したので、ええいままよと重い腰を上げる。

去年の暮れに来た時とはやはり様子が異なり、入り口には消毒液、受付は透明なシートで仕切られていた。診察券やお金のやり取りをする小さな小窓が空いていて、遊園地のチケット売り場のようだった。思えばああいったスタイルの売り場も、自動券売機や無人発券機にとって代わられてしまいあまり見ることがない気がする。

シートは透明なビニール状で、曇りのないキレイなモノなのだが、余計な小話などは受容されないような拒絶を感じた。受付にはいつもお世話になっている衛生士の人がいたのだが「ご無沙汰していました」という言葉はなんとなくそのシートに阻まれてしまった。余計な会話を生まない点においても、コロナ予防には有効なのかもしれない。

待合室は人で埋まっていた。
治療待ちの人もいれば、会計待ちの人もいるようだ。予約した時間の5分前を目指してくるとちょうど入れ替えの時間にあたる訳だから、当たり前といえば当たり前だが、今日ほど人が多いのは経験がない。
およそ半年ぶりの歯医者の待合室で、私はどうも落ち着かず、椅子に腰掛けてスマートフォンのメモ機能でこの文章を書いている。
それも普段座る長椅子ではなく、児童用コーナーの一角にぽつりと置いてあるおもちゃのようなブルーの椅子である。長椅子が満員でやむなくここに座ったのはこれで3度目くらいだろうか。座ったまま手が届く距離にブックラックがあって、前にここに座った時はたしかビールの本を読んだ覚えがある。しかし今は空っぽのラックがただ立っているだけで、本や雑誌は一冊もない。感染対策の一環であろう。
そもそも待合室は予約時間の直前に来てから治療が始まるまでの時間と、治療後に会計を待つ時間くらいしか滞在しない訳だから、席数もせいぜい治療室に入る人数のニ倍分もあれば十分だろうし、余程のことがなければ本や雑誌を読んで時間を潰すヒマもないだろう。それでもここに本棚があるのは歯医者側の配慮といえる。
しかしこの配慮をそのままにしておくと、コロナウイルスの渦中においては感染を拡大する要因となるばかりか、感染拡大の防止を怠っている、怠慢だ、という姿勢にとられかねないのかもしれない。状況に応じて、その時々に沿った配慮が必要なのだな、などと考えてしまう。

普段取り止めもなくぼんやり思っていることも、文章に書くとこれだけの量になるのだなと思う。書き留めなければすぐに忘れてしまうささいなことで、それらは忘れなければ私なんぞの脳の許容量をあっという間に超えて溢れてしまうのだろうな。逆に溢れ出した分こそが忘れているものなのかもしれない。そうすると大切なもの、たとえば思い出とか、銀行口座のパスワードとかは、ものすごい重りをつけて記憶のプールの奥底まで沈めているのだ。それがあふれ出て、忘れてしまわないように。時間が経っても、より大事な思い出や仕事で覚えなきゃいけない事柄に押し出されて上の方に追いやられてきても、なくさないように。
ただその重りの重さゆえ、底からサルベージできずにいるものも多い気がする。それはトラウマかもしれないし、もしくはそれこそが真に忘れていることに他ならないのかもしれない。

かれこれ予約の時間を20分ほど過ぎている。これだけ経っても名前を呼ばれないと、自分が予約なぞいれておらず、この待合室の中の全く関係ない異物、不要因子だったような気がしてくる。もしそうならそろそろ受付の人が異変に気付く頃ではないか、と顔を上げると治療室から名前を呼ばれた。宙ぶらりんだった居心地の悪さは(会計を済ませた人が続々いなくなり、待合室が空いたことでとっくに薄れてはいたが)名前を呼ばれたことですっかり消え去り、平然と治療室に向かっていった。

歯茎の疼きは歯周病かもしれないらしい。
良くなるといいのだが。