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#7「安心して旅立って」と言える社会に

障害があろうとなかろうと、億万長者だろうとホームレスだろうと、
そして、価値のない人間は排除してしまえという、
忌むべき主張をくり返す人であっても、
どんな人にでも「人権」がある。

すべての人が生まれながらに持つ、
おかしてはならない権利、「人権」。

これを守るために、
たとえどれだけ極悪非道な人間でも、法の統治に守られ、
私刑からも保護されている。

それは、人類がその歩みのなかで、
数えきれないほどの犠牲の上に勝ち取ってきた権利であるからだ。

100歳まで生きたい

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彼女は、その日から大好物のあまいおかしを食べることをやめた。
それは、ダイエットや美容のためではなく、
「100歳まで生きるため」だった。

彼女にはハンディキャップを持ったわが子がいる。
10歳をむかえて少し歩けるようにはなったが、一言も発語がなく、おむつもしている。
将来、その子が自立してひとりで生きていけるのかというと、
それはわからない。

だから、40歳まぢかで産んだ末子が、
その命を全うするまで生きていたいというのが
彼女のねがいなのである。

「私にもしものことがあれば、この子はどうなるの」
これは、ハンディキャップを持ったお子さんを持たれるお母さんたちが共通して抱かれているであろう思いである。

すべてのお母さんをしあわせに

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わたしは子どもが幼稚園に入ったばかりのころ、女性の再就職を進めるセミナーに出たことがある。そこで講師を務めたのは、子どもを6カ月で保育所に入れ、産後もバリバリ働いておられるワーキングマザーだった。

当然、そんな講師さんの友人たちも同様に有能でバイタリティーあふれる人が多いらしく、みなそれぞれ、育休後に復帰したり、あるいは再就職したりして、社会で活躍しておられるそうだ。

しかし、そんな講師さんの有能な友人の一人は再就職せず、今も専業主婦なのだという。なぜならば、
「ハンディキャップのあるこどもを育てているから」
だ。

現在の日本の状況では、たとえどれだけ本人が有能で就業意欲にあふれていた女性であるとしても、ハンディキャップのある子をうんだことにより、ほぼその子の世話にその後の生涯をささげることになる。

それは、決して美しい自己犠牲の精神などからではなく、
ほかに頼れるものがなく、自分がやるしかない状況に追い込まれるからだ。

そんな母親の姿をずっとそばで見続けていた、
あるハンディキャップを持った若者が、
その決して長くない自らの命の終わりを悟ったとき、
ある一つのねがいを口にしたのだという。

それは、
「自分みたいに障害をもった子を持つすべてのお母さんが、
幸せになってくれるように」

だった。

そして、そのように必死に生きてきたお母さんたちが、
「この子を残しては、死んでも死にきれない」
とこぞって口にするのが、今の日本社会なのである。

人の「価値」とは

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若者を中心に人気を集め、
YouTubeでは250万人以上のフォロワーを持つ某有名人が、
「ホームレスの命はどうでもいい」
的な発言をしたとかで、今、世の中がざわついている。

炎上マーケティングの一環なのか、何なのかはよく分からない。

※【追記】2021年8月13日に謝罪動画を投稿されたそうです。

ただ、そのような意見を平気な顔して言う人がいるかぎり、
ハンディキャップを持った子を持つお母さんたちが天の国へと旅立つときが近づいたときに、
「安心して旅立ってください」
なんて言うことはできない。

とはいえ、
「こんな恐ろしい発言をする人なんていなければいいのに」
という思いもまた、決して抱いてはいけないのだ。

明日を変えるために今できることは

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「目には目を、歯には歯を」
というハンムラビ法典がある。
一見、かなり野蛮な規則に思えるかもしれない。


しかし、もしも他人に一方的に自分の目をつぶされたとしたら、その相手の命をうばってやりたいという思いにかられないだろうか。

もしも、自分の大切な人を殺されたら、その当事者だけでなく、家族および関係者もろともぶっ殺してやりたいという思いにならないだろうか。

このように、やむことのない復讐と憎悪の連鎖を断つため、目をつぶされたら、同じ目だけで怒りを納めよ、というのがハンムラビ法典の趣旨である。

そして、そんな紀元前18世紀から3800年以上が経過した現代の日本には、
「基本的人権の尊重」が日本国憲法の3本柱の1つとして存在する。

https://twitter.com/MHLWitter/status/1426027902810804229?s=20


「そんなに助けてあげたいなら、
自分で身銭切って寄付でもしたらいいんじゃない?」


一連の発言は支持できないが、この部分だけは一利あると思う。
この町は田舎だからか、街頭で「ビッグイシュー」を売っているような人たちには会ったことがない。

だけど、自分にも身銭を切れることはあるはずだ。

憎悪に憎悪で返したら、相手と同じ土壌に乗ってしまう。

そして、人は他人の思いを変えることはできない。
だけど、自分を変えること、一歩を踏み出すことはできる。

変えていかなくてはいけない。自分を、そしてこの社会を。

ハンディキャップを持ったわが子を持つお母さんたちが、この世での最後のときを迎えようとするとき、

「安心して旅立ってください。この子は私たちが、この社会で責任を持って幸せにしますから」

と胸をはって言える明日にするために。

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