見出し画像

生きづらさの正体は

私っていろいろなことに興味を持ってしまう人間で、無節操にいろいろなものが好きなんですけど、今日は「じぶん」について振り返りと整理をしたいなって思いました。

いつもは好きなものに対して、自分の思いや考えを投影して、さまざまなことを考えていました。今回は、一応そういうのをナシにして、本当に「じぶん」という人を振り返りながら未来に想いを馳せたいなって。

なんか変な感じなんですけど、「じぶん」という人間を見つめ直した先に何があるんだろう、必ず何かあるって信じたい。
そんな気持ちで文字を綴っています。

私のいま

私って別にただの社会人をやっているつもりで、それのひとつのカテゴライズのつもりなんですが、私はいま仕事を休職しています。
正確には休職じゃなくて、社内の権利で認められている特定疾病による休暇制度ですが。

かなり平たく言えば、精神を病んでお休みしているということです。
きっかけは今思えば些細なことだったと思います。二つか三つの仕事のこととプライベートのことが重なって、こじらせて爆発しそうになりました。いや、もはや爆発していたのかも。
考えて、苦しんで、つらかったです。

そんな状況を見かねた母親から流石にもう休みなさいと言われ、お母さんが言うならそうなんだろうなくらいの気持ちで先生と職場には相談しました。

私の要望はすんなり通りました。
学生時代の就活中に慢性的な不眠症になってからメンタルクリニックにはかねてより通院していましたし、比較的上司に普段から相談していたことも大きかったと思います。

そして、ついに。
10月の頭から3ヶ月間、私には「自由」が与えられました。(まあ社会の一組織に所属している以上、完全な自由ではないんですけど。)

始まった時は不思議な気持ちでした。
仕事のことやプライベートや、社会において考えなければならない様々なことから、本当に急速にドバッと解放されました。

でも、今は思います。
その「自由」ということは私にとって、自分という海の中でどこまでも泳ぎ続けるということを意味していました。
本質的な心のつらさは、何も変わりません。
仕事やプライベートがなくなっても、自分の過去や境遇、その他言葉にできないことで悩んだり苦しみ続けています。

「自由」と言えば聞こえはいいですが、その本質は本当に真逆の「束縛」だったんですよね。

やっぱり苦しいです。痛いです。
なんだ、やっぱり私は生きてるだけでこんなにつらいんだって改めて思いました。

休職の前から、もう本当にスッと自然の思考回路で、死んじゃいたいと考えていました。
それが無理なら準じた何かか、何らかの方法で苦しみやつらさを和らげる方法を探しました。それこそこんなところには書けないようなことですね。

でも、私に残された最後の理性がこう言いました。
「そのつらさ、苦しさ、生きづらさ、絶対正体があるよ!」って。

そうだね。
それを突き止めることができれば、なんとかなるかもしれない。
近い将来また病んだり倒れそうになっても、正体がわかってればまた対処しやすいよね。

そう信じながら、いろいろな検査をしたり先生やカウンセラーの方に助けを求めました。
私の現状・苦しさや生きづらさを、なんとか客観的な言葉にして。わかりやすく伝えて、その結果を待ちました。

でも結局は「私は私」。それ以上でもそれ以下でもなかった…

私はその自分が抱える「生きづらさ」や「尽きない悩み」の原因究明の一つとして、精神の病気や障害だと思って、病院に通い続けました。

休職の前からメンタルクリニックには通院していましたので、そこで明らかにしたかったこともあります。
原因がわかれば治せる、治せなくても良い方向には行けると信じて。何らかのサポートを受けられるって。

でも、医学の面で否定されてしまいました。
具体的に、ADHDといった発達障害の類、境界性パーソナリティ障害、統合失調症のような精神疾患等であると診断することはできないと言われてしまいました。

絶対このあたりのものだと思ってたので、そう診断されなかった際はショックでした。
どこか、「病気や障害」という単純明快なラベルを求めていたんですよね。
そして、そのことを通じてわかりやすい手助けや理解を外部に求めていたんです。



後からいろいろ話を聞いたり、本を読んだりする中で、私は「HSP」(:ハイリー・センシティブ・パーソン)である可能性が極めて高いことがわかりましたが、HSPは病気ではなく性質です。
(HSPについては最後の項で触れます。)

どんな検査を受けても「はっきりそういう診断することはできない」「そういう兆候はあるが、すべてにおいてグレー」と言われてしまいました。
何度も先生やカウンセラーの人に自分の言葉や思いをぶつけました。どうやったら相手に伝わるか。どうやったら自分の現状を理解してもらえるか、考えて考えて接しました。

先生は私のことひとつひとつに歩み寄ろうとして接してくれました。
言われたことを噛み砕いてくれて、ひとつひとつ絞り出すように紡いだ言葉は。

「社会の方があなたに対応できてない。でもなんとか、生きていきましょう。」

文章にしてみると訳がわからないですね。
その時は今以上に言っている意味がわからなかったんですけど、噛み砕いて教えてくれました。

そう。
あなたはあなたで、その私は「そういう人」なんですって。
あなたのこれは個性や性質の類だと。そういう人間なんだと。

社会における「普通」や「当たり前」は、あなたには通じないんだ。それはもちろん、良い意味でも悪い意味でもない。

あなたはあなたで、「そういう人」だから。
でも、生きるしかないから。
なんとか生きていきましょうよ。

今思っても何言ってるんだこの人は、って思ってます。
あんたドクターだろと。もっとロジカルに話してくれと。

でも、やっとわかりました。
それこそ、「そういう」話なんだって。
「私は私」で、それ以上でもそれ以下でもなかったんですよね。

「社会があなたのような人に対応できていないんです。助け方が、わからないんです。」

なるほど、確かにそうだ。
私は私なんだから、どうにもならないでしょうね。
感じ方や受け止め方が過剰だったり、人より感情の幅が大きかったり。
それは生きづらさに直結するけど、あなたほど程度が甚だしい人はなかなかいない。だから誰もわかってあげられない。

「つらい」「苦しい」「困っている」と感じていることに対し、他者(私以外の人)はそういう現状にあることを察しようと試みることはできるが、本当の意味で理解してあげることはできない。
あなたの心について、本当の意味の解決をすることはとても難しい。
「私は私」であり、その事実は変わらない。

現代社会において、心や感情を完全に他者とリンクする技術はない。
察することや想像でしかあなたに寄り添えない。

でも、かと言って得意なものも苦手なものもそんなになかったり。
見てくれは普通通り日常生活を送れるし、仕事も問題なくできる。極度に人的面・金銭面での補助も求めていない。
世間一般的な目に見える形でサポートしてあげることもできない。

だから、あなたがどうこうではなく、あなたはあなた(私は私)で、社会や周りの人があなたに完全に対応することができないんです。

こうやると、とてもロジカルに思えます。

結局、生きづらさの正体は存在しませんでした。
いや、存在するっちゃあ存在するけど、それは「私」というすべてを含んだ性質それ自身。
おお、そこまで言われたらそれに関しては何も言えませんけど。

でもじゃあ、どうすればいいんですか?
どうしろと?
解決策は、何もないってこと?
抗不安剤と睡眠薬だけ処方され続けて、それに頼って生きてくしかないの?
考え方や、受け止め方、不幸な出来事はどうすることもできないの?
こんなに苦しみながら生き続けるの?


すごく考えたし、今も思っています。
だけど、消去法ではありますが、私の生き方は見えてきています。
もはや諦めと歩み寄りの境地だとも思いますが、冷静に考えるとそれが人生の本質なのかなとも思えることでした。

しあわせの在り処をさがして。心の豊かさを求めて。私のこれから

話を少し遡って、私の性質の話をします。

自分で言うのもどうかと思うんですが、今日まで生きてきた上で、私という人間ってかなり悲しみを抱えているんですよね。
具体的な不幸自慢をすると例に余りすぎて出来ないんですけど、大元には「私がそういう風にできている」。
不幸体質とでも言うんですかね。

別の何かを乗り越えたと思ったら、また新しい苦難がやって来る。それの繰り返し。

じゃあ今回の休職みたいに、仕事と家族を除くプライベートのすべてを投げ出して、自分という存在にだけ向き合う時間が生まれたら。
その場合には、自分の過去と境遇が私をまた苦しめました。

結局何も解決しない。
自分という存在と、その私が歩む人生からは逃げられない。
それはとても苦しいことでした。
生き地獄とはこのことかと、今も思います。

どうしてこんなに苦しまないといけないの?
どうしてこんなに悲しいことがあるの?
どうしてこんなに生きづらいの?


人生と、自分という存在に絶望して、死んでしまいたいと思うことも何度もありました。
先生は諭してくるし、親は泣くし、上司は慌てるし、自ら死を選ぶのはあまりいいこととは言えないと思うんですけど。

死んでしまえば、何にも考えなくてよくなるじゃないですか。すべての感情がなくなるけど、すべての苦しみから解放される。
悩み抜いた末に私は本気でそう考えていました。かなり理にかなっていると思いました。
(まあ今でも、多少はそうは思ってますけど。)

でも今は、そうじゃなくて、あえて生きることを前提に一歩引いて考えてみています。

私は今、生きていく中でしあわせの在り処を探すことにしています。
しあわせなことがあったり、しあわせを感じることが多ければ、生きていくのもなんとかやっていけると思っています。

そしてそのしあわせとは、心の豊かさのことだと思っています。
心が嬉しくなったり、喜んだり。嫌なことが和らいだり、感じなかったり。
結局私はそれを探して、求め続けることにしました。

どこにあるのかもわからないし、あと何年生きるかわかんないんですけど、とりあえずはしあわせを探したいなって。
心がどうやったら満たされるんだろう、どうやったらあったかくなるんだろう。何を求めるのだろう、何をしたいのだろう。

そう考えて生きていくことにしました。
何かまた状況が一変しない限りは、私の人生のモットーとして胸に刻んでいこうと思っています。

しあわせの在り処をさがして。
心の豊かさを求めて。

最後に。HSPという名前はあっても「私は私」。

調べ物をしたり、親やドクター、社内のカウンセラーや上司の話を聞いて、今なら確かにそうだなって思えることも多々あります。

でも、私は私だから。
私の思ってることや感じていることは誰にも本当の意味でわかってもらえるものじゃない。

当たり前は当たり前じゃないし、世間の普通は私にとっての普通じゃない。

ネットで、私と同じようなことを考えている人と、私がアドバイスされたようなことを言っている一連のやりとりがありました。

どれも納得できることばかりです。
質問した方もされた方も、頑張って生きているんだなと思えました。

私も少しそういう気持ちになれます。
ここまで読んで私に近しい感覚を持ってくだだった方は、きっと同様に共感と勇気をもらえると思います。

あと、HSP専門カウンセラー・武田友紀さんの本をほぼすべて読みました。
一番オススメはこの本ですね。著者の主張・提案、「繊細さん」のことが実に丁寧に書かれています。

私がこれらと出会ったのは本屋さんです。
どうやらベストセラーのようでして、店頭の見えやすいところに並んでいたんですよね。

私はたぶん、武田さんの提唱する「繊細さん」、難しく言えばHSPなんだと思います。

もう疑いようもないです。
読んでいて素で「えっ、全部私のことじゃん…」ってなりました。

著書に書かれていること、経験やデジャヴ、「そうだったのか!」と思うことが多すぎました。
私みたいな感性や感覚を持った人、他にもいるんだなと思ってそこは安心しましたね。
かかりつけの先生ともこの本を通してお話ししました。確かにそうですね、と言われました。

武田さんのおっしゃることには首が取れちゃうんじゃないかってくらい頷けますし、土台としてはこういうものなんだと思います。

こういうことからもわかるんですけど、武田さんのおっしゃる通りHSPは病気ではなく性質。

HSPの加減も人それぞれだし、強弱や長短があると思いますが、やっぱり「私は私」なんです。
そこは変わらないんですよね。
まあ、ここまで書いて整理した通り、変わるものではないってことに気づいたんですけど。

どうにかしてほしいし、してもらいたいけど。
どうにもしてもらえない。
もちろん、全部を否定されたわけでもないんですけど、外的手段や他者にしてもらえることは限られています。

結局、最後のところは自分次第。

しあわせの在り処をさがして。
心の豊かさを求めて。

もう一回書いちゃお。

しあわせの在り処をさがして。
心の豊かさを求めて。

頑張って生きてみようと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?