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スマホによる文章の復権:イタリア人哲学者・フェラーリスの唱える「ドキュメント性」

ぼくたちの生活を根本的にかえてしまったスマートフォン。

電車にのると、ほとんどの人がスマートフォンの画面に見入っている。

大人だけではなく、子供でさえも。

そんな光景が当たり前になった現代、ぼくたちの生活の一部になったスマートフォンは、一体どんな意味を持っているのだろうか?

メディア論の大家であるマーシャル・マクルーハンによると、現代は「映像と音声」の時代。

具体的にいうとテレビや電話、そして携帯電話、スマートフォンのことだ。(以前は活版印刷の時代で、主役は本だった)

そんなマクルーハンに対して、イタリア人哲学者であるマウリツィオ・フェラーリスが提唱したのが「ドキュメント性」。

「少しずつ、私たち話すのをやめ、書き始めた」と言い、現代はむしろ「書くこと」に重点が動いていると語る。

たしかにスマートフォンのおかげで、書くことは私たちの日常生活に不可欠な部分になった。

ぼくたちは、メッセージングアプリ、メール、Twitterをはじめとするソーシャルメディアプラットフォーム、その他のデジタルチャネルを通じて、テキストベースのコミュニケーションを常に行っている。

スマートフォンでの入力の容易さと利便性により、書くことがより身近になり、普及した。

ゆえにフェラーリスは、スマートフォンが「記録するための機械」になっていると語り、それを「ドキュメント性」という概念で説明している。

この「ドキュメント性」には三つの性質がある。

➀ 誰でもアクセスできること
② 半永久的に記録に残ること
③ コピーを生み出せること

そしてフェラーリは、ドキュメンテーション、つまり文章に残すことが「現実の理解」と「知識の構築」において重要な役割をはたすと主張している。

なぜならばドキュメンテーションは、たんに事実を受身的に記録したり表現したりするものではないからだ。

むしろそれは、ぼくたちの経験を積極的にかたちづくり、構成している。

ここで重要なのは、決して中立的ではない、仲介者としてのドキュメンテーション。

ドキュメンテーションは現実を中立的に反映するものではなく、ぼくたちが世界を認識し、理解するための仲介役として機能している。

それは社会的、文化的慣行に影響を与え、制度構造を形成し、さらにはぼくたちのアイデンティティの感覚にも影響を与える可能性がある。

情報の選択、構成、整理によって、ぼくたちの「理解に影響」を与えているといえる。

またドキュメンテーションは、過去の集団の記憶を保存するうえで、重要な役割を果たしている。

そして、時間と空間を超えて情報を保存、伝達、アクセスできるようにするため、「知識の構築」には文書化が不可欠。

文書は知識の宝庫として機能し、これまでの洞察に基づいて人類の集合的な理解に貢献することができる。

これにより、歴史的な出来事や文化的成果、科学的発見、個人的な経験を記録することが可能だ。

そして文書化をつうじて、私たちは過去を再訪し、そこから学び、知識を将来の世代に伝えることができる。

まとめると、スマートフォンで読み書きする文書は、ぼくたちの「現実の理解」と「知識の構築」に貢献しているといえる。

ぼくたちが現実への理解を形成し、するうえで、ドキュメンテーションが積極的な役割を果たしている。

情報と表現がぼくたちの認識に影響をあたえつつ、記憶を保存し、文化的および知的な遺産である知識の構築に貢献している。

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