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長男と肩を並べてコントローラーをにぎるとき、彼は息子ではなくかつての親友Sくんになる

ご存じの通り、私の長男は不登校だ。不登校のまま1年を終えようとしていて、不登校のまま新学期を始めることになるだろう。

そんな長男と私は驚くほどそりが合わない。彼はよく私をイライラさせ、私も彼を怒鳴りつけることが多い。私自身、リア充と呼べるような学園生活を送ってきたわけではないが、送ってきたわけではないからこそ、小学校に行かないという選択をする長男を心の奥底で許せずにいるのだろう。

学校に行かないだけではない。

彼は非常に自己中で、自分のやりたいことしかやらず、少しでも我慢を強いようものなら幼子のように泣きわめいたり、たたいてきたりする。そのたびに、これは親としてしつけをせねばならぬと、私は全身全霊をもってして彼に接してきた。

しかし私のその全身全霊さが、彼にはうざくうつったのだろう。あるいは彼の自訴心を傷つけることに、一役どころか、二役、三役とかっていたかもしれない。なお、この自尊心云々の話は、私ができた人間で自戒したわけではなく、妻から指摘されたものだ。

彼を思い、彼のためにと厳しく接してきたことが、彼の自尊心を損なっていく。これほど不幸な話も、そうそうあるまい。

・・・などと他人面してみる。いやまあ、子どもをしつけようとすると、よくある話なのかもしれんね。正当化するわけではないけれど。

妻はこんなことも言っていた。長男は、私に見捨てられはしないかと、内心おびえていると。

はっきり言って私の目からはそのようにはまるで見えないが、長男と似た特性を持つ妻だからこそ見えているということもあるのかもしれない。しかしだとすると、ほんとにそんな父親には絶対になりたくなかったのになあ、としみじみ。

そんな絶対的な父子の関係が完全にフラットになる瞬間がある。

それは任天堂スイッチで長男と一緒に遊んでいるときだ。

なにを隠そう、私はかつてゲーマーだった。

長男に向かって、

「iPhoneやスイッチをやりすぎ! ちゃんと決められた時間でやめなさい!」

とか言ってるくせに、大学に入った途端、両親の監視がなくなったことをいいことに徹夜で遊びほうけていた人間だ。

長男と肩を並べてスイッチのコントローラーをにぎっているとき、雑念にとらわれることなくゲームに集中できる。長男が不登校であることを完全に忘れてゲームにふけることができるのだ。

そのとき、長男は長男ではなくなり、私の小学生時代の親友であったSくんいなる。私はSくんと土曜日の午後、ひたすら一緒にゲームで遊んでいた。あのころの感覚がよみがえるのだ。

スイッチには本当に私がSくんと一緒に遊んだファミコンのソフトで遊ぶ機能がついていて、そのことがまたノスタルジーを加速させる。最近の、まるで映画のようなCGのゲームに慣れていても、ファミコンのソフトが面白いと言ってくれる長男の手を思わず両手でにぎりしめたくなる。

ここは分かってくれるひとだけ分かってくれればいいが、「くにお」と「りき」に分かれ、本来は協力プレイをすべきところで互いに攻撃しあって、「いてーな、もう」と言い合う瞬間、ここがたまらなく幸せなのだ。

そういう、父子の関係を完全にフラットにしてくれるものがあって、私は恵まれているのかもしれない。そうでなければ、私は長男にとって、ただうざいだけの、あるいはただ畏怖する対象に過ぎなかったのではあるまいか。ぞっとするよね、ほんと。

ということで、今日もまた、私は長男と一緒にコントローラーをにぎるのである。

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