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最近の考え事、暇と退屈について

どうしてこう、書き続けるということができないのだろうか。書こう書こうと思っていても、書かずに1日を終えてしまう。3月、4月はnoteを書かずじまいに終わった。

2月12日の下書きにタイトル未設定で、「久しぶりに宝塚を見て心躍る楽しい気持ちになった。」という24文字だけが残っていた。宝塚を見て楽しかったらしい。何がよかったとかもっと詳しく書こうと思ったのかもしれない。全然覚えていない。

人は毎日いろんなことを感じ、考えていると思う。それは日々の雑事に追われてどこかへ流れて行ってしまう。それを書き留めていくのはおもしろいことだ。わたしの感じたこと、考えていることを文字にしてネットの海に出したい。國分功一郎さんの言葉を借りると「観念を物質化」したい。だからがんばってnoteを更新していこう。

勤務日を減らした

この4月から、パートの勤務日を週5日から週4日にした。家の事情とかそういうのではなく、ただ単に週5日働くのがイヤだったから。毎週金曜日は自分の時間が持てるから、noteを書く時間にしようと最初は思っていたのに、やりたいことが多すぎて、またはめんどくさくなって結局できなかった。

自分の時間を持つために週4日勤務にできるなんて幸せ者だとわかっている。ただそこにいるだけで時給が発生する仕事なので、忙しかろうが暇であろうが変わらずお給料はもらえる。だから暇でつらくても耐えてさえいればその分稼ぐことができる。でも、わたしは耐えられなかった。仕事が暇すぎて、仕事内容がつまらなすぎて、そんなことに自分の時間を週5日も使ってたまるか、と思ってしまった。

かといって、別の仕事を探す気にもなれず、自分の中の妥協点が週4日勤務にすることだった。お給料は減るが時間が得られる。時間はなにものにも代えがたい。

家にいてもやることがないから働いている人

家計を支えるために、生きるために働かざるを得ない人ではなく、家にいてもやることがないから働く、という人が一定数いることに気付いた。「家にいても廃人になってしまうから」「家にいてもスマホばかり見て1日が終わってしまうから」「午前中は家でひとりぼっちだから」といった理由を複数の人から聞いた。

振り返ってみればわたしもそういう気持ちから仕事を探そうと思ったのだった。会社員だったが体調を崩し、休職し、退職し、無職のまま結婚し、おかげさまで回復し、家で暇だな~と思い始めて仕事したいと思うようになった。

しかし暇だから働く、というのはどうも腑に落ちない。たぶん、腑に落ちないのは、そういう理由で仕事をしている人が全然楽しそうに見えないからだ。「仕事つらい~眠い~めんどくさい~」というオーラが出ていたり、「なんでこんなことしないといけないの?」と言ってる人もいる。暇だからしている仕事によってストレスを受けて不機嫌になっているのって、本末転倒というか・・・。そういうわたしも仕事に興味が持てず、ただつまらなさに耐える日々を送っている。

配偶者の稼ぎで生活はできる、だが家にいても暇だから興味ないけど働く、興味がないから仕事はおもしろくない、だがそれは仕方のないことだ、と諦めてしまっている人が結構多いのかもしれない。仕事=つらいものであり、つらさに耐える対価としてお給料を得ているという思い込みがどこかにある。しかしもうちょっと選択肢はあるんじゃないのかと思う。

結局「やりたいことがない」という悩みに行きつくのか?

暇と退屈の倫理学

このことを考え始めて、ヒントが得られるかもしれないと思い「暇と退屈の倫理学」(國分功一郎 著)を読み始めた。この本は有名なので本屋に行くとよく目について存在は知っていたが、これまでは読む気になれなかった。今こそ読むときである。

まだ半分の手前までしか読んでいないが、すごく腑に落ちた話がある。

人類は移動しながら生きていく遊動生活から、一か所にとどまって生活する定住生活へ生活様式が変化した。これにより自分の能力を発揮する場所を失い、退屈と戦わなくてはいけなくなったらしい。もっといろいろなことができるはずであるのに、することがない。まさに「暇!」ということである。(本当は「暇」と「退屈」は区別すべき言葉であるとこの本に書いてあるが、ここでは同じような意味で使っている)

やはり人類にとって自分の能力を発揮したい、という欲求は自然なものだったのだと思った。わたしも暇だからという理由だけではなく、能力を発揮したいという気持ちから仕事を再開したところがある。今の仕事は簡単なので、確かに能力は発揮できているのかもしれないが、物足りない。さあどうしようか。

この問題に立ち向かっていきたいし、自分の生活も変えたい。変わらないかもしれないが、考えるのはやめないようにする。

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