感じて動くことに言い訳なんかいらない。それが「私」を作るから

専門学校に通っていた頃、感動という言葉について教師が語ることがあった。

一度、その意味をおさらいしよう。精選版 日本国語大辞典には、次のように記されている。

かん‐どう【感動】
〘名〙
① 強い感銘を受けて深く心を動かすこと。
② 人の心を動かしてある感情を催させること。
③ 他からの刺激に反応すること。作用を受けて動くこと。また、動かすこと。

漢字を分けて考えれば分かりやすい。感じて、心を動かされるという意味である。

では、③の意味は知っているだろうか。


もともと感動という言葉は、論語に出てくる「感即動」が由来となっている。

感じたら、即、動く。

私はこの意味を「感動したものは躊躇なく深みにハマれ」という教えだと思うようになった。




山崎拓巳さんの、「最高のアウトプットができる スゴイ! 学び方」という本を読んだ。因みに2周目である。


この本には学びの本質を説明した章がある。私はその中でもある部分が印象に残った。

今日のあなたは、生まれてから今までの間に「ハマったもの」でつくられているといっても過言ではありません。

なぜ印象に残ったかと言えば、その言葉に空っぽな自分を見透かされているような気がしたからである。ドキリとした。


感動したり、面白そうな分野を見つけることはよくあった。友人がそんな機会に巡り会わせてくれたり、街中で偶然出会うこともあった。

その時なんかはもう声が出せないくらいに感動して、得体の知れない何かにワクワクして、足取りも軽くなる。これを体感した直後は、世界がいつもより数倍輝いて見えるのだ。

でも、深みにはまることをいつも躊躇してきた。

理由、という名の言い訳なんていくらでもある。時間がない。そんなにお金をかけられない。深い部分を知ったところで仕事に役立たない。難しそう。熟知している人に「ミーハー」と嘲笑されるにきまってる。きっと、これ以上は興味がない。

ハマったものの、躍起になるのはグッズ集めだけだったりすることもあった。とりあえず買う。ファンだから買う。沢山買う。全種買う。そうやって「私これが好きだから」という度合いを外面アピールをして悦に浸る。ということもあった。でと、ふとした時にくる虚しさとか内面の情けなさに耐えきれずに殆ど売り払ってしまった。


だから、感じているのに動かなかった積み重ねが、今の私を形成している。

今の仕事だって感動とは程遠い動機である。恥ずかしながら、「私のような残念な大人が増えないように」という願いを理由にして、子どもを相手にする業種を選んだのだ。それはそれで学ぶことが沢山あったが、こうして今、耐えきれずに心が折れている。

動かないから、いくら感動してもそれで終わってしまう。語れるようになったものはない。感動するだけして、中身は空っぽである。





では、そんな空っぽの私は、どうすればいいのか。

上記の言葉に続けて本には次のように書かれていた。

進みたい方向がより具体的になると、アンテナが立ち、風景が変わり、そちらの方向へ運ばれていくのです。
逆に考えると、今あなたがいる現実は、少し前のあなたが思い描いた現実だと考えられます。引き寄せられる人になりたいと思う人もいますが、もう既にあなたが引き寄せた結果が現実の中に生きているのです。


昔の何も考えていなかった私が、今の空っぽな私を引き寄せたのなら、今の私が進みたい方向はどこだろうか。



計画をたてよう。思い描こう。これからの方向を決めて、確実に一歩踏み出すために。

次に感動することがあれば、今度はもっと、私の思うままに追求していこう。ミーハーでいい。それで少しでも何かを知ることができるのなら。




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