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「御酒印帳」との出会い

 先日、「ごしゅいんちょう」を手に入れた。これは、神社仏閣でよく見る「あれ」とは異なる。いや、形は全く一緒なのだ。屏風折りで両側に固い表紙がつけられている、馴染のある、あの形。ただ、その表紙には「御酒印帳」と書かれている。
 自宅の近くに、洒落た日本酒専門店があった。夫と買い物帰りに通りかかり、あら、こんなところにお店があったかね、と話していたら、店頭の「角打ちやって〼」の文字に吸い寄せられた。店先から様子を見る限り、取り扱う日本酒の種類は豊富そうだ。角打ちで飲んでみて、気に入ったものを買うことができるに違いない。日本酒好きの夫は、初めて買う日本酒は、必ず試飲してから買うという拘りがある。そして、私は大の酒好きだ。
「ねえ、入ってみようか。」
どちらが言ったかは定かではないが、いそいそと2人で入店した。
 ケースにびっしり並べられている、日本各地の酒蔵から取り寄せた日本酒たち。日本酒の好みを店員さんに伝えると、おすすめの日本酒を次々出してくださる。いくつか飲んでみて、気に入ったものを数本購入した。オープンしてちょうど一年なんですと、人懐っこそうな店員さんに日本酒を1杯ずつサービスしていただいたころには、すっかりお店を気に入っていた。こじんまりとしたお店だが、立ち飲み用のカウンターと丸机が3つある。レジの奥にはちょっとした調理スペースがあるようで、簡単なおつまみも注文できるようだ。メニュー表のラインナップは非常にそそられるものだったが、夕飯前ということもあって、おつまみは我慢して、その日は店を後にした。
 偶然、素敵なお店を見つけてしまったと、ほくほく帰って数か月。買ったお酒もすっかり飲み切り、久しぶりに行ってみようと向かったところ、何やらお店には随分たくさんのお客さんが居るではないか。店頭の張り紙を見て仰天、なんと明日閉店してしまうらしい。商品ケースはがらんとしていて、購入できる商品は店頭にある限りとのこと。ただ、角打ち用に開けてある日本酒は、そこそこ種類がある様子だ。これは、最後に角打ちを楽しんで帰らねば。そんな使命感に燃えてカウンターの空いたスペースに夫と収まり、前回我慢したおつまみも、ちゃっかり頼んで、ちびちびやりながら心ゆくまで日本酒をいただいた。
 最後のお会計の際に、「〇円以上お買い上げのお客様にお渡ししてます!」と素敵な笑顔で渡されたものが、「御酒印帳」だったのである。サンプルとして店内に置かれたものを開いてみると、日本酒の瓶のラベルが貼られているのだ。なるほど、こうやって、飲んだ日本酒を記録していくという趣旨の品物らしい。店主自ら、親切にラベルの貼り方を教えてくださった。
 まず、沸かしたお湯を酒瓶のラベルに満遍なくかける。ラベルを端からそっと捲ると、きれいにつるんと剥けるので、そのまま御酒印帳のページに張り付けるのだ。タオルで軽く押さえるようにして水気を取って、乾かせば完了だ。糊付けされているラベルは、お湯をかけると糊がふやけて簡単に剥がすことができるし、乾く前に貼ってしまえば、ラベルに残った糊がきちんと機能してくれるというわけである。
 夫婦ともに日本酒好きなので、出かけ先で良さそうな酒店を見つけると、ふらっと試飲に立ち寄って買うなんてこともするのだが、なかなか一度飲んだものを思い出して再度買う、ということが無い。何となく、あの時買った日本酒は美味しかったなあと思い出すことはあれど、明確な情報が紐づいていないので、一度きりのご縁になってしまうことが殆どだ。オンラインで買えば購入履歴が残るだろうが、店舗で買うとなるとレシートを取っておくこともないし、家計簿にも銘柄まで記録することはない。そんな私たちに、ぴったりのものを手に入れることができたと思う。特に夫がいたく気に入った様子で、飲み終えては、いそいそと自らラベル剥がしに勤しんでいる。ラベルのコレクションという点が、男心を擽ったのかもしれない。
 それだけではない。今までは、ラベルのデザインにそこまで気を取られることはなかったのだが、貼ったものを改めてじっくり見ていると、細やかなこだわりが感じられたりする。複合施設に入っている酒店では、実際に酒蔵の営業担当の方が接客されていることがあるが、ふとラベルのデザインに目が留まって、「素敵なラベルですね」というと、嬉しそうにこだわりを話してくださることもある。日本酒の新しい楽しみ方を得られたように思う。
 件の日本酒店は、私と同い年くらいと思われる女性が切り盛りしていて、溌溂とした接客が非常に魅力的だった。オーナーである企業が事業撤退することによる閉店とのことだったのだが、近いうちに自分の地元で同じような店を開くつもりだと、きらきらした笑顔で仰っていた。聞いてみると、今の店からかなり離れた地区であるようだ。我々が気軽に訪れるには少々ハードルが高い距離感と分かり、つくづく惜しまれる。
 出会いと別れは突然に来るものとよく言われるが、今回は日本酒店との惜しまれる別れと、御酒印帳との素敵な出会いに同時に巡り合ったという点で、私は幸運だったのではないだろうか。新たなお店との出会いも期待しながら、引き続き日本酒を心行くまで楽しむ1年としたい。


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