キム・ヨンミン『人間として生きることは一つの問題であります―政治的動物への途』翻訳 #3「人間はわりと「良き」生が営める存在―政治的動物としての人間」

政治共同体は自然の産物である。そして人間はその本性上、政治的動物である。偶然でなく、本性上政治共同体がなくても平気な存在は、人間を超越したものか、それとも人間以下のものである。(アリストテレス『政治学』)

「人間はその本性上、政治的動物である。」どこかで一度はきっと耳にしたことはあろう。社会学の授業では「人間は社会的動物である」と言われたかもしれないし、政治学の授業では上記のごとく「人間は政治的動物である」と言われたかもしれない。両者ともアリストテレスの古典・『政治学』にある”ho anthropos phusei politikon zoon estin”という表現を訳したものである。如何に訳すかによって同じ言葉も意味が異なることに気を付け過ぎたあまりに、中世ヨーロッパでは「人間は社会的でかつ政治的動物である」と訳したりもした。


 なんと、人間は政治的動物であると。一体どういうことか。この言葉は数千年の長きにわたって様々な訳し方をされてきた。それだけあって、その正確な意味を確定することも容易でない。あたかも政治が、権力に盲目になったものどもがおこなう汚らわしい仕業ていどに見なし、「政治的動物」という言葉が、自己利益のために謀略や欺罔を平気に振りかざす存在であるという意味として使われるときもある。しかし、もとの文脈を念頭に入れればそういうわけではまったくない。人間は本性上独りでは生きていけないがゆえ、集団をつくり公の仕事に従事する存在という意味である。


 「私は山中で独り暮らしている人を見たことがありますよ!」こう叫んだとてアリストテレスに対する大した反論にはならない。本性上そうなっているとしても、そうしない選択肢もあるからである。本性上食べ物を食べることとされているが、断食をすることもできるし、食べた以上排泄をせざるを得ないがそれを我慢する人間だっている。とてつもなくいい頭脳の持ち主ながらも勉強をしないこともあれば、性欲がお盛りでも一生童貞処女として貞操を守ったまま生きていくこともできよう。本性とはいえ、必ずしも実現するとは限らない。


 しかし古今東西の賢者たちはいう。自らの運命を愛せよ、と。自らの運命を愛せぬことも一応できようが、運命を愛せざれば自己破壊的となってしまう。断食を重ねて摂食障害にもなる。排泄を我慢した結果便秘になるかもしれない。性交を避けては一生性欲と和解できずじまいとなりかねない。もしもアリストテレスが正しいとすれば、人間は集団生活をした方がよろしく、集団生活を営むことはすなわち自らの運命を愛することである。


 なにゆえに人間は集団生活をする存在となっているか?第一に、さもなくば到底生き残りえないためである。中世の哲学者・トマス・アクィナスは『君主の統治について(De Regno)』で、「人間は政治的動物である」との言葉をかくのごとく解釈する。「自然は即座に食べ物、保温する毛、生き抜くための防御の手段を動物に与えた。しかし人間にはそうしなかった。……人間はそのようなものを自分で調達することはできない。したがって人間はたくさんの人々のなかで暮らすが自然である。」つまり人間は集団生活を通じてこそ生きることができるということである。


 人間を、原罪にとらわれた情けない存在、救われるべき堕落した存在とみた種々の中世人とは異なり、アリストテレスのようなギリシャ哲学者たちは人間がわりと「良き」生が営める存在と考える。人間が集団生活を通して政治に参画せねばならぬ理由は、ただ生存のためだけでなく、より「良き」生を営むためである。人間が政治すなわち共同の生のための模索に参画せねばどうなる。そのようなことはいくらでも起こりうる。食欲に溢れても食べ物を手にすることはできない場合もあれば、性欲が溢れても相手が見つからないこともあるように、政治参画への機会を得られないこともある。政治参画ができなかったとして、いきなり人間が死んだりはしない。ただ、「良き」生に支障が生じる。自身の本性が十分実現できないのである。ものすごい筋肉の持ち主が思い物を持ち上げてみる機会なくしてやがて死ぬことのように。ものすごい舞が踊れる人が一度も舞台には上がれず死ぬことのように。


 集団生活をするからといって誰しもが立派な政治的動物になりうるか?アリストテレスによれば、必ずしもそうは言い切れない。蟻も、火蟻も、アリクイもみな群衆生活をする。人間の蟻・火蟻・アリクイを上回る存在たる所以は、言葉を駆使するところにある。人間はむずかる時、愚痴をいう時、戯言をいう時、喘ぐ時、酒癖の時、脅迫する時にも言葉を用いる。しかし、政治的動物として人間は言葉を用いることは、是非を問いつつ言葉を発しない限り、彼はまだ立派な政治的動物ではない。せめてアリストテレスの知見からいわせれば。


 是非を問いながら言葉が発せるとはいえ、すぐさま人間が政治的動物として自己実現ができるようになるわけではない。政治を考えるほど余裕がなければならない。「人間は政治的動物である」といったとき、アリストテレスが念頭に置いていた政治共同体は、ポリスという都市国家だった。そこで明日の食事の心配をし、食べ物をつくり、洗濯物をし、洗い物をし、窓枠やトイレ、浴室の掃除をするようなことは、女性や奴隷に主に委ねられていた。かくして余裕のできたギリシャの男性は、政治のような公的なことに関してやっと議論しあうことができるようになった。しかし、もうそのようなご時世ではない。人間ならば大概このようなたわいない生活の雑務と戦わねばならない。そのなかで疲れ、疲れれば政治が贅沢ごとに見えがちである。政治参画?私はもう休みたいんだが?


 ポリスという空間は、どこか片隅に閉じこもって隠棲するには、社会の規模がいかにも小さすぎた。しかし人口1000万人を優に超える現代都市・国家に暮らしつつ匿名と生きることは、いかに簡単なことか。政治は権力への欲を抑えきれぬ醜い老害どもに任せておいて、人形なんか抱えてただ息をしているだけのことならどれほど楽なものか。濃くなってきた草の匂いを嗅ぎながら、誰もいない散歩道を淡々と歩くことはいかに魅惑的なのか。静かに隠棲し、自分の安泰と快楽のみをはかり生涯を閉じることはいかほど誘惑的か。しかし、ポリスの市民という事実に自負をもった政治家、ペリクレスはかつて、かくのごとく断固に言い切った。「我々アテネの市民たちは、公的なことに参画せぬものどもを達観したものとして尊敬するのではなく、使えないものとしてしか見なさない。」


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