黒山羊からの手紙

一際背の高い煙突を囲むように広がる田舎の集落。それらが一望できるこの丘に一人で佇む少年がいた。長いまつげとすらりとした華奢な体格は面影を感じる。
ただその表情は良く知る笑顔じゃなくて、ただただ口をへの字にして遠くを見つめていた。
「何やってるんだ?」
そう言っても少年は気付かない。そりゃあそうか。
彼の脇に置かれたバケツには水がいっぱい溜まっている。こうやって水汲みを毎日するのが彼の日課だった。
「僕も大きくなったら、父さんみたいになれるかなあ」
母と二人きりで暮らす彼が父親を亡くしたのは彼が六歳の時だ。そんな彼の言葉は悲しいというよりは、果たして本当になれるのか少し不安だと言う風で、至って落ち着いていた。
私はこの頃から、この少年と向き合うようになった。当時の私は彼の友人であり、父親でもあったのだ。
実在しないこの私に対し、彼はよく甘えてきた。今ではその立場が逆になっているが。
「なれるよ」
私は腕を組みながらそう言う。彼は座り込んだまま見向きもしない。
それでもいい。この少年に言ってやりたいんだ。君は大丈夫だと。
君は立派な男になれる。
父と同じ軍人になって、
最期まで強く優しい人間だったんだって。

「そろそろ行かないと」
小さな彼はそう言って立ち上がる。重たいバケツをぐっと持ち上げると、足を前へ前へと運ばせて、私の横を通り過ぎていく。
ああ、一度でいいから。
Arnoldさんにこの姿見せてあげたいなあ。
私は実在しなかったから。
本当の父親であるあの人に、一人で頑張るあの少年を抱きしめてあげてほしかった。
私は抱きしめられなかった。
今でも結局こうやって気づかれないままだ。
今のように人でもなければ、
身体も無ければ、
命でもなければ、
声も無い。
そんな当時。天を仰いで思う。
「…Reol、ごめんな」
ずっと前の君と、異形だった私。
遠い昔への思いは空に溶けていった。

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