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【理由なき反抗】僕は僕でありたいだけ


最近、「ふつうの軽音部」に歌詞が引用されたことで、a flood of circleがちょっとバズった。私はそこから「ふつうの軽音部」を知って読み始めたタイプなのだが、めちゃくちゃ面白いので最新話まで一瞬で到達してしまった。

a flood of circleのライブにはじめて行ったのは、2022年に代々木野外音楽堂で開催されたフリーライブである「I’M FREE 2022」。こんなに格好よくて我の強いバンドが世間に認知されていないのは、絶対におかしい。そう強く思った。

そう、我が強いのである。佐々木亮介の書く歌詞には、果てのない自己実現欲求が赤裸々に描かれていて、そこがたまらなく好きなポイントだ。

誰にも渡さなかった魂はきっと
嘘じゃない 魔法じゃない
リセット・ボタンはいらない

理由なき反抗/a flood of circle

ジェームス・ディーンになりたいんじゃない
僕は僕になりたいだけ
向かい風の日もいいんじゃない
僕は僕でありたいだけ

理由なき反抗/a flood of circle


自分が自分のままいるということは、そりゃあもう死ぬほど難しい。柔軟性が評価される世の中であるからだ。しかしながら、他者に迎合するため自分を曲げるごとに蓄積していく何かドロドロとした感情を無視できない、そういう人間が一定数いるのが世界である。何を隠そう、私もそうなのだ。

私は、人のことをわりとすぐに好きになる。そこに同性が異性かは関係がない。しかし、不思議なことに「ずっと一緒にいたい」と感じることが多いのは異性だから、気になった異性と恋人関係になるというのが通例であった。


ここで、問題が生じる。私は「彼女」というフィルターを通して自分のことを見られることが、大の苦手だったのである。

きっといわゆる「彼女」とは、「彼氏」の言うことをほどほどに肯定して支えてあげて、甘えさせて、ときには相手を頼り、スキンシップをとったり愛情表現をすることで関係を深めていく。性的な接触については言うまでもない。例外はあるだろうが、今まで付き合った彼氏からは、総じてこのようなポジションが期待されているのを感じた。

強烈な違和感がある。

私は「全肯定してほしい」とか「触れてほしい」「触れたい」とか、「キスしたい」「手を繋ぎたい」とか、そんなことを思って人を好きになったことがない。その人の人間的に優れている部分や尊敬しているところ(あるいは、優れていない部分が存在する人間らしさ)を見ると、結構すぐに好きになってしまう。そこに身体接触欲求みたいなものは、あんまりない。別に性欲はあるんだけど、それが他人に向いた試しがない。

しかし、相手のほうは私の有する「女性らしさ」に魅力を感じている場合が多い。ここで、食い違いが生じるのだ。私は相手のことを「男性として」ではなく「ひとりの人間として」見ているのに、相手は私のことを「ひとりの人間として」ではなく「女性として」見ている。異性間の友人関係においても、たびたびそういうことが起こる。

これが、私にとっては痛烈に気持ちが悪い。「好きな相手と一緒にいたい」と思っているのに、キスや愛情表現など、「彼女」に期待される役割のようなものを求められると、どうしても無理になってしまう。自分の人間らしさを、軽んじられたような気持ちになる。

自分が面倒臭いのは重々承知している。じゃあなんで異性ばかり好きになるんだよと言われれば、ごもっともである。

インターネットで調べてみたら、どうやら自分が「アセクシャル」というものに近しいということがわかった。わかっただけで、別になにも解決してはいないし、違和感は拭えない。私は、分類されることで楽になれるタイプではなかったらしい。

つまり、なんというか、結局。
僕は僕でありたいだけ」なんだよね。
それ以上何も求めない。だからどうか、これだけは許してほしい。

佐々木亮介が「理由なき反抗」で歌っているのは、きっと恋愛についてでもなんでもない。けれど、自分の存在、自分が自分のままいることを肯定したいのは誰だって一緒だと思う。だから、強烈な自我を歌い続ける佐々木亮介に、どうしても魅了されてしまう。人間臭さがたまらない。佐々木亮介の存在が続く限り、私は私を肯定することができる、とさえ思う。

バカみたいかな。


なんだか今回は面白いくらいに駄文だ。自分でも結局何が書きたかったのかフワフワしている。とりあえず、a flood of circleは良いバンドだからみんな聞いてほしい。

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