キム・ヨンミン『人間として生きることは一つの問題であります―政治的動物への途』翻訳 #4「自然状態を想像せよ―政治已前の状態」
とうとう私のまわりにも田舎暮らしのよさを喝破する人があらわれはじめた。油断大敵とはよくいったもので、退屈な故郷がいやで一生都会暮らしを讃えた友人さえも、田園に一戸建ての住宅を買い取り、家庭菜園をはじめたそうだ。自分の耕す小さな畑がどれだけ誇らしいものか、化学肥料を排除したその野菜が、大きさでは劣るものの味やら新鮮度やらでいかに優れているか讃嘆する。あのレタスを食べたら、まるで自然が俺にハイタッチをする気持ちになるんだぜ!大地は汗かくほど人間に応えるものだ。子どもより率直だよ。生きれば生きるほど、世の中への幻滅が増すばかりだけど、いっそのこと人間界から離れて自然に戻るがよいじゃないか?
そっか。そうだよな。私も明け方配達の食べ物を包みすぎている大量の包装材には気持ちが重たくなるし、毎年更新しなければいけない共同認証書(訳者注―韓国で、ネット上で決済やインターネットバンキングなどを利用する際要求される本人確認などに使われる電子身分証。一度配布されると有効期限は一年で、期限が切れる前に更新しなければ、その再発給はかなり面倒なこととなる)もうんざりだし、選挙で時折トランプのような人間を大統領にするような民主主義はお気の毒で、都会でクラクションを鳴らしまくる気のはやいやつらが嫌だ。田舎にはクラクションもめったに聞かなかろう。その代り小鳥のさえずりが聞こえるだろう。かといって都会で数々の煩悩に悩まされる友人に、美しくて穏やかな田園景色の写真を送っても許されるものか。許されるさ。当たり前だ。羨ましすぎる。
しかしそれでも言い返そう。人間の手が行き届いていない自然は一体どこにあるのだ、と。友人が営む小さな畑も結局自然にあらず、文明である。その畑を耕すためには、そこそこ人の通る街の農機具屋に出かけたはずだ。都会にいる友人に「自然」の自慢をするために写真を撮ったし、その写真を取撮るためにスマホという最先端の文明を使ったのではないか。したがって、自然礼讃の人々に問いただしたい。本物の自然を経験したことがあるか?いかなる秩序も宿っていない自然状態(state of nature)を経験したことがあるのか?私にはある。それも、世界的大都会のソウルのど真ん中で。
いい教諭になりたいという気持ちが湧き出まくる頃のことである。大学生の育て上手になりたくて、大学進学前の学生たちの現状が知りたかった。相手を正確に把握しなければ正確に指導することもできないと考えてのことだ。訪れた目的や身分を明かさず、とある高校の教室の後ろの方の席に座って観察をしはじめた。一昔も二昔も前に高校生でとっくに卒業してしまった私には、想像もつかない事態が起きていた。教師のいうことに集中する学生は、前列に座った数人程度しかいなかった。授業中だというのに、学生たちは教室のなかを堂々を歩き、電話をし、向こうの友だちのところへ行っては声をかけ、何かしらものを奪い、奪われ、「やめろ」と叫び、さらに驚いたのは、教師がそのような行動を積極的に制止しなかったところだった。
要するに、私が見学した高校の教室にはないものが二つ。それは体罰と秩序だった。私の学生の頃は、今よりはるかに多い学生が同じクラスに組まれ、大学進学率が今や想像もつかないくらい低かった。大学入試をとっくに諦めた学生たちは、教室で行われている授業が結局自分らのためのものではないことを本能的に察知した。ゆえに相当の学生たちが授業に強調しなかった。ひいては授業という土俵をひっくりかえしたがっていた。それが黙過できなかった教師は体罰を加えた。腕立て伏せの姿勢をさせて、棒でぶって、時にはものを投げ、時にはとび蹴りをして。少なくとも性格が悪くしてやっとやんちゃな学生を従えることができた。
ところで2011年3月、やっと体罰を禁ずる初・中等教育法政令が国務会議を通った。教室における暴力という野蛮を法的に取り除いたのである。あるいは取り除けたと信じられた。しかしながら、見方によっては体罰をなくしたことで野蛮から文明に、ではなく、ある種の野蛮から別の野蛮へ移行したのかもしれない。体罰の禁止の以降、加速する教室のカオス化に挫折したあまりに、ある教師は次のように吐露したことがある。「ぶつべきなのにぶてないという問題ではない。今までも学生に体罰を加えないでなんとかうまくやり過ごしてきたけれど、もうそれが通用しなくなったのだ。体罰ができるのにしないのと、法的に体罰ができないのの違いに学生たちが気づいた」
このような慨嘆の声がはみ出るからといって、再び体罰が必要となるといいたいわけではない。体罰の代わりに掲げられた「相談」と「自治」が見栄えはよいだけの言葉の宴にとどまっているのみで、まだ教育現場にしっかりと根ざしができていないだけのことである。本当の意味での代替的な秩序を教室に据えるためには、体罰の消えた教室をある種の「自然状態」であると想像する必要がある。政治学の用語としての自然状態は、田舎や田園のことではなく、政治秩序がまだ確立していない原初的状態をさす。
この原初的状態が、実際の原始社会を示すわけではない。政治学者はまだしも、どの現代人も原始社会を直接経験したことがないことはいうまでもない。自然状態とは、現在の問題状況を説明するための、あるいは代替的な政治秩序を構想するための、一種の思考実験である。新たな秩序を生み出す必要を説明するためには、どのような無秩序が存在しうるかをまず示さなければいけない。よって、自然状態を論じるのである。
例えば、学生たちが集まって今回のピクニックの行き先をどこにするかを話し合う場を想定してみよう。一人ももれなく皆すべて異なる意見を唱えたとしよう。誰も他人の意見には同意しない結果、ピクニック自体に行けなくなった場合を、だ。これも一つの自然状態として考えうる。皆ピクニックを欲したが、誰も行くことができなかった。この難局の打開のためには、誰かが相手を説得できる意見を出さなければ、相手はその意見に同意してあげなければ、そうやって収斂した総意を実践にうつさなければならない。さもなくば、どうしてもいきたいというならば、ピクニックに関する決定事項を他者に委任でもしなければならない。ただただ自らの好みをそっけなく並べるだけでは、何もできない。「俺様」が見るにはお前の意見はうっとうしいという態度を堅持しては、決して自然状態を抜け出せない。「俺だけ壊れるわけにはいかないからお前も一緒に壊れてみろ」という時代精神をもっては、決して自然状態から抜け出せない。自然状態を抜け出した状態、すなわち「政治的」社会はただで与えられる贈り物ではないのだ。
運よくどうにか秩序の保たれる社会に産まれたからといって安心してよいものでもない。人間は他の生き物とは異なり、高度の文明を築き上げることのできる能力を有しているが、その同時に、トランプ政権下のアメリカを見ていると、人間は素早く野蛮に回帰する能力も有しているようだ。こんにち、大体的秩序を構想するには、現在の問題状況がどのような自然状態で我々がよりマシな政治秩序に移行できるかを問うべきである。いかに自然状態を想像するかが、代替的秩序の向背を左右する。
韓国における、数十年にわたっての民主化の歴史が残した成果の一つは、市民に対する物理的弾圧の度合いと可能性が、前の時代より顕著に減ったということである。秩序を維持しようという名目の下存在した暴圧がだいぶ消え去った跡地に、今は何が残っているのかを問うべき時である。暴圧に依存せずとも生我々の生に必要とされる秩序を創出し享受できるまで、民主化は完成しない。必ず暴力を伴わずとも、この世界の到る処で引き起こされている問題状況を、一種の自然状態として見直す必要があるのだ。
この自然状態は、都会暮らしに疲れた中間層の夢見る牧歌的な田園ではなく、理性のある人ならば誰一人とて戻りたくない状態である。アメリカ大統領選挙を目前にして小説家のスティーヴン・キングは、既成秩序とそれに寄生しながら偉そうに生きる既得権益を有する勢力を毛嫌いし、いっそのこと自然状態に戻りたいというコンビニの店員を思い出す。
スティーヴン・キングは引き続きいう。
政治は、果物の車をひっくりかえしたいという怨みがはなから生まれないようにすること、散らかったリンゴを沈着に車に戻すこと、そして崩れないようにリンゴどうしのバランスをうまくとることである。たとえひっくりかえった車を放置したり、散らかった果物を平気で踏んだり、後ろでリンゴをそのまま食ったり盗んでは逃げるものたちがいるとしても、である。
訳者注:本文中のスティーヴン・キングの文の出典は次のもの。
Stephen King〈I’ve come to understand what 2016 Trump supporters wanted. It’s not 2016 anymore.〉《The Washington Post》2020年10月30日より。
https://www.washingtonpost.com/opinions/2020/10/30/stephen-king-2016-trump-supporters-2020-election/
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