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長男の自尊心、そして長女のことを何も分かってなかった私

年末ということで、この1年間を振り返りたいと思う。まずは、長男のことから。

彼の不登校は、2019年7月(当時小学3年生)から始まったので、1年と半年ほど続いた計算になる。不登校が始まったころは、暴力、暴言、暴泣(そんな言葉ある?)で、荒れに荒れていたのだが、ゴールデンウイークを開けたころからだろうか、それらがなりをひそめ、心穏やかに過ごせることが増えたように思う。

これは長女とも共通することだが、平日の日中は小学校が終わる15:30までは YouTubeやスイッチ禁止、としている。その約束を守れていることが、まずは賞賛に値すると思っている。

勉強は、ここでいう勉強とは、いわゆる小学校で習うようなことを意味するのだけれど、そういうものは一切やっていない。そんな彼を見て心配や不安はないのかと言われたら、もちろんそんなことはなく、日々、私は不安に襲われるし、イライラもする。

しかし、いつのまにか、読める漢字も増えているし、おぼつかなかった数の概念も定着してきたようにある。たぶん、動画やゲームを通じて、少しずつ身につけていったのだろう。

ゲームと言えば、彼は休みの日など、朝から晩まで、まるでストイックなアスリートのごとく励んでいる。食事のために休憩をはせめばまだよいほうで、寝食忘れて没頭する。

そんなことではダメだ。そう考えていた時期が私にはあって、例えばスイッチを没収したこともある。(没収と言えば聞こえが悪いが、本人と相談して他のおもちゃと交換した)

ただ、やはり彼にとってゲームというものはとても大切なもので、特に自尊心を高めることに一役買っていると思う。推測にすぎないが、彼は保育園時代から、自分は人並みにできない、という感情を植え付けられてきたのではないか。植え付けられてきた、なんて書くと周りの人間を責めているように聞こえるかもしれないけど、そんなことはない。自分で言うのもなんだが、私と妻も、担任の先生も、長男の幸せを願い接してきた。しかしそれがうまく実らなかったという印象。ちなみに、幼少のころから発達障害の支援施設のようなところに通っていたわけではないので、そういうところに足を運んでいたらまた違う道を歩んでいたのかもしれないが、あまりにも「たられば」の話になりそうなので、ここでは割愛する。

いずれにせよ、彼はゲームのなかで、強い敵を倒したり、いままでクリアできなかったダンジョンをクリアしたり、あるいは現実から切り離された架空の世界に浸ることで、自尊心を取り戻していったのではないか。その自尊心を現実の世界に広げられるかというのが、今後のひとつの課題だと感じるが、よい方向に進んでいるのは間違いないと思う。余談だが「今後の課題」なんて表現をするあたりが、いかにも私らしく、そして長男と相いれないところでもある。

そういえばゲームの話で妻から面白いことを聞いた。僕が「長男はゲームを通じてPDCAサイクル(Plan-Do-Check-Act cycle)を実践できているんじゃないか」と発言したとき。妻が言ったのは「いや、長男くんはDDDDサイクル、つまり、Do! Do! Do! Do! だよ」と。たしかに。長男は状況を踏まえてやり方を変えることをしない。ひたすら Do! これもまた彼のよさだろう。

まだ実践ができないことも多いけれど、個人的に気を付けているのは、長男に対して

1.「何を言っているか分からない」と言わない

2.一緒にゲームを楽しむ

だ。

1について、長男は主語や目的語ナシで話をするので、本当になにを言っているのか分からないことが多い。例えば、「いつから始まるの?」とか「戻り方が分からない」とか、そんな言い回しを、唐突にしてくる。ついつい、「なんの話をしてんの?」と私も返してしまうのだけど、そこにイライラが含まれることがほとんどで、それは彼の自尊心をそいでいくだろうなと分かっている。いまはまだ、長男もめげずに話しかけてくれるけれども、そのうちお父さんに言っても伝わらないと話してくれなくなりそうなので、気をつけねばならない。「なんの話をしてんの?」と聞くだけでは彼のスピーキングはいっこうに変わらないので(変わるはずもなかろう)なにか改善につながるアプローチを行っていきたい。

2については以前のノートにも書いたような気がするのだけど、僕は長男とゲームをするときだけ対等に向き合えているような気がするのだ。それ以外の時間は、どこか、長男を見下している自分がいる。ひどくイヤなことだ。ゲーマーでよかった(私が)とつくづく思う。

あー、長くなってしまったが、長男のことであればまだまだ書けそうだ。でも紙面の都合上(そんなものないけれども)長女の話に移ろう。

今年、小学校にあがった長女。保育園時代に優等生だった長女。どれくらい優等生だったかというと、長女の不登校を知った保育園時代の園長先生が「一番人気の子だったのに・・・」と声を詰まらせるくらい。園長先生たるもの、子どもに優劣をつけてはならないのだろうけれども「一番人気」と言わしめるだけの実績を残していた長女。いや、もちろん、私の前だったから漏れ出た、多分な過剰評価もあるだろうが。

いずれにせよ、あの長女が不登校になるのは、私にとっても想定外であった。不登校の保護者の会で「きょうだいは不登校になりやすいですよ」とは言われていたものの、それでもうちの娘は大丈夫と私は確信していた。あの子が不登校になるはずないと。

つまるところ、私は長女のなにもわかってはいなかったのだなと思う。いや「わかる」という言葉自体がおこがましいもので、たとえ我が子であれ、人が人を理解するということは、基本的には不可能なこと。そんなこと、30歳を過ぎたころから分かってはいたつもりだったけれども、どこか、長女については理解しているつもりでいた。猛省。

長男の不登校を認めている手前、長女にだけ厳しく接することもできず、それでも、不登校の当初は小学校に行きさえすれば、すぐになじむだろうと思って、なかば無理やり連れて行ったこともあった。抱っこで登校したこともある。しかし、早めのお迎えに行ったときに、教室のドアに立って目に涙を浮かべて私を待っていた長女を思い出す。

長女の話を、と思いながら、ここでまた長男が登場するのだが、私は長女が不登校になったとき、長男のせいだろうと感じていた。長男さえ不登校でなければこんなことにはならなかったという。この感情は本当にやっかいで長くわだかまっていて、今年が終わりそうないまになって、ようやく解け始めているほど。ごめんよ、長男。本当に。お父さんが間違っていた。

自分が間違っていたと思えるようになったのは、はっきりとは分からないけれども、おそらくは長女を小学校に行かせようと様々なことを画策し、それらがことごとく失敗していったからだろう。私は大学で研究に携わっており、仮説、実験、検証というものになじみがある。私は実験結果が出て、それが仮説を支持しなかったのに、ずっと実験手法にミスがあるのだと信じ、何度も実験を繰り返してきた。しかし、ここにきてようやく、ああ、仮説が間違っていたのだな、と思えるようになったのだろう。というようなことを書くと、育児を実験とみなすとはなにごとか!とお叱りが来て炎上しそうだけれど、ごめんなさい。あくまでそう考えると私のなかでつじつまが合うという、ただそれだけの話です。育児は実験ではありません。

しかしそうすると、保育園時代に楽しそうに見えていた長女は、実のところ、すごくがんばっていた、無理をしていたのではないかということに気づかされる。ああ、あれが無理のたまものだったのか。もしもそうだとすれば、幼少のころから、ひどく酷なことをしたものだ。いいよいいよ、一年や二年、ゆっくり休むといい。

長女はYouTubeが大好きで、私が知っているだけでも、ひまわりチャンネル、かほせい、ポケるんTV、ほかにもたくさんあるけれども、長女を楽しませてくれて本当にありがとうございます。長女は小学校に登校できない自分にどこか後ろめたさを感じていて、例えば同じマンションに住んでいて一緒に小学校に行くことを約束していた仲のよい友達に「いっしょに、しょうがっこうにいけなくて、ごめん」と手紙を書いたこともある。そんな彼女が、不登校の自分を完全に忘れて心の底から笑えるのはYouTubeのおかげ。かつて私はYouTubeさんを敵視して、百害あって一利なしみたいに思っていたことがあるのですが、この場を借りてお詫び申し上げます。YouTubeの価値は私が決めるものではなかった。

平日、日中の長女は、図工のようなことをしていることが多く、毎日一作品は作っており、ただでさえ手狭の我が家のスペースを浸食している。つい昨日作った作品がこちら。

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そういえば、先日、長男が長女に向かって「僕は3年間もがまんして小学校に行ったのに、長女ちゃんはずるい!」と言い放ったことがあった。この発言には私自身大いに反省させられる。もちろん長女が悪いわけでもずるいわけでもなく、そう言って責める長男が悪いわけでもなく、かといって悪いのはお父さんと悲劇ぶるつもりもないが、なんだろう、どこに向けたらいいのか分からないやるせなさ。

小学校は本来楽しい場所であると私は思っている。長男と長女の担任の先生方にも不満はいっさいない。優しく不登校を認めて見守ってくださっている。しかしなんだろう、小学校側の働きかけ、あるいは工夫でどうにかなるような話でもないような気がしている。これまた炎上しそうな例えだけれども、アフリカでゾウをとらえて、動物園に連れてくる。その動物園の飼育員さんが素晴らしい人間性を持って愛を持って接してくれても、動物園の環境がいかにすぐれていても、やはりアフリカの自然のなかで過ごしていたいゾウもいるだろうなというような、あー、やっぱり微妙な例えか。動物園の存在、飼育員さんの存在をディスる意図はみじんもありません。

長くなったので締めくくろうかと思いますが、うちには次男もおりました。4歳。早くもお兄ちゃん、お姉ちゃんの不登校を察しつつあります。そんな次男が保育園に行きたくないというのですが、これまた扱いが難しい。可能なときは保育園を休ませることもあるけれど、コンビニで寄り道をして保育園に連れて行ったり(次男はローソンのからあげクンが好き)公園に立ち寄ったり、あるいは大好きなタクシーで登園したり。この子は本当に察する能力が高いように感じるので、あまり無理をさせることなく、その一方で保育園を好きになってくれるといいなという淡い期待を持っている。

ここまで読んでいただきありがとうございました。本記事は誰かにあてたメッセージというよりも、あくまで私自身がこの1年を振り返って自分の愚行を咀嚼する、そして子供たちを幸せの願うためのものです。どうぞよいお年をお迎えください。

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