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嫌いな人が何故嫌いなのかを突き詰めないと憎しみの感情で自分自身を苦しめることになるだろう

私には嫌いな人がいる。当然その嫌いな人が嫌いな理由はいくつかある。だから私はその人に消えてほしいと思っている。これは当然の話だ。しかしながら、私が嫌いだと思っている人がある日急に消え去ってしまったとしたら、私はどう思うのだろうか?

嬉しいと思うのだろうか。きっとそうだろう。しかしながら私が嫌いな人を嫌いな理由は私の中に残り続けるわけである。その嫌いな人以外にも私が人を嫌う要素を持っている人はきっと存在するだろう。

私はその先、生きる上で昔嫌いだった人に似ている人をまた見つけて、その人を嫌いになって憎しみを抱くのではないだろうかと思ってしまう。

当然ながら自分が何かを嫌悪する要素があること。それ事態を否定するわけではない。しかしながら、なぜそれを嫌いなのかという部分をちゃんと考えて無意味に何かを嫌いにならないようにしておかなければ、結局のところ憎しみの感情に囚われていけることになってしまうのではないかとも思う。

嫌いな人が消え去ればと思うけれども、憎しみの感情が先行してしまえば嫌いでもない人を嫌いになってしまい、憎しみを育てることになる。

どこかで自分の憎しみの感情の源を突き詰めて整理して削減する。というような行動はしておかないと結局のところ自分自身の首を絞めてしまうようなことになるのだろうと思う。

誰かを嫌い憎むことは簡単である。それに、憎むというのは長期的には肉体精神に悪影響を及ぼすが、短期的にはあるアドレナリンが出て気持ちよくなるそうだ。そして誰かを攻撃するというのもある種の快感であるそうだ。

これは人間が社会的動物である以前にサルや。チンパンジーと同様の動物であることを示しているのであろう。

そんな野生的な感情を持ってしまうのは人間だって動物なのだからしょうがないけれども、できる限りそれを理性でコントロールすることはやはり大切だ。

それができなければ、社会人ではない。なのでいつか社会人失格の烙印を押されることになる。

1 番に考えなくてはいけないのは「自分が嫌いな人間が本当に私に害悪をもたらしているのか」を考えることである。

そうでないのであれば。自分の憎しみの感情こその憎むべきなのだと思う。


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