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【絶叫杯】Hide and Seek, Hunter and Freak.【提出用】

 ハチドリ通りの裏のうらぶれたアパートの外の取り付けられた鉄階段を一人の男が上っていく。灰色のコートを着た背の高い男だ。切れかけた蛍光灯が明滅して、男の顔を照らす。その目は触れると切れそうなほど鋭く光っている。
 カン、カンと革靴が階段を叩く音が響く。男は三階への入り口で立ち止まった。ゆっくりと扉を開く。カギはかかっていない。何気ない調子で廊下を進む。三つ目の部屋の扉で立ち止まり、扉をノックする。
 返事は返ってこない。もう一度ノック。そっとノブに手をかける。
「誰だい?」
 男がノブをひねろうとしたところで、声が返ってきた。しわがれた老婆の声だ。男は親しげな口調でドア越しに話しかける。
「ああ、シンザさん。僕ですよ。ブルーです。ちょっと近くを通ったので、元気かなって」
 少し間があった。
「ああ、ブルーさんか。よく来たね」
「いつものお土産をもってきたのですけれども、一緒に食べませんか」
 また少しの間。部屋の中から足を引きずる音が近づいてくる。
「ああ、ありがとうね。今開けるから」
 扉が開く。老婆が姿を現す。
「久しぶりですね。お変わりないですか?」
「ええ、どうもね。おかげさまで」
 シンザは男を椅子に座れ背ながら、置かれたカップにポットからコーヒーを注いだ。薄汚れてはいるが、きれいに整理のされた小さなダイニングだった。
「それはなによりです」
「ブルーさんは何の用で、このあたりに?」
「ええ、ちょっと人探しで」
「そうなのかい」
「シンザさんは見ていませんか? ローゼちゃんって、ほら向かいのアパートに住んでる女の子なんですけど」
 シンザは記憶を探るように目をつむった。
「悪いけれど、見ていないね」
「そうですか」
 さして情報を期待はしていなかったのか、ブルーはあっさりと答える。
「何を作っているんですか?」
 ブルーはキッチンのコンロの上で火にかけられている鍋を見た。古びた深い鉄鍋が弱火にかけられて湯気を立てている。
「ちょっといい肉が入ったからね」
 シンザは注がれたまま口をつけられていないコーヒーを見ながら言った。
「お口に合わなかったかしら?」
「ああ、すみません。コーヒーが得意ではないくて」
「そうだったかい? そりゃ悪かったね」
「いえ、こちらこそ。せっかく淹れてもらったのに」
 ところで、とブルーはキッチンの鍋を見つめたまま言った。
「あの中に入っているのはもしかして、ローゼちゃんじゃあないですか?」
 居間に沈黙が流れる。
 老婆の舌打ちが沈黙を破る。荒々しい舌打ち。老婆のものとは思えない。
「GRUAAAAAAAA」
 咆哮が部屋の中に響く。老婆が膨れ上がった。皺だらけの皮がはじけ飛び、堅牢な毛皮に包まれた巨大な獣の筋肉が姿を現す。口吻が伸び、口が裂ける。そこにあるのは温和な老婆の顔ではない。獰猛な狼の顔だ。人狼の顔。
 ブルーは立ち上がりざまに後ろへ飛びのく。
 ブルーのいた空間を巨大な爪が通り過ぎる。机がなぎ倒され、椅子が砕ける。
 人狼が爪を振りかぶる。それが振り下ろされるよりも速く、ブルーは懐から手を引き抜いた。その手には黒く滑らかな古めかしいリボルバーが握られている。撃鉄はすでに起こされている。ブルーは狙いを定め、引き金を引く。
 轟音とともに銀の弾丸が回転しながら一直線に人狼の心臓へと飛び出す。工業的に聖別された銀の銃弾は怪物の体に不癒の傷を焼き付けながら、毛皮、肉、そして心臓を貫いた。
「U......GAA」
 人狼は驚いたように目を見開くと、そのまま小さく声を漏らしながら倒れた。
「ああ、わかってるよ」
 ブルーは虚空に向かって答える。撃鉄を起こし、もう一発心臓に銃弾を撃ち込んだ。反応はない。
「あたりまえだろ、だってシンザさんに会うの初めてなんだから」
 その言葉は老婆に向けられたものではない。ここにはいない誰かに話しかけるように発された言葉だった。キッチンの方へ歩いていく。火にかけられた鍋を覗き込む。
 たっぷりの泡立つお湯の中、少女の顔が恐怖に見開いた目でブルーを見つめていた。

◆◆◆

「すみません。せんぱい。ちょっとトイレいってきます」
「隣で借りて来いよ。セキ」
 セキと呼ばれた若い警官は、冷蔵庫を閉じると青い顔をして玄関へとよろよろと歩いていった。
「どしたんだ? ホアン」
 脚の傾いだ椅子に座ったままブルーは警官、ホアンに尋ねた。ホアンは台所の様子をメモに取る手を止めずに答える。小柄な制服の肩越しに見える字はひどく繊細な文字だ。石鹸の匂いさえ漂ってきそうな清潔なホアンの印象の通りの文字だった。
「あいつ今日がこういう現場初めてでよ」
「ああ」
 ブルーは納得したように相槌を打つ。初めて師匠のマロンに犠牲者の検分に連れていかれた日はブルーもホアンも胃液まで吐いたものだった。今ではもう慣れっこになってしまったものだけれども。
「しかし、お前が新入りの指導かよ」
「後進育てねえとなって」
「年寄りみてえなことを」
「もう年寄りだよ、俺らは」
 ため息を一つついてホアンはブルーに振り返る。疲れの積もった目がブルウーの目を捉える。ブルーは床に横たわる人狼の死体に目を移しながら尋ねた。
「こいつの首もらってってもいいか?」
「ん? 構わねえが。どうするんだ?」
 人狼の一部を持ち帰るのは人狼狩りに認められた権利だ。かつては仕留めた人狼の爪や牙をトロフィー代わりに飾る人狼狩りもいたという。ホアンが怪訝な顔をしたのはブルーは今まで死体の処理をすべて警察に任せていたからだ。
「アヒル亭にツケが溜まってんだ。これ持ってったらしばらくチャラにしてくれんだろ」
「懸賞から払えよ」
「そっちは家賃にするんだよ」
 気まずそうに答えるブルー。ホアンはもう一つため息をつく。
「なあ、ブルー。警察に入らないか?」
「は? なんだよ。急に」
「こんど人狼狩りの課ができるんだよ」
「首輪付きの狩人なんて面白くもねえ」
「暮らしは楽になるぜ」
「……柄じゃねえよ」
 しばらく頭の中でそろばんを弾く間があって、ブルーは首を横に振った。「なんでだよ。お前の追跡術ならいくらでも挙げれるだろ。バックアップあった方がいいんじゃねえの?」
「書類書いて、上に頭下げて、後輩育てながらか? そんな器用なことはできねえよ」
「ブルー」
「それに」
 遮ろうとしたホアンをさらに遮ってブルーは言う。
「俺は人狼狩りだ」
 じっと手に握った銃を見つめる。その奥に前の持ち主を見出そうとしているような目つきだった。あるいはその仇を。老いた女狩人の首と、片方の牙のない傷跡。
「やつを仕留めるまでは」
「そうか」
 ホアンはそれだけ言うと眉を少し上げて冷蔵庫に向き直った。
「せんぱい、もどりました」
 青白い顔で口元を拭いながら若い警官が戻ってきた。
「おかえりセキ。全部吐けたか?」
「胃液まで吐きました」
 若い警官、セキは少し不思議そうな表情でブルーを見てからキッチンに入る。冷蔵庫を開いて中を調べているホアンに小声で尋ねる。
「そういえば、あっちの方は?」
「人狼狩りだよ。白銀皮殺しって知らねえか?」
「え!? 白銀皮殺しって、ブルーさん?」
 ブルーの答えにセキが素っ頓狂な声を上げた。ちらりと横目でブルーの方を見る。ギラリとした鋭い目に見返されてホアンの方に向き直る。
「ああ、知らなかったのか」
「顔までは」
 へぇーと言いながらなおもブルーの方を窺っている。ブルーは気づかないふりをして銃をいじっている。
「終わったぞ」
「あ、はい」
 手帳を閉じてホアンが言った。セキは慌てて答える。
「じゃあ、ブルー、頭は後で届けさせるから」
「おう、悪いな」
「あ、そうだ。お前、来週の金曜暇か?」
 思い出したようにホアンが尋ねた。ブルーは口をへの字に曲げた。
「先に用を言えよ」
「署長の演説があるんだよ」
「署長? ビエールイのおっさんのことだよな? 演説?」
 ブルーが眉を上げた。ビエールイは警察の署長だ。
「ああ、今度の市長選でるんだとさ。その演説。なんか反対勢力の襲撃が予測されるとかで、警備しろってよ」
 ホアンは声を潜めて付け加えた。
「署長だしよ、断りづらいんだよ。ただ、正規の職員だけだとそこまでつけれねえから」
「どこの馬の骨とも知れん奴がいたらかえって危なくないか?」
「お前の身元は俺が保証するよ」
 ブルーは腕を組んで考え込んだ。頭の中で事務所の金庫の中身と来月の家賃を思い浮かべているらしい。少しの間があった。
 頷きかけて、その首が止まった。
「来週の金曜日だったか、何日だ?」
「13日だな。どうかしたか?」
「あー、悪い、その日はだめだな」
「なんかあるのか?」
「墓参りに行くことにしてるんだよ」
 今度はホアンが黙り込んだ。少し沈黙して「ああ」と納得したように答える。セキが不思議そうな顔で二人を見つめる。
「まだ行ってるんだな」
「ああ」
「そうか」
「そういうわけだから、悪いな」
「いや、またなんかあったら頼むよ」
「ああ、じゃあな」
「またな」
 それだけ言うとブルーは老婆の部屋から立ち去った。

「もう五年だぞ」
 ドアの閉まる音を聞いて、ホアンはぽつりとそう言った。
「え、なんですか?」
「なんでもねえよ」
ホアンは誤魔化すように、セキに背を向けた。
「それより早く慣れろよ。こういうの」
 言いながらホアンが冷蔵庫の扉を開ける。セキは冷蔵庫の中に目をやってしまう。老婆が瞼のない目でうつろに見つめ返してきている。セキは息を呑んで、込み上げてくるものを抑え込もうと口に手を当てた。
「慣れたくはないですね」
 セキは床の獣の骸に視線をやって眉をしかめる。
「さっさと狩りつくさないと」
 ホアンは面白そうな目で、セキの横顔を眺めた。その目は吐いた時の涙で赤く染まっていたけれども、たしかな決意が潜んでいるように見える。
「じゃあ、とりあえずそいつを処理しねえとな。詰所まで運ぶぞ」
「はい」
 そこまで言ってホアンは意地悪そうにニヤリと笑って付け加えた。
「首はブルーが欲しがってたからな、傷つけると怖いぞ」
「ブルーさんって怖いんですか?」
「人狼狩りだぞ」
「そうですね」
 セキはブルーの眼差しを思い出したのか、ぶるりと身を震わせた。慎重に人狼の身体を背負いあげる。痩せたセキには少し重すぎるようで、歯を食いしばり苦悶の表情を浮かべている。
「行けるか」
「はい」
 セキはそう答えると、軽い口調を作った。よろよろと玄関の方へ向かう。
「でも、先輩、ブルーさんと知り合いだったんですね」
「まあ、ちょっとな」
「どこで知り合ったんですか」
「ああ、同じ師匠に仕込まれたんだよ」
「師匠?」
「ああ、知らないか? 九十九匹殺しのマロンって」

◆◆◆

”13代目 人狼狩り マロン 九十九匹の人狼の牙とともに眠る”

 墓地の片隅の小さな墓石にはそう書かれてある。ブルーは墓石の前に立ち、コートのポケットから小さな酒瓶を取り出した。封を切り、自分で一口あおってから、残りを墓石にかけた。
「この前、ホアンに会ったよ。忙しくしてるみたいだぜ」
 ブルーは墓石に話しかける。答える声はない。
 もしも、マロンが生きていたらどう言うだろうか。想像する。五年間の習慣。耳の中に声がよみがえる。
『お前は忙しくなさそうだね』
「誰かさんのせいでな」
『残しといてやったろう? 面倒な奴をさ』
 頭の中に痩せた女狩人の顔が浮かぶ。
「本当に面倒な奴さ」
『お前にゃ、難しすぎる相手だったかね?」
「あんたも仕留めれなかっただろうが」
『そう言われると辛いね』
 そう言いながらもマロンはにやにや笑いを崩さないだろう。彼女は獲物を追う鋭い目をしているとき以外はいつも見透かしたような笑顔を浮かべていた。
『狩人さん、別に追い続けなくてもいいんだよ』
「そういうわけにもいかないだろ。今日だって一人殺された」
『それはお気の毒に、でも、そのうち全部勝手にくたばるぜ』
「その前に仕留めるさ」
 そう言えばマロンはため息をつくだろう。
『あたしの仇ってんなら取らなくていいからね』
「…………」
 頭の中のマロンに言われ、ブルーは黙った。頭を振ってかたく墓石に語り掛ける。それともそれは自分自身に向けたものだったかもしれない。
「そんなつもりはない」
 ブルーはそう言って墓石に背を向けて歩き出した。
 歩きながらふと考える。今のマロンの言葉はどこから出てきたのだろう

◆◆◆

「仇討ちが来る」
 マロンはどさり、と事務所の床に二つの首を置いてそう漏らした。一つは人間の男、もう一つは雌の狼の頭部だった。声に滲む疲労は三日三晩の追跡のせいだけではなさそうだった。まだ銃身に熱の残る銃をブルーに放り投げた。
「二匹いるように見えますけど」
 ブルーは銃を受け取りながら疑問を口にした。つがいの人狼を追っていると聞いていた。二つの頭部は寄り添うように目を閉じている。マロンは血にまみれたコートを着たままソファに身を預けた。
「子供を逃がした」
 マロンは目を揉みながらため息をつく。
「らしくないですね」
 部屋の片隅の作業台で拳銃からシリンダーを取り外しながら言った。引き出しから細いブラシを取り出して、バレルの中に数回突っ込む。筒の中にこびりついた汚れが黒い粉になって作業台の上に散らばる。弟子になって数年が経ち、銃の整備を任されるようになったのは最近のことだった。
「こいつらが全力で抵抗した。ガキを逃がそうとしてた」
「獣でしょう? そんな頭ありますかね?」
「半分は人間だ……子供もな」
 苦々しい口調。ブルーはオイルを浸したぼろきれでさらにバレルの中をぬぐう。白い布がたちまち黒く染まる。
「逃げ際に顔を見られた。あいつは大きくなったら殺しに来るだろう」
「はあ」
 ロッドを絞めなおす。マロンがため息をつく。
「返り討ちにすればいいじゃないですか」
「そのつもりだよ」
 ブルーはシリンダーに空いた穴の一つに布を巻き付けた棒を通しながらちらりとマロンの方を見た。天井を仰ぎ、ひじ掛けに足を乗せた姿勢のままピクリとも動かない。隣の穴に布を通す。
「まあ、仕方ねえよな」
 ぽつり、とマロンが言った。悔悟のこもった声。
「何がですか?」
「しっかり家族してやがったんだよ。こいつら」
「人狼のくせに?」
「ああ、旦那は人間に紛れて仕事に行って、妻は家の仕事しながらガキの世話見て」
「はあ」
 マロンはぼんやりと語り続ける。
「ずっと見てたら本当はただの普通の家族なんじゃないかって思えてきた。そうだったらいいとも思った」
 大きなため息を一つ。
「でも、駄目だったな。旦那の方がそこらの女の子をどっかでぶち殺して持って帰ってきやがった。どうもガキの誕生日だったらしい」
 そこまで言うとマロンは思い出すように黙り込んだ。天井をぼんやりと眺める。他にあり得た選択肢を探しているようだった。
「仕方ねえよな」
 マロンは繰り返した。首だけを動かして床の上の人狼の首を眺めて言う。
「こいつらを殺さなきゃ、誰かが殺される。殺された奴の親かダチか、ガキはこいつらを恨む。でもそいつらじゃこいつらを殺せない。じゃああたしが殺すしかねえよな」
 聞いたことのないマロンの声の様子にブルーは手を止めて師匠の顔を見つめた。いつもと同じにやにや笑いを浮かべている。けれども人狼の首の向こうに何かを見るその顔にはどこか暗い影が落ちているように見える。
「あたしの師匠はあいつらに殺された。あいつらは私が殺す。いつかあいつらのうちの一匹があたしを殺すんだろうよ」
「そしたらおれがそいつを殺しますよ」
「頼もしいね」
 ブルーの言葉に、マロンは小さく笑った。少し黙って首を振る。
「でも、仇はとらなくていい」
「そういうわけにもいかないですよ」
「じゃあ、仇だと思うな、ただの一匹だ。例えそいつが誰を殺していても、何人殺していても」
「はあ」

 あの時の言葉は珍しく師匠らしいことばだったとブルーは思い出しながら思った。あれはマロンがホアンを拾ってくる少し前だっただろうか。
 結局、五年前にマロンを殺したのがその孤狼だったのかどうかはわからない。もしかしたら全く別の狼がマロンを食い殺したのかもしれない。けれどもブルーは師匠の仇はその時の狼だと思っている。
 ふと、ブルーは足を止めた。墓地からの帰り道、いつもなら人通りのないはずの小道にやけに人が多いことに気が付いた。貧しい服装をした老若男女が希望に満ちた顔でどこかに歩いている。この先はなんだっただろうか、ブルーは考える。
「ああ」
 思い至って舌打ちをする。その道は中央広場につながる道だった。もうすぐビエールイの演説が開かれる時間のはずだ。ブルーは頭の中に地図を浮かべる。
『いざというときに迷わないようにしときな』
 町の地図を頭に入れさせたのはマロンだった。中央広場を迂回して事務所に向かう道を探す。最近では人込みを避けるときぐらいしか使っていないが。さらに細い路地につながる角を曲がる。
 
 ブルーは高い声を聞いた。
 遠い。しかし確かに狩人の耳は捉えていた。
 女の悲鳴だ。続いて、鼻が匂いを捕まえる。血と獣の匂い。

 気が付いた時には走り出していた。首筋がカッと熱くなる。声への最短の道のりを駆ける。走りながら懐から銃を取り出す。磨き込まれた黒檀の銃把を握りしめる。いつもの期待が胸に込み上げる。
 血の匂いが強くなる。角を曲がる。
 狭い路地だ。獣が見えた。
 何かに覆いかぶさっている。黒い毛におおわれた巨躯。ひどく背を曲げた二足歩行。大きな腕が振り上げられる。その先端にギラリと光る鋭い爪。
 立ち止まる。ハンマーを起こす。狙いをつける。引き金を引く。滑らかな手触り。腕に衝撃が走る。轟音が響く。獣の頭を掠める。
 人狼が振り返る。闇の中に一本の白い牙が閃く。対になる牙はない。
 ブルーの脳髄に稲妻が走る。
 五年間の光景。あの日ぎらりと輝いた片方だけの白い牙。師匠のマロンの微笑んだままの生首。放った銃弾が砕いた獣の右の牙。破れた窓から駆け去る後ろ足で立つの獣。脳裏によみがえる記憶に噛みしめる歯がギリと音を立てた。
 込み上げる怒りを呑み込み、冷静さを脳髄に流し込む。
 ハンマーを起こす。シリンダーが回る。狙いを定める。胴に銃口を向ける。視界の端に犠牲者がもがくのが見える。再び舌打ち。わずかに銃口を動かす。引き金を引く。衝撃。轟音。
「GRUAAAAAAAA!!」 
 人狼の咆哮が響く。右前足の付け根から血が噴き出す。人狼が飛びのいてブルーから距離をとる。ブルーは再びハンマーを起こす。人狼が振り向きブルーの姿を捉える。血に染まった口元が痛みにゆがむ。
 構えた銃を見ると驚いたように目を見開く。ブルーの目と人狼の血走った目が合う。人狼が動く。引き金を引く。外れる。予想に反して人狼は後ろに跳んでいた。振り向くと四つ足に戻り駆け出す。
 ブルーが後を追い、走り出す。走り出そうとした。
「うぅ」
 うめき声が聞こえた。駆けだした足が止まる。犠牲者の声だ。まだ生きている。若い女だった。腕を大きく引き裂かれ、ひどく出血している。ちらりと人狼の方に目をやる。今ならまだ追いつけるだろう。逡巡。舌打ち。
「くそ!」

◆◆◆

『甘いねぇ。お前も』
「うるせえよ」
 混沌の領域が支配を完了しつつある事務所の片隅、かろうじて空白が保たれている作業机でブルーはマロンの幻影に悪態を返した。
『そんな子ほっといて、追いかければよかったのに』
 ブルーはちらりとソファで眠る女を見た。ソファに置かれていた山積みの書類はいったん床の上に置き場所を変えて、女の横たわる空間を開けていた。この事務所に運び込まれ、包帯を巻いている間も、女は意識を取り戻さない。今も毛布にくるまり苦しそうに息をしている。
「あんたならほっといたって言うのかよ」
『どう思う?』
「絶対に拾ってたと思うね。あんたお人よしだし」
 マロンはそういう人間だった。そうでなければ自分やホアンを拾ったりはしなかっただろう。
『よくわかっているじゃないか。いい弟子に育ってうれしいよ』
 ブルーはため息を一つついた。作業台の上に置いた拳銃のねじを締めなおし、油を差す。黒くに輝く銃身は傷一つなく磨き上げられている。
 視線を感じた。ブルーは目を上げる。ソファに横になったまま女がブルーを怪訝そうな目で見つめていた。はた目から見るとブルーは虚空と話しているようにしか見えないだろう。ブルーはごまかすように一つ咳ばらいをして尋ねた。
「名前は?」
「…………」
 女は答えない。ため息を一つ。
 ハンマーを起こし、引き金を引く。滑らかな手ごたえ。カチリ、と重い音がしてハンマーが空の弾倉を叩く。ぼろきれを手に取って漏れたオイルをぬぐう。
「何か覚えているか? お前さん、獣に襲われていたんだが」
 ブルーは言葉に期待がにじまないように気を付けて尋ねた。人狼に襲われて生き残った者は少ない。ブルーは横目で女の様子をうかがう。女は黙ったまま何も言わない。
「落ち着いたなら送っていくぞ。どこに住んでいるんだ」
 ブルーはあきらめて声をかける。女は首を横に振った。
「なんだ?」
 女はまた首を振る。
「訳ありか? 家出か、追い出されたか……」
 何も言わない。
「警察に行くか?」
 女は首を振る。ブルーは眉をしかめる。立ち上がり、電話に向かう。ソファの脇を通った時、コートの裾を女がつかんだ。
「なんだよ」
 女は口をきつく結んだまま、黙り込んでいる。ブルーは困惑して女を見つめた。
 その時、事務所の扉をノックする音が聞こえた。
「誰だ?」
「俺だ。ブルー、開けろ」
 返ってきた声はホアンのものだった。
「ああ、ちょっとまってくれ」
「なんだ、開いてるんじゃねえか」
 無遠慮に扉が開く。ホアンが姿を現す。その後ろに痩せた制服を着た男。
 ホアンがブルーを見つける。裾を掴むソファに横たわる女に目線が走る。ホアンの眉と口角が吊り上がる。
「取り込み中だったか?」
「違う。そういうのじゃない」
 ホアンの冷やかすような言葉にブルーは否定の言葉を返す。
「ちょうどよかった」
「なんだ? ちょうどいいって」
「ああ、いや、この娘なんだが……」
 ブルーはそこまで言って言葉を途切れさせる。眉を寄せて続ける言葉を探す。その一瞬に声が差し込まれた。少しかすれた声。初めて聞く声。
「ええ、初めまして。私ブランって言います。ブルーさんに助手にさせてもらったんです」

◆◆◆

「誰ですか? そいつ」
 マロンが事務所に連れてきた少年を見て、ブルーは冷ややかにそう言った。ブルーと同じくらいの年齢のその少年は何を考えているのかわからないぼうとした表情で事務所の中を見回している。
「ああ、新しい弟子。拾って来たの」
「拾って来たって……犬や猫じゃないんですから」
「大丈夫大丈夫ちゃんと面倒見るからさ」
 軽い口調で答えるマロンにブルーは頭を抱えた。マロンが犬や猫を拾ってきたのは一回や二回ではない。そのたびに世話をして里親を探すのはブルーの役目だった。この事務所はペット不可だ。
「犬でも猫でもないから大家さんにも文句言われないでしょう」
「弟子なら俺で十分じゃないですか」
「あ、なに、そういうの?」
「なんです?」
 そっぽを向いてこぼした言葉にマロンはにやりと笑った。
「あの」
 おずおずと少年が口を挟んだ。
「もし、邪魔なら俺は別に……」
「いいんだよ、気にしなくて、こいつ新しい弟子ができるってんでむくれてるだけだから」
「違います」
「じゃあいいだろ、兄弟子になるんだぜ。ちゃんといろいろ教えてやれよ、な」
 ブルーの肩に手を置いてマロンは言う。にやにや笑いの師匠の目の奥に有無を言わせぬ光があった。目を逸らした先には少年の目が合った。おどおどと自信なさげに二人のことを見つめている。雨の日に捨てられた子犬のようなその目に見据えられてブルーは
「はい」
 としぶしぶ呟いた。マロンはニヤリと口角を上げて頷く。
「こいつはブルー、お前の名前は?」
「あ、おれはホアンって言います」
 おどおどと少年はそう名乗った。

◆◆◆

 香ばしいコーヒーの匂いにブルーは目を覚ました。ゆっくりと目を開ける。書類の山に囲まれた事務机の椅子に座ったまま眠っていたようだ。背伸びをするとバキバキと背中の骨が音を立てた。
 どうしてソファで寝ていないのだろうと自問する。いつものねぐらにぼんやりとした目を向ける。違和感を覚えてブルーは眉をしかめた。何かが違う。しばらくして気がつく。
 空のソファが見えた。いつもは書類やらガラクタやらに埋もれてブルーの座る机からソファは見えないはずだった。立ち上がる。
 床を埋め尽くしていた資料がなくなっている。ごくりと息を呑む。全身に汗が浮かぶ。師匠から受け継ぎ、ブルーが更新し続けてきた人狼の資料。貴重な資料だが、誰が欲しがる? けれども実際になくなっているのは事実だ。
『泥棒かな?』
 頭の中で師匠が面白そうにつぶやく。
 カタリと物音がした。キッチンの方だ。懐に手をやる。堅い銃把の手触りを感じる。狩人の足つきでキッチンに進む。障害物のない床はひどく歩きやすい。ブルーは久しぶりに床に絨毯を敷いていたことを思い出した。
 キッチンの物音はやまない。何か物色しているのだろうか。カタカタと物を動かし続ける音が聞こえる。
 足音を消したまま影のようにキッチンに飛び込む。
 やはり物がなくなっていた。五年来洗い物に埋め尽くされていたシンクは空になり、コンロの上に積まれていた食べ物の容器も姿を消していた。がらんとした調理台の上では鍋に入れられたゆがぽこぽこと音を立てている。侵入者は冷蔵庫(これもしばらく姿を見ていなかった)の扉を開けて中を覗き込んでいる。ブルーにはまだ気がついていないようだ。
 懐から右手を抜く。その中には大ぶりな銃。撃鉄を滑らかに起こす。
「なにものだ?」
 侵入者がゆっくりと振り返る。
「あ、ごめんなさい。勝手にもの動かしました」
 ブルーはその顔を見て昨夜のことを思い出す。自分で拾ってきた人狼の被害者。弟子を名乗る女。ブラン。
 銃を下ろす。
「コーヒー飲みます?」
「いや、いい」
 ブルーは首を振る。女の手にはいつのモノとも知れぬ言いようのない匂いを漂わせる牛乳のパックが握られていた。

◆◆◆

「お前がやったのか」
「はい。捨てたらまずそうなものは捨ててないと思います」
 作業机の前に座りブランはコーヒーをすすっている。ブルーは事務机から部屋を見回す。見晴らしの良くなった室内。いかなる魔法を使ったのだろうか、床や机、ソファの上に散乱し山積みになっていた資料は本棚の中にきれいに収められていた。
「便利なように置いておいたんだがな」
「元に戻しましょうか?」
「いや、いい」
 ブルーはしかめ面で答える。冷静になって本棚を眺めてみると、ちらりと見ただけでもきちんと年代順に並べられているのがわかる。腹立たしいがこちらの方が資料を探しやすいだろう。
「師匠が寝ている間、暇だったので」
「……師匠じゃねえ」
「師匠、本当に人狼狩りだったんですね」
 ブルーの言葉を無視して、ブランは言葉をつづける。
「師匠じゃないって言ってるだろ」
「お役に立てると思いますけど」
 ブランはそう言って部屋をぐるりと見まわした。釣られてブルーも部屋中に目をやる。秩序の戻った部屋。ブランの一晩の成果。返そうとした否定の言葉を飲み込む。
「お前が思っているような楽な仕事じゃねえぞ」
 ブランは何も言わない。ブルーは眉間にしわを寄せて怖い表情を作る。
「俺の師匠は人狼に殺された。その師匠もだ。たぶん俺もいつか人狼に殺される。もしお前が弟子になったら、お前もいつかは」
「知ってます」
 ブルーはブランの表情をうかがう。コーヒーの黒い水面を見つめるその瞳からはいかなる感情も読み取れない。一回りも年齢の違う人間の思考を読むのは難解だ。街中で獣の痕跡を追う方が幾分簡単だった。
 ブランから目をそらす。整理された本棚を眺める。古いものから新しいものまできれいに並べられている。その片隅に写真立てがあるのが目に入った。随分久しぶりに見る。簡素な木の枠は埃をぬぐった跡が付いている。
 写真の中で一人の女性と二人の少年が微笑んでいる。マロンとブルー、それにホアンだった。三人とも顔に返り血が付いている。いつだか人狼を仕留めた帰り道にマロンの思い付きでとった写真だ。
 マロンの考えることを理解できたことはあまり多くなかった。マロンもブルーのことをよくわかっていなかったのだろうか。ブランがブルーの視線を追っているのに気が付く。
「あれは?」
「なんでもない」
 ため息一つ。ブルーは立ち上がり本棚に近づく。写真立てに手を伸ばし、ぱたんと伏せた。
「使い物にならないと思ったら追い出すからな」
「はい」
 ブランは神妙に頷いた。

◆◆◆

「それで連れてきたわけだ」
 ホアンは面白そうに眉を持ち上げながらブルーとブランを交互に見比べた。二人ともお仕着せの古びた制服に身を包んでいる。
「ああ、別にこいつの分まで金出せとは言わねえよ」
「まあ、員数はいるだけ助かるけどな。先週は人数ぎりぎりで結構しんどかったんだ」
「なんかあったのか?」
「いや、平和なもんだったぜ」
「じゃあいいじゃねえか。まだなんも教えてはないけど、立っておくことくらいはできるはずだぜ」
「よろしくお願いします」
 ブランが頭を下げる。ホアンは笑みを浮かべたまま、まあいいや、と呟き広場を見渡した。広場では作業員が駆けまわって金槌を振り回しながら講演の舞台を組み立てていた。ビエールイのポスターを演台に張り付けている作業員にホアンは声をかける。
「おう、セキ。何してんだ?」
「あ、ホアンさん。それにブルーさんと……えーっと」
 ブルーはその作業員が先日のホアンの部下だということに気が付いた。
「ブランです。ブルー師匠の弟子になりました」
「ああ、そうだ。えっとセキです。よろしくお願いします」
「設営図はもらえたか?」
 挨拶を交わすセキとブランにホアンが口をはさむ。その言葉にセキは制服のポケットから紙切れを取り出しながら口を尖らせた。
「もちろんですよ。でも聞いてくださいよ。代わりにポスター貼るの手伝えとか言われて、ずっと貼って回ってたんですよ」
「そりゃご苦労さん」
 ホアンは軽く受け流しながら紙切れを広げた。ブルーとブランはその紙切れをのぞき込んだ。簡素な図で広場の見取り図と舞台の構造が書かれている。
「表周りは俺らが固める。お前さんたちは広場の入り口の方でやばいのいねえか見張っててもらいたい」
「ん。怪しい奴いたらとりあえず止めればいいんだよな」
「ああ。立ってるだけでなんもないはずだけどな」
「そうなりゃ楽でいいな」
 ブルーは笑って頷いた。

◆◆◆

 立っているだけというのも案外楽ではない、とブルーは欠伸をかみ殺した。広場に次々に入っていく民衆たち。その顔はみな疲れ切っているが、どこか希望の光が宿っている。少なくとも今日の登壇者に危害を加えようという意思は見られない。
 ちらりと横目でブランの方を見る。真剣な表情で来場者の顔を観察している。
『やる気は十分なようだね』
 頭の中でマロンが語りかけてくる。
「やる気だけじゃ、どうにもならないさ」
『冷たいね。いいとこ見せようとしてるんだろうに』
「立っていてくれれば十分さ」
 会話を交わす間も、ブルーの視線はぼんやりと来場者を眺めている。
 ふと来場者の男の一人にブルーの目が止まった。普通の男に見える。眼鏡をかけた気弱そうな男。周りの聴衆と同じように演説の内容に心を躍らせている顔をしている。
「いや」
 男が聴衆の人混みの中に消えても、ブルーはその男から意識を離さない。男から薄く漂う匂いがブルーに危険を知らせていた。嗅ぎなれた匂い。獣の匂い。
「おい」
 小声でブランに話しかける。ブランがブルーの方を向く。
「ちょっとここ任せるぞ」
「え、はい」
 緊張した面持ちでブランが頷くのを確認して、ブルーは人混みの中に潜り込んだ。
 聴衆の中で意識を凝らす。捉えた糸のように細い匂いを辿る。そっと上着の中、脇の下に吊った銃に手をやる。
 歓声が上がった。舞台に目をやると壮年の男が姿を現したところだった。どこか野性味を感じさせるエネルギーに満ちた顔に柔和な笑みを浮かべている。今日の主役、ビエールイだ。拍手と歓声に笑顔を返しながら、演台に歩き、口を開いた。
「皆さん、こんにちは。皆さんに安心を届けようとここに来ました」
 ビエールイの言葉に観衆は大きな声援を返した。
 ブルーは聴衆に意識を戻した。気が付くと匂いは随分強くなっている。一人の男の背中の前で立ち止まる。
「おい、お前」
 低い声で声をかける。男はぎくりと身をこわばらせてゆっくりと顔だけ振り返る。ブルーの顔を見て、目を見開く。
「どなたですか?」
 あたりの聴衆が皆舞台上を見ているのを確認して、ブルーは声を抑えて尋ねる。
「お前、人狼か?」
 男がゴクリ、とつばを飲み込む。
「違いますよ。何を言い出すんですか」
「それならいいんだが……」
 男は小声の早口で否定する。ブルーは少し考える。ここで撃ち殺すことはたやすい。けれどももしも違っていたら? 証拠もなく人間に紛れた人狼を見つけるのは初めてだった。マロンならどうしていただろう。ブルーは自分に問いかける。肝心な時に師匠はなにも答えない。
 迷いを振り払い、銃を引き抜こうとする。
「なんだ! 貴様はぁ!」
 後方で声が響いた。聞き覚えのある声だった。ブランの声だ。聴衆から悲鳴が上がる。そして
 GURUAAA!
 獣の叫び声が聞こえる。振り返る。人混みが割れて巨大な影が見える。黒い毛皮に覆われた猫背の人型。それが猛烈な勢いで舞台に向かってかけてくる。ブルーの血が一瞬で熱くなる。人狼だ。
「待ちやがれ!」
 その巨大な背中に何かが取り付いているのが見えた。目を凝らしてブルーは舌打ちをする。
「あのバカ」
 わめきながら毛皮にしがみついているのはブランだった。振りほどこうとする人狼に抗って首元の毛皮を握りしめている。
 人狼は暴れまわりながら舞台へ向かう。聴衆は悲鳴を上げて逃げ惑う。ブルーは銃を構え、狙いをつけようとしてまた苛立たし気に舌打ちをした。振り回されるブランが邪魔で狙いがつけられない。
「くそ」
 忌々し気に吐き捨てると銃をしまい、獣を追って舞台へと走る。
 獣が舞台への距離を詰める。ブランはまだしがみついている。
 舞台の上でビエールイが目を見開いているのが見える。セキが退避させようと肩を掴んでいる。驚きのためかビエールイは硬直して動かない。
 舞台の前にホアンが見える。ホアンが人狼をにらみ、続いてブルーが追いかけているのをみとめるのを感じる。獣があと一跳びで舞台へ上がる距離まで迫る。
 ブルーとホアンの目が合う。ホアンの目が合図を送っている。ブルーが頷く。カウントはいらない。
 一、二、三
 ブルーとホアンが同時に飛んだ。
 ホアンが肘を突き出し、ブルーが右足を突き出す。
 全身に衝撃が走る。
 耳をつんざく獣の絶叫。
 ホアンの肘とブルーのかかとに挟まれ、人狼の胸郭はへし折れていた。骨の一部が心臓を貫いたのか、叫び声に血の水音が混じっている。
 人狼の巨体が崩れ落ちる。ホアンがブランを抱きとめる。間髪入れずにブルーは銃を抜き心臓に銃弾を撃ち込んだ。銀の銃弾が不癒の傷を焼き付ける。
 断末魔が途切れる。
 ブルーは大きく一つ息を吐いた。
 蒼白な顔をしたブランをにらみ、怒鳴りつける。
「立ってるだけでいいって言っただろうが」
「でも、見つけてしまったから」
 口をへの字に曲げてブランが言う。
「弟子が先に死んでどうするよ」
 ブランが目を見開く。
「師匠」
 それだけ言うとブランは言葉を失った。ブルーも気まずそうに口を閉ざす。
 黙り込む二人を見てホアンが咳払いをして言った。
「あー、もう降ろしてもいいかな」
 ブランは自分がホアンに抱えられていることに気が付いて、慌てて飛び降りた。

◆◆◆

 詰所の電話が鳴った時、ブルーは戸棚の奥から救急箱を見つけ出したところだった。机に向かって報告書を書いていたセキが受話器を取った。
「はい、セキです……あ、お疲れ様です……はい」
「あったぜ、ほら」
「ありがとうございます」
 電話に語り掛けるセキを横目に見ながら、ブランに救急箱を手渡した。ブランの隣にはホアンがどこか気まずそうに座っている。上着を脱ぎシャツだけになった右腕に包帯が巻かれていた。その包帯から血がにじんでいる。
「どうだ?」
「ちょっと傷口が開いただけだよ」
「ほっといて悪くなったらどうするんですか。ほどきますよ」
 口をとがらせるホアンにブランが冷たい口調で言う。詰所に帰ってホアンの上着に滲む血に気がついたのはブランだった。痛みに顔をしかめるホアンを無視して手際よく包帯をほどいていく。
「どうしたんだ?」
「ちょっと暴れる野郎抑えるときにしくじっちまってよ」
「ヤキが回ったな」
「うるせえな」
 言い返したホアンは消毒液を振りかけられて呻いている。そういえば、昔から怪我をするときは平気なくせに治療をされているときはひどく痛そうな顔をしていたなとブルーは思い出す。マロンに手当てをされて悲鳴が耳によみがえってくすりと笑ってしまう。マロンの治療が荒っぽいというのもあっただろうけれども。手当てされるホアンを眺めていると、なにか、奇妙な感じがした。既視感。ホアンの悲鳴にではなく、その傷口に。
「その傷は」
「あー、先輩ちょっといいですか?」
 よく見ようと近づこうとしたところで、受話器を押さえたセキがホアンに声をかけてきた。歯を食いしばったままホアンが「なんだ」と声を返す。
「署長が俺らに話があるみたいなんですけど」
「なんだ?」
「いや、さっきの襲撃のことらしいです。で、出来たらブルーさんたちもって」
「なんだ?」
「さあ?」
 セキが首をかしげる。ブルーも眉間にしわを寄せた。署長が直々に野良の人狼狩りに話があるとは考えづらい。
「どうする? 報告だけなら俺らでやっておくが」
 少し不審そうにホアンは眉を持ち上げてブルーに尋ねる。ブルーは首を振った。
「いや、いいよ。行くさ。もしかしたら謝礼の一つももらえるかもしれんからな」

◆◆◆

「よく来てくれたね」
 大きな窓から差し込む陽光を背に頑丈そうな机に座りビエールイは柔和な笑みを浮かべてブルーたちに声をかけた。ホアンとセキは緊張した面持ちで敬礼を、ブルーは「どうも」と曖昧な挨拶を返した。ブランは居心地悪そうに黙り込んでいる。
「楽にしてくれ」
 ビエールイは笑って手を振って続けた。
「さっきはご苦労だった。危うくせっかくの演説が台無しになるところだったよ。感謝する」
「そりゃ、どうも。で、何の用だ? わざわざ署長様が俺みたいな野良の人狼狩りを呼び出して」
 あけすけなブルーの言葉に、ホアンが肘でブルーの横腹をつついた。かまわないよ、ビエールイは笑う。感情の読めない笑みだとブルーは思う。
「白銀皮狩りのブルーさんにわざわざ来てもらったのは、まあ、さっきの襲撃のことを聞きたくてね」
 きらり、と細めた目の奥がするどく光ったように見えた。
「どう思った? あの人狼」
「どうとは?」
「人狼が、誰かを狙う、というのはよくあることなのかね?」
「それは……」
 ブルーも、違和感を覚えていたところだった。今まで仕留めてきた人狼はどれも人狼としての本能によって衝動的に人間を食べたものだった。それはマロンの資料でも同様だ。特定の誰かを狙って人狼が人を襲うというケースには覚えがない。いや、とブルーの頭に一匹の人狼の後ろ姿が浮かぶ。割れた窓ガラス。輝く牙。師匠の笑み。
「一つだけ覚えがあるな」
「ほう」
「ひどく恨みを持った人狼が、仇討ちをしたケースは一つ知っている」
「なるほど」
「恨みを買った覚えは?」
「こんな役職だからね、恨みはいくらでも買ってるんだが……」
「歴代の署長がみんな人狼に殺されてるわけじゃないだろ?」
「まあ、私の場合は市長になろうとしてるからね」
「『皆さんに人狼のいない安心を』か」
 ブルーは最近しばしば街で見かけるビエールイのスローガンを口にした。
「ああ、人狼どもとしてはうれしくはないだろうね」
「そんな理由で人狼たちが人を襲うとも思えんが」
「だが、実際に人狼は現れた」
「心当たりは?」
 ふむ、とビエールイは考え込む。片眉をあげて四人を眺める。値踏みする視線にブルーは居心地の悪さを感じる。
「それを探ってもらうわけにはいかないだろうか」
 突然の申し出にブルーは眉をひそめた。
「俺は人狼狩りだぜ」
「人狼に狙われたじゃないか」
「その人狼はもう仕留めた」
 ビエールイはその言葉を聞いて頷くと、しばらく目をつむり、言った。
「そうかもしれない、しかし、私にはこれが最後だとは思えないのだ」
「再び襲撃があると?」
「その可能性は大いにある。しかし、それを未然に防ぐことができれば」
 ビエールイは言葉を切ってブルーたちを見つめた。
「人狼の群れを仕留めることができるかもしれない」

◆◆◆

「ん、なんだここ?」
 ブルーの事務所に脚を踏み入れたホアンは奇妙な声を上げた。ブルーが事務机に腰かけ振り返ると、一度部屋を出て部屋番号を確かめているところだった。セキが出入りを繰り返すホアンを怪訝そうな目で見ている。
「どうした?」
「いや、部屋あってるか?」
「ここが俺の事務所だが」
「なんだか、前に来た時はもっと、こう……散らかっていなかったか?」
 眉を潜め、怪奇を見る目で調和と秩序に満ちた事務所を見回している。そのようすを見て、ブルーはそうかと得心する。
「ああ、そいつがちょっと掃除をしやがったんだよ」
 作業机に座るブランを指差しながら言うと、ブランはちょこんと頭を下げた。ホアンは驚愕に目を見開き部屋とブランを見比べている。
「どんな魔法を使ったんだ」
「そこまで言うかよ」
「だって、前までこの部屋……ひどかったじゃねえか」
「あれはあれでわかりやすかったんだよ」
 それで、とブルーは手を上げて軽口を切り上げた。そうしなければ永遠に無駄話をしてしまいそうだった。
「どうするよ」
 ホアンはソファに座ると、顔を引き締めて考え込んだ。
「お前はどう思う?」
「ヤクザのガサ入れなんざ、さすがに勝手がわからんぞ」
「人狼狩りとしてだよ」
 今度はブルーが黙り込んだ。人狼が化けた人間を追いかけたことはあるが、人間の中から人狼を探したことはない。こんな時、師匠ならどうしただろうかと、考えを巡らせる。
「現場か」
「現場だな」
 声がそろった。ブルーとホアンが目を見合わせた。少し間をおいて、同時に噴き出す。セキとブランがきょとんとして、笑いだした二人を眺めている。
「師匠なら、そう言うだろうな」
「ああ、間違いない」
「行くか」
「ああ」
 ホアンは一度頷いて、あー、と声を漏らしながら首を振った。
「一緒に来ねえのか?」
 ホアンは眉を寄せて答える。
「現場の追跡苦手なんだよ。知ってるだろ」
「まだ苦手なのかよ」
「うるせえな、向いてなかったんだよ」
 師匠のもとで学んでいた時から、ホアンはあまり追跡術は得意ではなかった。むしろ得意なのは
「じゃあどうするんだよ」
「警察で資料探してみるわ」
「そうか」
 資料をもとに標的の特徴を割り出すことだった。どうやらそれは今も変わっていないようだった。
「こいつつけるからよ」
 そう言ってホアンはソファの隣に立ち尽くしているセキを指さした。突然指さされてセキは目を見開く。意味を理解して目に輝きが宿る。その輝きにブルーは顔をしかめて目をそらす。
「いらねえよ」
「知らねえ警官に面倒かけられたくねえだろ」
「そりゃあまあ」
「それに少し教えてやってほしいんだよ」
 俺には教えられねえから、と小声で吐き捨てた声をブルーの耳は拾ってしまう。ホアンの頼りない目とセキの輝く目に見つめられ、ブルーの眉間の皺は深くなる。
『教えるのも勉強だよ』
 耳の中にマロンの声が聞こえる。ブルーは深いため息を一つついた。
「わかったよ」
「すまんな」
「代わりと言っちゃなんだが、調べものにそいつを連れてってくれねえか?」
「私ですか?」
 指さされてブランは眉を寄せた。
「ああ、せっかくの機会だから勉強してこいよ」
「まだ何も教わってないですけど」
「たぶん、お前にはホアンのやり方が役に立つだろうからさ」
「はあ」
 納得していない様子のブランを無視してホアンに向き直る。
「お前の役に立つかもしれない」
「それは、そうかもしれないが、いいのか?」
 ホアンは秩序だって整理された本棚を見ながら言った。
「ああ、お前のやり方は俺には教えられねえからよ」 

◆◆◆

「なんもないですね」
「うるせえな。そう思ってちゃ、なんも見つからないぞ」
「検証も終わってますし」
 文句を言いながらも、セキは期待に満ちた目でブルーの一挙手一投足を見つめていた。
 実際襲撃から一日たった中央広場は、なんの痕跡も残っていないように見えた。今では封鎖され人通りこそないが、混乱した聴衆が逃げ惑った跡に人狼の跡はかき消されていた。
「ホアンならこんな時なんて言うよ」
「先輩はなにも教えてくれなかったですね」
「だろうな」
 言いながら舞台の残骸に飛び乗ると、ブルーは膝をついてしゃがみこんだ。床に鼻をつけんばかりに顔を低くする。その隣でおずおずとセキが同じ姿勢をとる。
「じゃあ、何を教わったんだ?」
「んー、なんだろう。資料の調べ方とか、怪しいやつの絞り込み方とかですかね」
「あいつそういうのは得意なんだよな」
「そうなんですか?」
「ああ、だから警察になったんだよ」
「はあ」
 しばしばホアンはブルーの追跡術を魔法のようだというが、ブルーにとってはホアンの分析の方が魔法に思えた。いくつかの事件の資料を読み込んで突然に人狼の住処を割り出すのだ。
「人狼狩りでもやっていけそうな気がしますけどね」
「いや、人狼狩りはできるだけ少ない被害者で見つけねえといけねえからよ」
「ああ、なるほど」
「そういう意味じゃ、あいつは……ん?」
「え?」
 ブルーは演台の脇に何か光るものを見つけた。近寄り、拾い上げる。
「なんですか、それ?」
「バッヂ……だな」
 手の中で拾ったものを眺める。それは鈍く光る金属のバッヂだった。拳と楼閣を組み合わせた意匠が刻まれている。
「見覚えあるか?」
「えーっと」
 尋ねられ、バッヂを見つめてセキが考え込む。やがてセキは「あっ」と声を上げて手を打った。
 ふ、とブルーは手を上げて、何かを言おうとしたセキを止めた。不思議そうな顔をするセキに小声で伝える。
「切り上げるぞ」
「え、でも」
 ブルーはハンカチを取り出し、丁寧にバッヂを包むとポケットに入れた。そのまま振り返り、広場の入り口へ向かう。
「どうしたんですか?」
「なんでもいい、黙ってついてこい」
 広場を出て路地を曲がる。頭の中で地図を開き、人通りの少ない路地へと向かう。角を右に曲がる。
「どこいくんですか?」
「帰るんだよ」
 早すぎない歩調で再び右へ。もうほとんど人はいない。
 もう一度右へ。けれども聞こえてくる、三人目の足音。
「これ、戻ってません?」
「そのつもりだよ」
 立ち止まり、振り返る。三つ目の足音が止まる。曲がってきた角の先に一人の男が立っていた。困惑の表情を浮かべている。
「誰だ……いや」
 ブルーは気弱そうな男の顔を見て思い出す。
「お前、演説会にいたな?」
 うっすらと隠し切れない血と毛皮の匂いが漂ってくる。驚愕に目を見開き、男が振り向いて駆けだした。
「追え!」
 セキが男を追って駆けだす。速い。
 たちまちのうちに男に追いつくと腕をつかんだ。男はセキを振り払おうとする。
「そこまでだ」
 その間にブルーも追いつき、男の胸に拳銃を押し当てた。
「な、なんなんですか、あなたたちは」
 男が震える声で尋ねる。
「それはこっちのセリフだぜ。探れ」
 ブルーに命じられセキが男の体を探る。恐怖に身を震わせながら男はされるがままになっている。スーツのポケットから出てきた財布と錠剤をブルーは受け取った。
「ベイジさんか」
 財布の中の名刺を見て、ブルーは言う。
「なんで俺たちを追っていた?」
「追ってなんか……」
「じゃあ、なんで逃げた?」
「それは……」
「ほう」
 財布の中を探っていたブルーはにやりと笑った。
「可愛い娘さんだな」
 財布の中にしまわれていた写真を取り出す。娘を抱いて微笑む男とその隣でやはり幸福そうな表情を浮かべる女が映っていた。
「娘さんは人狼じゃなかったのか?」
「何を言っているんだ! 私は別に」
「そうかい?」
 ブルーは写真をしまい、財布をセキに渡すと大きく息を吸い込んだ。
 ワオォーーン
 天を仰ぎ、叫ぶ。もう一度。
 ワオォーーン
 声は空のかなたに響いていった。声の響きを聞き、ちらりと男を見る。内なる衝動に抗う表情を浮かべている。もう一度吠える。
 ワオォーーン
 ワオォーーン
 続く声がある。男だった。
「本性を現したな」
 男は我に返り、青ざめる。人狼としての本能が遠吠えに反応させたのだった。
「これを探してたのか?」
「そ、それは……」
 ブルーの取り出したバッヂを見て男は息をのんだ。
「話を聞こうか。なに、命までは取らねえよ」
 ブルーは言いながら青い顔をしたベイジの肩を抱いた。

◆◆◆

「ケンロウカイ?」
「ああ、知らねえか? 第三管区あたりを締めてるごろつきどもなんだが」
「あの辺りには詳しくなくてな」
 バッヂを見つめながら発せられたホアンの言葉にブルーは頬を掻きながら答えた。
 第三管区は非常に治安の悪い地区だった。人狼の通報は少ない。凄惨な死体はありふれていて、食い殺されているのか私刑にあったのかわからないし、通報するよりも残された金品をあさることの方に興味を持つ住民しかいないからだ。
「そのバッヂはそいつらがつけてるバッヂだな」
「ベイジもそう言っていたな」
「お前らをつけてたって言う男か?」
「ああ」
 ベイジはブルーに少々手荒な方法で話を聞かれた後、セキに連れられて留置所に入れられた。ことが落ち着くまではそこで過ごすことになるだろう。
「なにか弱みを握られているらしくてな、バッヂの回収を命じられたんだとよ」
「じゃあ、拳楼会が襲撃を?」
「話はつながる。拳楼会としてはビエールイが署長になって治安が良くなるのは都合がいいとは言えないだろうからな」
「それで、演説を妨害したと」
「ああ、その時に落としてしまったバッヂを配下に回収させようとしたんだろうな」
「なるほど」
 ブルーは頷いた。一通りの筋は通っているように思える。
「それじゃあ、どうする? あとは警察に任せられるか?」
「ああ、そうだな。本腰を入れればなんとでもなるだろう」
「あー、それでもいいんですけど」
 二人の会話に突然口をはさんだのはブランだった。
「どうした?」
 ブルーの鋭い目がブランを見る。ブランはその目をしっかりと見返して答える。
「さっき調べた資料に乗ってたんですけど」 
 ブランは手帳をめくりながら続けた。
「拳楼会は人狼を飼っているという情報があります」

◆◆◆

「ここだ!」
 湾岸事務所の書類棚をひっくり返していたホアンが歓声を上げた。
「どした?」
 床の上にしゃがみこみ地面を嗅ぐように調べていたブルーは顔を上げホアンの方を向いた。ここ数週間にわたり、港湾作業員が次々と姿を消す事件が続いていた。人狼の匂いを嗅ぎつけたマロンはいささか強引に調査を始めたが、進捗ははかばかしくなかった。
「この事務所ができる前に点検用の通路があったんです。たぶん、倉庫の中ですね」
 ホアンは高揚した口調でまくしたてると、机の上に古い地図を広げた。
「それがどうしたよ」
 事務所の所長の席に座ったマロンが不機嫌そうに尋ねた。マロンの執拗な探索にもかかわらず、手掛かりは見つからないでいた。日を追うごとに職員たちの目は厳しいものになっていき、つられてマロンの機嫌はどんどん悪くなっていった。
「この通路から下水道に続いています。地上にいないなら」
「地下にいると?」
「きっと」
 ホアンは確信に満ちた口調で答える。マロンは地図を睨んだ。頬杖を突いたまま唸り声をあげる。しばらくして口を開いた。
「そんな所にいるかはわからんが」
 そこまで聞いて一度言葉を切った。地図から目を話し、ホアンの緊張した顔を眺める。渋い顔をして少し黙り込んでから口を開く。
「お前らが探すのなら止めはしない」
 マロンの言葉にホアンは顔を輝かせ、ブルーは顔をしかめた。面倒な言葉が含まれているような気がした。
「ありがとうございます」
「お前ら?」
「やだよ、あたしはそんな面倒なとこ。だったら、一人で行かせるか?」
「それは……」
 マロンとブルーは落ち着かなげなホアンをちらりと見る。ホアンは人狼狩りとしての修練は十全には行えていない。
 現場の検分は何度かこなしているが、実戦に立ち会ったのは数えるほど。もしもホアンの推理が正しくて、下水道で一人、人狼に出くわしでもしたら……
「わかりましたよ。ついていきます」
 その言葉にホアンはパッと顔を輝かせた。ブルーはしかめっ面をしてため息をついた。

 滑りそうになった足を立て直し、ブルーは改めてため息をついた。吸いこむ息は不快なにおいのする湿気に満ちている。最低限の作業灯に照らされた下水道脇の床はぬるぬるとぬめり、気を抜くとあっという間に体勢を崩しそうになる。滑らないように気を付けることと足音を消すことを同時に心がけるのはなかなか難易度の高いことだった。
「うわ!」
  後ろからホアンの悲鳴が聞こえた。振り返る。ホアンが奇妙な姿勢で固まっていた。手を差し出す。
「ありがとう」
 ホアンの言葉に黙って頷く。体勢を立て直したホアンの肩をそっと叩く。落ち着けという意思は伝わったのか、ホアンは頷く。
 自分も息が浅くなっているのに気が付いてブルーは意識してゆっくりと深く息を吐く。呼吸が早くなると判断力が失われる。ブルーは師匠の言葉を思い出しながら、静かに息を吐いて、吸う。下水のすえた空気が肺を満たす。その奥にかすかに血と臓物と獣の匂いが香る。顔を引き締める。
「近いぞ」
 声を潜める。ホアンが緊張した面持ちで頷く。ブルーは高まる心臓と手の震えを隠し、安心させるようにホアンの肩を再び叩く。
「お前の初めての獲物だ」
 ホアンに低い声で声をかける。ホアンが頷く。
 懐から拳銃を抜く。撃鉄をゆっくりと起こす。ホアンと自分を守る拳銃。師匠が渋い顔を作りながら貸してくれたその銃はずしりとした重みをブルーの腕に伝える。
 もしも自分が弾を外したら、そんな考えを振り払うように、ブルーは銃のグリップを握る。どこかよそよそしい手触りを掌に感じる。師匠なしで人狼と対峙するのはブルーにとっても初めてのことだった。
 息が荒い。深く息を吐く。空になった肺に空気を入れる。すえた匂いに血と臓物と獣の匂いが混ざる。獣の匂いが強くなっているのに気が付く。曲がり角の向こう。気配。唸り声。銃を構える。闇をギラリと光る爪が切り裂いた。銃を構えようとした腕を引く。銃が弾き落される。地面に落ちた銃がガチャリと音を立てる。
 後ろに跳び退る。ホアンにぶつかってバランスを崩しそうになる。舌打ち。体勢を立て直す。
「ぐぉおおおおお」
「下がってろ」
 人狼の咆哮。負けないようにホアンに叫ぶ。爪が振り上げられるのが見える。ホアンはまだ後ろにいる。下がれない。前へ。体勢を低く、猫背の人狼の足元へ。鋭い爪が背中をかすめる。踏み込んでいた後ろ足をとる。そのまま持ち上げる。人狼の巨体の重みが腕、肩、腰にかかる。歯を食いしばる。
 ずるり、と足の下の地面が滑った。重心が崩れるのを感じる。人狼の重みを支えきれない。ぬめる地面にたたきつけられる。
「うぐぅ」
 地面の固さと人狼に挟まれ、腹に衝撃。腕が緩み、人狼の足が抜ける。人狼がのしかかってくる。人狼が腕を振り上げる。ブルーは腕を上げて急所を守る。腕に鋭い痛み。二度、三度、爪がひらめく。血が流れ出るのを感じる。腕に力が入らなくなる。
「ぐおお」
 人狼がひときわ大きく吠え、のけぞり口を大きく開く。とどめの一撃か。師匠とホアンの顔がよぎる。二人に胸の内で謝る。恐怖に閉じようとする目を強いて見開く。せめて最期は人狼狩りとして死にたいと思う。

パアン!

 銃声が下水道にこだました。人狼が「きゃいん」と悲鳴を上げる。ブルーはとっさに腰を跳ね上げる。抜け出して人狼の背後に回る。力の入らない腕を奮い立たせ、首に右腕を回す。人狼の頭に添えた左腕を掴み、ロックする。人狼がもがく。その右の牙が欠けているのが見える。
 視界の端にホアンが見える。呆然として拳銃をだらりと持っている。奴が撃ったのだろうか。苦しげな声を上げながら人狼が猛烈に暴れる。ブルーは叫ぶ。
「ホアン! 撃て! 頭だ!」
 人狼の頭を自分の頭で押さえつけて固定する。ホアンをにらむ。ホアンが震える手で銃を持ち上げる。恐る恐る近づいて、人狼の頭に銃を突きつける。引き金を引く。
 再び銃声が下水道に鳴り響く。耳元で鳴った轟音にブルーはくらくらする。人狼の抵抗が止んでいるのに気が付く。痛む両腕から力が抜ける。人狼の身体が崩れ落ちる。息を止めていたことに気がつく。大きく息を吸う。ずたずたになった両腕を見下ろす。自覚すると痛みが戻って来る。腰が抜けてしゃがみ込む。床のぬめりをズボン越しに感じる。
 呆けたように立ち尽くすホアンを見上げる。手に持った拳銃からは青白い煙が立ち上っている。
「やるじゃないか」
 なんとか声を絞り出す。ホアンが頷く。人狼の死体を見つめている。その顔が歪む。膝をつき、下水に顔を向け、えずき声を上げた。嘔吐の声とびちゃびちゃと水音。緊張が解けたからだろうか。ブルーはぼんやりとそんなことを考える。
 ブルーの荒い息とホアンの嘔吐する音が下水に流れる。
 カタリと足音がした。ホアンの後方。ホアンが身を固くする。ブルーは素早く立ち上がり身構える。
「銃にゲロつけるなよ」
 足音の主が声かける。笑いを含んだ声。その声を聞いてブルーはしかめっ面をする。下水道の薄暗い明りの中、マロンのにやにや笑いが浮かび上がる。
「着いてきてたんですか?」
「危なくなったら出ようと思ってよ」
「もっと早く来てくださいよ」
「まあ、殺せたんだからいいじゃないか」
 人狼の死体を見下ろしてマロンは笑う。息絶えた人狼は下水に頭を突っ込み四肢を力なく投げだしている。で、とマロンは二人の顔を見た。
「こいつはどうするんだ」
 ブルーはホアンに視線を送る。
「仕留めたのはそいつだ」
「そう、ですね」
 人狼の死骸は仕留めたものが持ち帰ることが認められている。ホアンはしばらく考える。人狼の死体をじっと見つめている。眉が寄っている。
「警察に引き渡してもいいが」
「いえ」
 ホアンが首を振った。口元を引き締めて言葉を続ける。
「毛皮をもらってもいいですか?」
「へえ」
 マロンは眉を上げて笑う。
「別にかまわないぜ。ただ」
 マロンは言葉を切って、口角を上げた。
「ばらすのはお前らでやれよ」
「はい」
 ホアンは真面目な口調で答える。ブルーは顔をしかめる。面倒な言葉が含まれている気がする。ため息をつく。

 ゲロを吐き続けるホアンをなだめながら、人狼の毛皮を剝ぎ終えたのはもう日が高く上ったころだった。

◆◆◆

「ここは?」
「そこ、どの資料探しても見つからなかったんですよね」
 ブルーが地図の空白を指さすとブランは渋い顔で答えた。ブランが警察の資料室の底から見つけてきたというつぎはぎの手書きの古い地図は、破れ、ほつれ、所々が補修してある。言葉を付け足すホアンも苦い顔だった。
「たぶん調べられなかったんだ、そこは」
「調べられなかった?」
「ああ、歴代の警邏課がちまちま調べた地図だ。そのあたりは調べられてない。おそらくこの辺に」
「拳楼会が?」
「その可能性は高い」
 厳しい顔のままホアンは頷く。第三管区に立ち入った警官たちがすべて返ってきたわけではない。とりわけその空白は帰還率の低さを物語っていた。しばしの沈黙の後、ブルーはためらいを隠し軽い口調を作った。
「じゃあ、俺が忍び込むさ」
「本気かよ」
「人狼の巣に忍び込むのに比べたら楽なもんさ」
「お前には、そうかもな」
 ブルーの言葉にホアンは苦い表情をした。その目に宿っているのは安心だろうか。ためらいは無事に隠し通せたようだ。苦笑いを返してブルーは少し考える。ごろつきのアジトでも人狼の巣でもさほど変わるものではない。それなら侵入の手順も同じようにできるだろうか。いや、と呟いて口を開く。
「入るときだけ手伝ってもらっていいか?」
「なんだよ、珍しいな」
 ホアンは驚いて眉を吊り上げた。
「ああ、警戒が厳しいだろうからよ。お前ちょっと引き付けてくれよ。その隙に忍び込むから」
「引き付けるったってよ」
「そんな派手なことしてくれとは言わねえよ。ちょっと呼び鈴鳴らして話をしてくれればいい」
「それなら……」
 と頷きかけてホアンは思い出したように言葉を切った。
「どうした?」
「いや、俺だとまずいな。この前拳楼会がらみの抗争鎮圧に駆り出されてよ、顔見られてるかもしれねえ」
「そうか」
 ホアンを見つめて、ブルーは頷く。その言葉は怯えからくるごまかしには見えない。ブルーも陽動に余計なリスクを負いたくはない。
「じゃあ、いい、何とか忍び込むさ」
 ブルーは地図をにらみ、刻まれた道から侵入する道を探った。ぽつりぽつりとところどころに赤黒い染みがにじんでいる。持ち帰った警官も全員が無事に帰れたわけではない。ブルーは地図を握る手が湿っているのが気になってズボンにこすりつけた。
「私が行きますよ」
 口を開いたのはブランだった。驚くブルーとホアンを落ち着きはらった眼で見返して続ける。
「少し話すだけでしょう? だったら大丈夫ですよ」
「そうは言うがな」
 ホアンは腕を組み首を振った。
「危なくなったら適当に逃げますし」
「人狼がいるかもしれないぞ」
 ブルーが口をはさむと、ブランは一瞬だけ口を閉じた。すました顔を保ったまま少し考えて、口を開く。
「話してるときに人狼が出てきたら、探るまでもなく師匠がやっつけれるでしょう」
「だがな」
「それもそうだな」
 ホアンの反論をブルーが遮った。ブランを目線で制して、ブルーは続ける。
「お前が行けると思うなら、頼む」
「大丈夫ですよ、私は師匠の弟子ですよ」
「なったばかりだろうが」
「あー、待て待て」
 ホアンが割り込んだ。大きなため息を一つつく。
「それならセキをつけさせろ。お嬢ちゃんも警官の制服を着ろ。それが条件だ。そうしたら、せめて道中の面倒くらいは避けられるだろう」

◆◆◆

 第三管区の奥地には不定形の建造物が無秩序に肩を寄せ合っている。昼間でも日の光の届かぬ魔境のさらに奥に、ひと際巨大な建物がそびえたっている。闇に紛れて全貌は測れない。ところどころに突き出すように据え付けられた見張り台から地上に向かって投光器の光が投げ落とされている。
 正面のねじ曲がった扉の前に二人組の警官が立っていた。一人はひどく不安そうな顔であたりを見回している。
「しゃんとしてください」
 もう一人の警官がセキに声をかける。その声はブランの声だった。セキは恨めしそうに即席の相棒を見つめた。
「お前はえらく落ち着いてるな」
「ブルーさんの弟子なので」
「一週間くらいだろ」
「こういうのは時間じゃないんです。それより」
 帽子を目深に被りなおすと、そう言いながらブランは扉の脇を指さした。そこに奇妙な形をした呼び鈴が括り付けられていた。
「わかってるよ」
 おずおずとセキは呼び鈴を押す。遠くで怪鳥の鳴き声のような声が響いた。しばらくの間。誰も来る気配はない。セキは眉を顰める。
 もう一度、押す。扉の向こうに動きの気配はない。セキとブランは顔を合わせる。二人はそっと後ろを振り向く。
 通りのいびつな物陰から音もなく影が走り出た。ふわりと二人の傍らに立つ。影はコートを着た大柄な男だった。
「どうした?」
「ブルーさん」
 驚きの声を飲み込み、セキは男を見上げる。
「呼び鈴を鳴らしたんですけど、誰も出なくて」
「ふむ」
 セキの説明を聞いてブルーは一つ頷くと、ポケットからいくつかの針金を取り出した。鍵穴に差し込みカチャカチャと動かし、「ん?」と動きを止めた。針金を抜き、ノブに手をかける。ゆっくりと引く。
 音もなく、扉が開いた。
「開いていたな」
 三人は耳を澄ませる。音は聞こえない。
「俺が先に行く。お前たちはしばらくここで見張っていろ」
「いえ」
 震えまじりの否定の言葉が返ってくる。コートの袖をセキに掴まれていた。
「俺も行きます」
 ブルーは怪訝な顔をセキに向ける。青白くこわばった顔が見返している。ブルーは首を振る。
「段取り通りにしろ」
「計画建てたときとは状況が違います。拳楼会の連中の注意を引くのが俺たちの役目だったはずでしょう?」
 静まり返った扉の中をにらみ、セキは抑えた声で続ける。その声は震えてはいるけれども引かない意思が宿っている。
「でも連中はいない。なにかあったんですよ。ブルーさん一人じゃ危険です。それに……」
 セキは少しうつむいて言いよどみ、すぐに顔を上げて言った。
「おれも警官だし、人狼狩りです。こんな状況でただ戻るなんてできません」
 セキはじっとブルーの目を見つめて言う。緊張と恐怖、それに責任感の入り混じった瞳。遠い日にホアンが師匠に向けていた目。あるいは、自分もそのような目をしていた日があるのかもしれない。ため息をつきながらブランを親指で指す。
「じゃあ、こいつはどうするんだよ」
「それは……」
「わたしも行きますよ」
「なんだって?」
 ブランの顔を見つめる。いつも通りのすまし顔。
「ここにいるよりはお二人についていった方が安全でしょう?」
 ほんの少しの間、ブルーは考え込む。腹を決めた若者を説得するのは骨が折れる。そしてこの場所は長々と居座って説得をするのに適していない場所だった。
「自分の身は、自分で守れよ」
 セキとブランが頷く。二人の顔には緊張が潜んでいる。ブルーは扉に向き直る。自分の顔のこわばりを気取られないように。コートの懐に手を入れ、銃の重みを確かめる。
 いない師匠のにやにや笑いを背後に感じる。余計な考えを振り払い、館の中に足を踏み入れた。

◆◆◆

 薄汚れた廊下をまばらな蛍光灯が薄く照らしている。ブルーは足音を殺し慎重に歩く。
 耳をすまし、目を凝らし、静かに鼻から息を吸う。
 鼻の奥に感じるのは遠くから漂う鉄の匂い。これは
「血?」
『ならず者たちの住処だもの。不思議じゃないだろう』
「いや」
 師匠の言葉をブルーは頭の中で否定する。確かにならず者の住処と血の匂いは珍しい組み合わせではない。けれども、それにしては新鮮すぎるように思えた。
 加えてこの静寂。違和感がブルーの心臓を締め付ける。
  静かに深く呼吸をする。影のように物陰に潜みながら廊下を進む。振り返り、合図をする。たどたどしくひそめた足音でブランとセキが物陰までやってくる。
「この匂いは?」
 薄暗い明りの中でもわかるほど青い顔をしたセキが小さな声で尋ねてくる。血の匂いは次第に強くなっている。嗅ぎなれないセキにもわかるほどに。
「ああ、血だ。気をつけろ」
  潜み歩き、合図をする。三人以外に動くものはない。
 永遠に続くような曲がりくねった廊下の先、ようやく開け放された扉が見えた。
 ブルーはコートで手に滲んでいる汗をぬぐった。懐に手を入れて銃を抜く。胸の前で小さく構える。ずっしりとした鉄の重みを両手に感じる。
 耳の痛くなるような静けさ。獣のように静かに歩いているはずの足音が、建物中に鳴り響いているように思える。
 新鮮な血と内臓の匂い。
 一度壁に張り付いて様子を伺い、生きた者の気配がないことを確かめて、静かに素早く部屋に飛び込む。
「これは……」
 ブルーは息をのんだ。
 凄惨な光景には慣れているはずのブルーも呆然として足を止めてしまった。
 扉の向こうには小さな広間になっていた。普段は構成員が食事をとるための部屋だったのだろうか。けれども、今は誰一人動くものはいない。いくつか並んでいた机や椅子もなぎ倒され砕けている。
 それらの残骸に埋もれて同じようにもみくちゃに粉砕された人体が見える。一人や二人分ではない。十数人分にはなるだろう。その多くは千切れて混ざり合っており、正確な人数はわからない。
「拳楼会の奴らか?」
 ブルーはしゃがみこみ転がっている胴体を調べる。胸に見覚えのあるバッヂを見つける。拳と楼閣を組み合わせた意匠のバッヂだった。近くに落ちている右腕は刃渡りの長いナイフを握りしめている。
「なんで拳楼会のアジトで拳楼会の連中が死んでいるんだ?」
 眉をひそめて考え込む。床に転がった傷だらけの組員の顔が恐怖に見開いた眼で見つめているのに気が付く。ブルーは舌打ちを一つして、そっとその瞼を閉じる。その首の傷口を見て今度はブルーが目を見開いた。それは恐怖のためではなく驚愕のためだった。
「この傷は」
 その傷口には見覚えがあった。五年前の傷口。何度も何度も思い返してきたあの片牙の傷口。
 師匠の微笑む首の傷口。
 ぞわり、と背筋の毛が逆立つ。全身の血液が沸き立つ。
「そうか」
「どうしたんです?」
 いつの間に近づいてきていたのかセキが声をかける。何かを恐れるような目。それが向けられているのは辺りの惨劇ではなく、ブルーの顔だった。ブルーは口元を触る。指先に感じる口角は高く吊り上がっていた。
「いや、なんでもない」
 顔を背け、あたりを見回す。乱雑にあらされた部屋は行き止まりで先に伸びる通路はない。
「なんだ、これ」
 ブランの声が聞こえた。怪訝な顔が見つめる先にはガラクタに隠れて落とし戸が開いていた。よく見るとガラクタは不自然な散らばり方をしている。
 一度落とし戸を隠すように置かれて、それから乱暴に薙ぎ払われたような。ガラクタには獣の爪痕が刻まれている。
「いくぞ」
 二人に声をかける。落とし戸の下には階段が続いている。ブルーは黙って階段に足をかけた。

◆◆◆

 階段を下りた先には広い部屋が広がっていた。薄暗い明りの中、部屋の全貌が見え始める。
「なんだ、ここは」
 思いもよらぬ光景にブルーの口から戸惑いの声が漏れる。部屋にはいくつかの解剖台が置かれている。そのうちの一つに近づき、ブルーは眉をひそめた。隣でブランとセキが息をのんだ。
 解剖台の上には人狼の亡骸が置かれていた。半ば毛皮をはがれ分解され、中身が露出している。あたりを見回してみると、他の解剖台の上にも何かが載ったままになっている。暗がりに目を凝らすといくつかは同様に人狼だが、人間も混ざっているように見えた。壁際には人狼のはく製や、はがれた毛皮が飾られている。
「こいつ」
 人狼のはく製のうちの一体、首のない人狼を見て、ブルーは目を見開いた。
「こいつ」
「なんですか?」
「おまえも、見ただろ、この人狼」
「え?」
 訝し気な顔をするセキにその胸に開いた傷跡を示す。見覚えのある銃創。ブルーは手に持った銃をぎゅっと握る。
「この前、ばあさんに化けてたやつだ。ハチドリ通りのあのアパートだよ。嬢ちゃんを煮てて、お前ゲロ吐いてただろう」
「ああ」
「でも、なんでこんなところに」
「さあな」
 ブルーは不機嫌な声で答える。この人狼の亡骸は首以外は警察に処分されたはずだった。それがここにあるということは……
「誰かが流したのか?」
「でも、なんで?」
「なにか、研究をしてたみたいですね」
 セキの疑問にブランが答えた。見ると、部屋の片隅に積まれた資料をめくっている。
「人狼を解体して仕組みを調べてたみたいです」
「仕組み?」
「ええ、人狼と人間の違いとか、人狼の欲求を押さえる方法とか、人狼の力を得る方法とか」
「なんでまた」
「人狼みたいな力があれば、荒事には便利なんじゃないですか」
「そりゃあ、そうだろうが」
 ブランの言葉にブルーは頷く。ビエールイを襲撃した人狼を思い出す。人狼の匂いの薄い人狼。あれも、この研究の成果だろうか。人狼が暴力として運用されたとき、それを狩るのは誰の役目なのだろう。
 ため息をつき、頭を振る。重い沈黙が部屋に流れる。
 小さくうめき声が聞こえた。声の方に目線をやる。剥製のさらに奥、もう一つ部屋があるようだった。床を見ると真新しい血痕が部屋へと続いていた。ブランとセキにここで待つよう身振りで示す。
 足音を殺して、奥の部屋に足を踏み入れた。

◆◆◆

 ブルーは逸る気持ちを抑え、高鳴る鼓動を沈め、静かに深く息を吸う。耳を澄ませ、目を凝らし、どのような動きも見逃すまいと静かに部屋に入る。銃は油断なく構えたまま。
 休憩室だったのだろうか、部屋の中央に大きな机が置いてあった。その机に覆いかぶさるように一人の男が倒れている。大きな頑丈そうな男だ。やはりずたずたに引き裂かれている。
「うぅ……」
 うめき声が聞こえた。机からだ。ブルーは机に駆け寄る。倒れている男ではない。男は確かに絶命している。声はその下から聞こえる。ブルーは男をそっと押しのける。まだ体温は残っている。
 男の体に隠れるように老人が伏せていた。背中に大きく開いた傷口からだくだくと血が流れている。その傷はやはり片牙の傷。
「おい、大丈夫か」
 老人はうっすらと目を開ける。弱々しく口を開く。
「……君は?」
「人狼狩りだ。誰にやられた?」
「……人狼だ」
「お前の飼っていた人狼か?」
 老人は力なく首を振る。声は次第に弱くなっていく。
「あの人狼は……」
 そこまで言ったところで老人は咳き込んだ。
「どうした、その人狼は?」
 ブルーは老人の背をさする。老人の咳は止まらない。ひと際大きな咳を出す。内臓さえ吐き出しそうなほどの咳だった。その合間になんとか言葉を出そうとする。ブルーは顔に血がかかるのも気にせず、口元に耳を近づける。
「あれは……ビエールイの……」
 それが老人の最期の言葉だった。それだけ言うと老人は小さく息を吸い、吐きだした。もう一度吸うことはなかった。
 ブルーは老人を床に横たえ、そっと瞼を閉じる。机の上の男も持ち上げて老人の隣に寝かせる。その首筋に獣の毛が生えていることに気が付く。
「実用化、していたのか」
 背後から足音がした。振り向き、握ったままだった銃を向ける。
 足音の主を見つけて、ブルーは舌打ちを一つ漏らす。
「待っていろと言っただろ」
 そこにはブランが呆然とした表情をして立っていた。まるで耳に入っていないかのように、ブルーの言葉に何も返さない。
「どうした」
 ブランの視線を辿る。その先には老人が血にまみれて床に横たわっていた。視線の意味を測りかねてブルーは困惑の表情を浮かべる。
 沈黙があって、ようやくブランは口を開いた。掠れた声が口から洩れる。「お父さん」

◆◆◆

「いやあ、よくやってくれたね」
 ビエールイは満面の笑みを浮かべてブルーたちを出迎えた。拳楼会のアジトへの襲撃の翌日、ブルーはブランを連れてビエールイの部屋に招かれた。
「見てくれ」 
 そう言うとビエールイは壁に貼られた第三管区の地図の写しを指さした。その地図の上、いくつかの地点に赤いバツ印が書き加えられていた。
「その地図は?」
「拳楼会の拠点、だった所だ」
 ビエールイはにっこりと笑いながら過去形で答えた。
「君たちの活躍のおかげたよ。昨夜拳楼会が壊滅して、その情報を一番先に手に入れたのは我々だった。その場所を押さえたのもね」
 第三管区を制圧するのにはいい足掛かりだよ、と呟きながら、立ち上がり、地図に手を伸ばす。バツ印をなぞる。
「本拠地を失った拳楼会の拠点、そこに生まれる真空地帯。占拠するのは難しくはなかった。もちろん予測もしていたしね」
「そりゃあ、おめでとうさん」
 ビエールイの言葉をブルーは遮った。皮肉っぽい口調になることを隠すことはできなかった。
「それで、俺達にはなんの用だい? 自慢話のためだけに呼んだわけじゃないだろう」
 拳楼会の男が遺した言葉が、ブルーの背筋を嫌にひりつかせていた。ビエールイは横目でブルーたちを眺めて笑う。二人に向き直り、机の引き出しを開く。
「もちろん、お礼のためさ」
 ビエールイは引き出しから札束を取り出した。一つ、二つ、三つ。積み重ねる。
「持っていきたまえ」
「人狼狩りの褒賞にしては随分いい額だな」
「君たちの働きはそれだけの価値があったということさ」
 ビエールイは微笑んだままで答える。微笑みという無表情に隠されて、その真意は覗けない。単なる仕事の報酬だと考えるのは短絡すぎるようにブルーには思えた。
「何が望みだ?」
「昨日君たちはあそこで何を見た?」
「そりゃあ……」
「言わなくていい」
 ブルーの答えをとビエールイが遮る。
「君たちは特に深刻なものは見なかった。ただのならず者のアジトに忍び込み、飼われていた人狼と戦闘になった。その際、ボスも戦闘に巻き込まれた。とそういう話だったね」
 そうだろうと、ブルーを見つめてくるビエールイから目をそらし、机の上の札束を眺める。
「口止め料ってことか?」
 ビエールイはにこりと笑い、首を振って否定の意を表す。
「事務所の経営、苦しいと聞いているよ」 
 ブルーは心の内で舌打ちをする。金庫の中身と請求書が頭に浮かぶ。机の上の札束は非常に魅力的に感じられる。師匠ならばなんと言うだろうか。頭の中でにやにやと笑うマロンは何も言わない。
 ちらりとブランを見る。昨夜から変わらぬ凍ったような無表情。こちらも真意は読めない。ブランはあの男の最期の言葉を聞いたのだろうか。ブランが父と呼んだあの男の。ここで頷くことはあの男の真意の真意を闇に葬ることになる。
「ふむ、もう一つ別の話をしようか」
 ブルーが心を決める前に、ビエールイは口を開いた。
「もしかしたら、ホアン君から聞いているかもしれないが、我々は人狼狩り課というのを作ろうと計画している」
 唐突な話題に、ブルーは開きかけた口を閉ざし、ビエールイの話に耳を傾ける。
「今回の件で、実現に向けて大きく前進するだろう。ただ……」
 ビエールイは一度言葉を切り、二人をじっと見つめた。
「それは人狼狩りの結果、拳楼会が壊滅したという話ならだ。拳楼会の頭が人狼に殺されていた、というストーリーはあまり好ましいものではない。わかるだろう」
「それが、俺たちに何の関係があるって言うんだ?」
「人狼狩り課の課長はホアン君になってもらおうと思っている」
 いらいらとしたブルーの言葉にビエールイは笑顔を崩さずに答えた。
「この計画がとん挫したら、彼の立場は随分まずくなるだろうね」
「知ったことかよ」
 ブルーは吐き捨てるように答える。
「何なら君たちも人狼狩り課に雇ってもいいのだけれども」
「そんな柄じゃねえ」
 ビエールイの言葉に力なく答える。ブルーは頭が痛み始めるのを感じた。凄惨な狩場が恋しくなる。追跡して殺し、もしくは殺されるだけのシンプルな世界。手触りのない交渉と政治から遠く離れた純粋な世界。
 つまるところ、この金を受け取ってしまうのが一番シンプルな選択のように思われた。警察の事情を暴くことは人狼狩りの仕事ではない。
「わかった。ただ、もう少し額が欲しいな」
 机の上に積まれた額は十分すぎるものだったが、そのまま要求を聞き入れるのは癪だった。ブルーの思惑を読んだのかビエールイはにやりと笑うと引き出しからさらに二つ札束を出した。
「賢明な判断だと思うよ」
「そう願うね」
 ブルーはそう言いながら札束を取り上げ、ポケットに無造作に突っ込んだ。紙の束の重さがずしりとかかる。
「人狼狩り課は」
 それまで黙り込んでいたブランが突然に口を開いた。ビエールイは驚いたようにブランに目を向けた。
「人員足りていますか?」
「君は、ブラン君と言ったかね」
「ええ、ブランです。ブルーさんの弟子の」
「聞いているよ。アジトを突き止めるのに活躍したとか」
 ビエールイの言葉にブランは曖昧に首を振った。
「それで、人狼狩りの人員のことだったかな?」
「ええ」
 ブランの真意を測るように、ブランとブルーを見比べながらビエールイは言葉を続ける。
「でしたら、私を雇っていただけませんか? お役に立てると思いますけれども」
 ブルーとビエールイは目を見開いた。ブルーが考えをまとめ、何かを言おうとする前に、ビエールイは笑顔に戻って語り掛けた。
「もちろんだよ。ちょうど資料整理の上手い人員を探していたんだ」

◆◆◆

「本当に行くのか?」
 事務所に戻り、椅子に座りこむとブルーはそう切り出した。ブランは事務所の資料棚の書類に向かいながらすまして答える。
「はい」
「お前ならいい警官になれるよ」
「ありがとうございます」
 澄ました声が返ってくる。額をごしごしとこすりながら、ため息をつく。
 冗談や皮肉ではなく、ブランが警察の人狼課に入ればその能力を十全に発揮することができるだろうと思う。いつか仇を仕留めるのだろうか。軽く頭を振って尋ねる。
「親父さんの仇か」
「それだけじゃあ、ないです」
 ブランは振り向き、強い語調で返した。勢いを無視してブルーは気のなさそうな相槌を打った。
「へえ、そうかい」
「人狼がいなければ、私たちは……」
 ブランは机の上に目線を落とした。その声には憎悪と怨嗟がにじんでいる。師匠でなくなるのならば、聞いておくべきことがあるような気がした。いつかその熱が弟子の命を奪うのならば。少し悩んでブルーは口を開く
「そういえば、なんで弟子になりたいのか、聞いてなかったな」
「言わないとだめですか?」
「別に」
 ブルーは興味のなさを装って答える。
「言いたくないなら言わないでもいいさ。ただ、それによって旅立つ弟子になんと言えばいいかが変わるだろう」
「………」
 ブランはしばらく黙り込んだ。ブルーの言葉をどれだけ真剣に受け止めるべきか測りかねているようだった。ブルーはブランの張り詰めた顔を黙って見つめた。
 やがてブランが口を開く。ぽつり、ぽつりと考えながら語り始める。
「父がろくでもない組織の長なのは知ってました。家に出入りするガラの悪い男たち、時々地下室から聞こえる悲鳴、第三管区でそれなりに裕福に暮らせてること」
 ブルーは時折頷きながら、黙って聞いている。
「でも、そういうものだと思ってたんです。生まれたときからそうだったから」
「なにかあったのか?」
「母が」
 ごくり、とブランがつばを飲んだのが聞こえた。
「死んだ……殺されたんです」
「誰に?」
「人狼に」
 絞り出すようなブランの言葉にブルーの眉がぴくりと上がった。頷いて先を促す。
「それで?」
「父は報復に犯人を探しました。でも犯人は見つからなくて、父はどんどん不機嫌になって、犯人探しも手荒になりました。ああ、そうだ。それを見ていて私は思ったんです」
 ブランはそっと目を閉じた。
「母が死んだのは罰なのではないかと」
「罰?」
「ええ、父のろくでもない所業、それに下された天罰何じゃないかって。こうしてひどい探し方をしていたら、もっとひどいことが起きるんじゃないかって。それで」
「俺に弟子入りしたわけだ」
 ブルーの言葉にブランは頷いた。
「罪滅ぼしというわけでもないのですけれども……父親のところから逃げ出せれば、それで良かったのかもしれません。でも……」
「殺されちまったな」
 あっさりとブルーは言葉を継いだ。
「ええ、父もその部下も、みんな。また、人狼でした」
「それも罰、だったのかもな」
「そうかも知れません。どいつもこいつもどんな殺され方をしても仕方がない奴らばかりでした。父も、あんな実験なんかをして。それはわかってます。でも」
 ぐっとブランが両手を握った。力の込められた指の付け根が白くなる。
「それでも、私が一人になったのは人狼のせいなんです。どうしてもそれが許せないんです」
 ふうん、とブルーは気の抜けた調子で相槌を返した。
「馬鹿げてますよね」
「立派な理由じゃないか」
 自嘲するように笑うブランに、ブルーは軽い口調で返す。
「人狼狩りになる理由なんて、だいたい復讐か金儲けか頭がおかしいかどれかさ」
「そんなもんですかね?」
「ああ、俺の知る限りな」
 ただ、とブルーはブランの目を見据えた。いつか聞いた言葉を繰り返す様に。
「それにあんまり入れ込みすぎるなよ。どんな人狼も同じ人狼だ。もしもお前が仇にあったとしても、仇と思うな。ただの一匹だ。例えそいつが何人殺していても、誰を殺していてもな」
「……わかりました」
 神妙な顔でブランは頷く。
「旅立つ弟子に言えるのは、それだけだ」
「いいんですか?」
 ブランが目を見開く。
「そもそも俺は弟子をとった覚えがない」
「そうですか」
 ブランは少し不満げに口をへの字に曲げる。目をそらしてブルーは部屋を見回す。きれいに秩序だって整頓された室内。ブランがいなくなってどれだけの間この秩序が保たれるだろうか。
「まあ、がんばれや。励まねえとお前の仇を先に俺が仕留めちまうぞ」
「師匠こそ、私に先越されないように気をつけてください」
 ふっ、と一瞬だけ表情を緩めていたずらっぽくブランが言う。表情を引き締めると頭を下げた。
「ありがとう、ございました」
「ん」
 止まっていた手を動かして、銃を磨き始める。ブランは振り向き事務所の扉に向かう。
「そういえば」
 出口のところで足を止め、ブランはブルーに振り向いた。
「師匠はなんで人狼狩りを?」
 ブルーは銃から目をあげずに答える。
「決まってんだろ、金のためだよ」
「そうですか」
 ブランは一度部屋を見回して、頭を下げてから部屋を出た。

 遠ざかっていく足音を聞きながらブルーはため息を付いた。ぐにゃりと力が抜けて椅子の上で脱力する。
『良かったのかい?』
 マロンの声が聞こえる。
「あいつの道だ。俺が口を挟むことじゃないだろ」
『そうかい』
 面白がっているニヤニヤ笑いが頭に浮かぶ。
「それに、ホアンの下ならそうひどいことにはならないだろ」
『そうだといいけれども」
 師匠が笑いながら答える。相変わらず、頭の中の師匠の真意は読めない。

◆◆◆

 第三管区の路地裏、三方を囲まれた行き止まりの壁に一人の男がもたれかかるように倒れていた。大柄な男だ。切れかけた街灯が男の顔を照らし出す。伸びた口吻、毛皮に覆われた顔。男は人狼だった。
 男が絶命しているのは明らかだった。首元の大きな傷口があいている。傷口から噴き出したであろう出血が、壁に書かれていた落書きを上から塗りつぶしている。
 もげかけた首を少し傾げるような姿勢をしている。その顔に浮かぶのは恐怖と悲嘆。
 行き止まりに他に動くものはない。凶行の犯人はとうの昔に現場を去ったようだった。男の茶色の毛皮は自身から流れ出た血液の血だまりの中で赤く染まりつつあった。
 ぴちゃり、と入口の方から血だまりを踏む音がした。赤いしぶきが跳ね、紺のズボンのすそに水玉の模様をつけた。現れたのは女警官だった。警官の制服に身を包み、唇をきつく結んだすまし顔。女警官は制服の裾が血に汚れるのを意に介さず、行き止まりの奥、男の亡骸の方へゆっくりと歩いていった。
 男の前で立ち止まり、顔をのぞくようにしゃがみ込む。毛皮に覆われた首筋に手を当てる。冷たい感触に誰にともなく首を振る。
 一度手を放し、目を閉じ、目を開く。男の見開かれた目に手を伸ばし、閉じさせる。
「よお」
 声がかかった。女警官は素早く振り返る。手が腰の拳銃に伸びる。
「おれだよ。ブラン」
「……びっくりさせないでくださいよ」
 女警官、ブランはふわりと緊張を緩めた。ブランは振り返る。一人の男が行き止まりに足を踏み入れていた。コートを身にまとった背の高い男、ブルーだった。
「いい警戒心だ」
「どうも」
 憮然とした顔でブランは答える。あの夜以来の冷たく固まった表情。
「師匠の教えのおかげです」
「もう師匠じゃないだろう」
「師匠はいつまでも師匠ですよ」
 ブルーの韜晦に、ほんの少しだけ頬を緩めてブランは答える。
「楽しいか? 人狼課」
「楽しくはないですね」
「そうか」
「いつのまにか資料整理だけじゃなくて実働の方に回されてますし」
「そりゃあ、大変だ」
 話しかけながらブルーは人狼の亡骸に近づきブランの隣にしゃがみこむ。どうやら、死体を前に軽口を叩ける程度には場数を踏んでいるらしい。そんなことを思いながら、男の傷口に目をやる。ため息が漏れる
「この傷」
「どうしました」
「あいつだ」
 その傷口は一本牙の特徴的な傷口。ブランの顔から笑みが消える。
「やはり、ですか」
「ああ」
 第三管区で人狼が死んでいるのは今夜が初めてではなかった。すでに三体の人狼が殺されているのが見つかっている。共通点は二つ。一つは被害者が拳楼会の構成員だったこと。
 そしてもう一つは人狼、それも一本牙の人狼に殺されていることだった。
 ブルーはぎりりと歯を食いしばる音を聞いた。隣を見るとブランが固く凍り付いたような顔で傷口をにらみつけていた。頭の中に焼き付けるように。
 その怒りに気おされたのか、ブルーは自分の中の熱が少し褪せるのを感じた。いつかの師匠の言葉、自分がブランに送った言葉を思い出す。ため息を一つつく。ブランの肩を軽く小突き、尋ねる。 
 「そいつ届けたら今日はあがりか?」
「ええ、まあ」
「じゃあ、終わったらアヒル亭に来いよ。奢ってやる」
「ツケ、大丈夫なんですか?」
「拳楼会の時の金がまだ残ってんだ」
「……そうですか」
 ブランの顔が苦くゆがむ。気にしないふりをしてブルーは言葉を続ける。
「まあ、待ってるから、急いで来いよ」
「ええ、終わったら行きます」
 ブランはそう言いながら人狼の骸を背負いあげた。よたよたとした足取りで路地裏を去るブランの背中を、ブルーは眉を上げて見つめていた。

◆◆◆

 カウンターの奥の壁から人狼が恨みがましい目でブルーを見下ろしていた。一月前、ツケのカタにアヒル亭に献上したものだ。
 そういえば、あの人狼を仕留めたのは拳楼会の事件の少し前だったとブルーは思い出した。あの事件の後、事態はビエールイの筋書き通りに進んだ。占拠した拳楼会の拠点を足掛かりに警官は第三管区を制圧しつつあった。その功績で市長選挙もビエールイが優勢だという。
 最近では第三管区からも人狼がらみの通報が入るようになってきた。拳楼会の庇護のもと、隠れ潜んでいた人狼たちがあぶり出されているようだった。
 やつも第三管区に潜んでいたのだろうか? 口の中に湧いた苦みを酒をで流して呑み込む。耳の奥に拳楼会の頭目の声が蘇る。
「あれは……ビエールイの」
 血の絡んだ弱々しい声。けれどもブルーはその言葉を記憶から拭い去ることができないでいた。これが偶然出ないとするなら……。
 思考を止める。空になったグラスを叩きつけるようにカウンターに置く。マスターは黙って酒を注ぐ。
「景気がいいじゃねえか」
 ふいに後ろから声をかけられた。上機嫌な声。振り返ると小柄な男がいた。ホアンだった。制服こそ脱いでいるものの、ピリッとした清潔なシャツを着ている。
「これはこれは人狼課の課長様ではございませんか」
「頭が高いぞ、野良の人狼狩りよ」
 大げさな口調でブルーが呼びかけるとホアンがおどけて答えた。
「ブランは?」
「今、報告書まとめてる」
「お前はいなくていいのか?」
「別に明日でも構わんさ」
「ひでえ上司だ」
 からからと笑いながらホアンはブルーの隣に座り、マスターにテキーラを頼んだ。一息に呷ると、空のグラスを店主に示す。
「ブラン、どうだよ?」
「ああ、頑張ってるぜ。さすがはお前の弟子」
「なにも教えちゃいねえよ」
 ブルーはじっとグラスの中の氷を見つめる。疲れの滲んだ顔が見つめ返している。

◆◆◆

「おい、ホアン」
「どうした」
 ブルーが事務所の資料を整理するホアンに声をかけると、ホアンは振り向いて返事をした。
「お前、なにか隠してないか?」
「そんなこと、ない」
 食い気味にホアンが答える。
 事務所にいるのは二人だけだ。師匠は酒場に行って、まだ帰ってこない。また、厄介ごとを山盛りに連れて帰ってくるだろう。
「ならいいんだけどよ」
「おう」
 ホアンは本棚の方に向き直ると、神経質そうに首筋を掻きながら整理を再開した。ファイルを広げ、挿し直し、本棚にしまう。一定のリズムを刻むその背中をブルーは作業机に座ったままぼんやりと眺める。
 しばらくして、ホアンは気まずそうに振り返った。
「なんで、わかった?」
「別に、なんとなく。そわそわしてる」
「まじかよ。もしかして師匠も気づいてるかな」
 ホアンは眉を寄せて指をこすり合わせた。
「どうだろ、師匠だからな。で? なんだ」
「いや、それは……」
「師匠には言わねえよ」
 うつむくホアンをブルーはじっと見つめる。やがてホアンは口を開いた。
「警察に誘われた」
「へえ」
 ブルーは驚きの声を上げた。
「この前、港湾事務所の人狼見つけたときに知り合った警官さんから」
「ああ、あれはお前お手柄だったしな」
「偶然だよ」
「いや、お前の資料探しの腕だよ」
 ブルーの称賛にホアンはかえって顔を曇らせた。
「それで誘われたんだ。資料探しの腕を生かさないかって」
「へえ、いいじゃねえか」
 でも、とホアンは口を曲げた。
「俺だって人狼狩りだぜ」
「よく言うぜ、追跡術下手なくせに」
 ブルーの軽口に、ホアンは黙り込んだ。ブルーは気まずさを隠すように続ける。
「でも、ならなおさら警察になれよ。そっちのがお前の腕、活かせるんだから」
「でも」
「でもじゃねえよ、警察だって人狼は狩れる。もしかしたらお前のやり方だったら、俺や師匠よりもずっとたくさん狩れるかもしれないぜ」
 ブルーは立ち上がり、ホアンの隣に立った。整然と資料の並んだ棚を眺める。
「俺たちにはこんなのはむりだもの」
「そうかなあ」
「ああ、お前の腕はもっといいとこで生かせよ」
 ホアンはしばらく考え込んでいたが、やがてうなずいた。
「師匠、怒るかな」
「どうだろ、最後には納得するんじゃねぇかな」
 不安そうにうつむくホアンの肩をブルーは軽く叩いた。
「まあ、俺も一緒に話してやるから」
「うん」
 ホアンは小さな声でありがとう、と呟いた。

◆◆◆

「それで、なんのはなしだっけな」
「セキが張り切ってるって話だな」
「ああ、そうだった」
 呂律の回らない調子で何度目かわからない話題を繰り返すホアンを見ていると、弟子を預けたのが間違っていたのではないかという疑念がブルーの胸に湧き上がってきた。
「お前そんなに酒飲むやつだっけ?」
 以前のホアンは酒はたしなむ程度の飲み具合で、乱れるほどに呑む姿は見たことがなかった。
「いろいろあんだよ」
「なるほど、人狼狩り課課長様だもんな」
「そう、そ、そういうこと」
 ホアンはくひひと不気味に笑うとグラスを空にする。店主にグラスを示して酒を注がせる。能天気に笑うホアンを横目に眺め、眉間にしわを寄せ、一口グラスの中身を舐める。アルコールの味が舌を焼く。
「おめえのめあてのは、しとめたのかよ」
 頬杖を突いたホアンがアルコールに蕩けた目でブルーを見つめる。口元に浮かんだにやにや笑いにロマンの顔を思い出す。ブルーはカリカリとカウンターをひっかいた。
「いや、まだだ」
「おれたちがしとめちまったかもしれねえな」
「それはないな」
 ブルーは言い切った。口の中に湧いた苦さを酒で洗い流す。
「まだ、いる」
「ほう?」
 ホアンが興味深そうに顔をのぞきこんでくる。ブルーは目を逸らす。ホアンが知らないということがあるだろうか? 第三管区の人狼を殺す人狼のことを。逸らした目を静かに戻し、ホアンの表情を伺う。
 そこにはひどく、真剣な顔をしたホアンがいた。ニヤニヤ笑いは消え、目を細め、心持ち顔色は青白く見える。
「どうした」
「いや」
 遠くを見つめるまなざし、半開きだった口がきゅっと閉じられへの字を描く。
 すっと、ホアンが立ち上がる。目が見開かれるその手が口元を覆った。
「ウォグ」
 苦し気な声が覆われた口元から洩れる。
「あっちだ」
 すべてを察したブルーがトイレの方向を指さす。ホアンは頷いてよたよたとした小走りでトイレに向かった。
『あいつ、あんなに飲むんだねえ』
 ホアンの座っていた席のあたりでマロンの幻影がつぶやいた。ホアンの勢いに煽られて、いつもよち多めに飲んでいるからだろうか、いやに鮮明にマロンの声が聞こえる。
「あんたとは飲まなかっただろう」
『まあねえ、あんたらと一緒に飲めたら、楽しかったかもしれないけど』
「やめろ、ろくでもねえ」
 ブルーは顔をしかめる。マロンが酒を飲んで帰るたびに、吐しゃ物の処理や酒場への謝罪をしたのを思い出す。
「あいつだって、師匠の醜態は覚えてるだろうに」
『醜態だなんてひどいな』
「他にどんな言いようがあるよ」
「師匠?」
 突然声をかけられて振り返る。制服を脱いだシャツ姿のブランとセキが立っていた。
「誰と話してたんですか?」
 怪訝な顔でブランが尋ねる。ブルーは首を振ってこたえる。
「いや、ただの独り言だ」
「はあ」
「あれ? 課長いませんでした? 先に行ってるって言ってたんですけど」
 セキが目で店内を探しながら口をはさんだ。
「そういや戻ってこねえな……便器と友達になってるかな」
「またかよ、なにやってんだ、あのおっさん」
 ブルーがトイレに目をやりながら言うと、ブランはため息をついて頭を抑えた。セキをちらりと見てから
「ちょっと行ってきます」
 と言い残し、トイレの方にのしのしと歩いていった。
「ちゃんとノックしろよ」
「大丈夫だと思います。最近ずっとこうですから」
 セキがブルーの隣に腰を下ろしながら言った。ホアンの残していったグラスを少し見て考えてから、店主に「同じものを」と注文する。
「アイツ、あんなに飲むんだな」
「え、ああそうですね。飲まなかったんですか? 今まで」
「そんなに飲む印象はなかったんだよな。一杯二杯飲んで終わりぐらいだったから」
「あー、そう言えば、飲む量増えた気もしますね」
 グラスをちびちびと舐めながら、セキは言う。
「最近ずっとご機嫌で、振り回されっぱなしですよ」
「へえ」
 ブルーは意外そうな顔をした。ブルーの知るホアンはどちらかというと落ち着いていて、誰かを振り回すよりも誰かに振り回されることが多い性格だった。
「課長になって思うところがあったのかね」
「ですかね」
 しみじみと漏らすブルーにセキはため息交じりの相槌を返す。その目の下には濃い隈が刻まれている。
「お前はまだよく吐いてんのか?」
 ブルーは冗談めかして尋ねてみる。セキは軽く右目を開いて、すこしだけ考えてから、笑みを浮かべて首を振った。
「さすがにもう慣れちゃいましたよ。何回も現場に立ち会いましたから」
 乾いた笑いとともに強気の言葉が返ってくる。グラスを握る手にぐっと力が込められる、
「慣れる前に終わると思ってたんですけどね」
「そう簡単に終わりゃしねえよ」
「俺がホアンさんの下になったときは減ってたんですよ」
「一月前くらいだったか?」
「ええ」
「あー、たしかにあの頃は落ち着いてたよな」
「だからそのまま人狼なんていなくなると思ってたんですよ」
「第三管区に潜んでたんだろうさ」
 ですね、とセキは大きくため息をついた。
「ほら、しゃんとしてください」
 叱り上げるブランの声が聞こえた。トイレへの通路に目をやると、うめき声を上げるホアンを引きずってブランが歩いてきていた。ブランはセキをみとめると顔をしかめて言った。
「先輩、課長ダメそうです」
「あ? そこらにうっちゃとけよ。いつものことだろ」
「そういうわけにもいかないでしょう」
 ああ、もう、と頭を掻くとブランはホアンを背負い直す。
「署の宿直室に放り込んできます」
「留置室にしときな」
「そのほうがいいかもですね」
 セキの軽口に真面目ぶって答えてから、ブルーに向き直って言う。
「すいません。師匠、せっかく誘ってもらったのに」
「いや、いいよ。気にするな。俺が勝手に誘ったことだし」
「すみません」
「そいつ置いたら、戻ってこいよ」
「そうですね、戻れそうだったらまた来ます」
「ん」
「失礼します」
 と、頭を下げると、うなうなと何事かをつぶやいているホアンを引きずりながらブランは酒場の外へ歩いていった。
「ほっとけばいいのに」
 二人が扉の向こうに消えるのを見送ってセキはもらした。
「辛辣だな」
「いつものことなんで」
 一口酒を飲んでから続ける。
「ブルーさんが誘ったんですか? ブランのやつ」
「ああ、なんかえらい思い詰めてるみたいだったから、話でも聞いてやろうかって」
「へえ。案外弟子思いなところとかあったんですね」
「うるせえよ」
 弟子を取った覚えはねえと口の中でつぶやきながら、グラスを呷る。
「まあ、案外うまくやっているようで安心したよ」
「そうですか?」
「顔見りゃわかるさ」
「そんなに心配なら、手放さないきゃよかったのに」
 セキは小さく言う。なにか、思うところがあるらしい。行き場を失った世話焼き心が湧いたのだろうか。ふと気になってブルーは尋ねてみる。
「お前はどうなんだよ」
「……別に」
 目を伏せて、答える。グラスを爪でカリカリと引っ掻いている。ふうんとブルーは気のない調子でグラスの縁をなぞる。酒場の喧騒が二人の間に満ちる。
「優秀なんですよ、あいつ」
 ぽつり、とセキが漏らす。ブルーは眉を上げてセキの方を見る。セキはグラスの中の液体を見つめながら続ける。
「やる気もあるし、勘もいいし。もう何匹も仕留めてる。そのうち追いつかれるだろうなって」
「優秀な人狼狩りが増えりゃ、それだけ早く人狼もいなくなるさ」
「そう……なんですけどね」
 一口、セキは酒を口にする。ごくりと喉がなる。グラスがカウンターに降ろされ堅い音を立てる。
「なんか、悔しいなって」
「それなら、お前が腕を上げるしかないな」
「簡単に言わないでくださいよ」
 セキは口をとがらせる。細めた目でホアンが残していったグラスを見つめている。
「ねえ、ブルーさん」
 おずおずとセキは口を開いた。ためらいと怯えが声に滲んでいる。
「人狼のこと教えてくれませんか?」
「うん?」
「暇な時でいいんです。人狼の癖とか、戦い方とか、なんかそういうの」
「なんだって、俺が」
「お願いします」
 セキは顔を上げ、ブルーの目を見つめた。ギラギラとした目の奥の光に捉えられ、ブルーは目を逸らせない。
「俺、優秀な人狼狩りになりますから」
「弟子をとるつもりはないんだけどな」
 ブルーは大きなため息をついた。目を逸らして言葉を続ける。
「まあ、暇なときに教えれることぐらいは教えてやるよ」
「本当ですか?」
 セキが破顔する。釘をさすようにブルーは答える。
「ああ、気が向いたらな」
「ありがとうございます」
「ブランが姉弟子になるけど大丈夫か?」
「すぐ追い越します」
 強気な笑みを作ってセキは答えた。そのぎこちなさをブルーは見なかったことにした。
「そういえば、その姉弟子戻ってこねえな」
「ああ、そういえば、そうですね」
 ブルーは店の入口に目をやる。ブランの気配はなかった。
「まあ、いいか。まず、人狼の弱点だが狙いやすいのは……」
「あ、ちょっと待ってください」
 ブルーが話を切り替えると、セキは慌てて遮ってポケットから手帳を取り出した。ごちゃごちゃとしたページをめくり、余白を見つけて机の上に広げた。
 結局、その晩ブランは戻ってこなかった。

◆◆◆

 そのアパートは第三管区の中では比較的治安のよいウグイス通りに立っていた。このあたりでは珍しくガラスの残った窓はやっかいごとを避けるように分厚いカーテンを閉ざしている。
 ブルーが一階の入り口の管理人室の窓を叩くと、管理人が恐る恐る顔を出した。
「獣の声が聞こえたと聞いたが」
「ええ、あなたは人狼狩りさん?」
「ああ。どした?」
「206号室、二回の一番奥の部屋です」
「そうか」
 頷くブルーに管理人は不思議そうに尋ねた。
「警察じゃあないんですね」
「ああ、警官は忙しいらしい」
「あれ? でもさっき来たような」
 管理人は眉間にしわを寄せながら小さく漏らす。ブルーも首を傾げる。すぐに管理人は首を振って否定した。
「ああ、違いました、あれは悲鳴が聞こえる前だ。すいません混乱してしまって。定期の面談に来たんだ」
「面談?」
 ええ、と頷くと管理人は辺りを見回し、声を落として言った。
「実は人狼だってのはわかってたんですよ。保護観察中の」
「それで、そいつの部屋から悲鳴が聞こえたと」
「ええ、そうなんです」
 管理人は恐怖を思い出したのかぶるりと身を震わせた。
「そいつの、人狼の名は?」
「ベイジさんですね」
「……わかった」
 管理人の口から出た名に動揺を押し隠す。ベイジという名に聞き覚えがあった。
 半年前に締め上げた人狼。取り上げた財布の中の奥さんと娘の写真が頭に浮かぶ。あの人狼は、拳楼会の壊滅に有効な情報を提供したこと、比較的情緒が安定しており危険性が低いことなどから、監視付きながら元の暮らしに戻ったと聞いている。
 もしも今回の人狼がそのベイジだったとしたら……
 嫌な想像を振り払い、ブルーは管理人に礼を言ってから階段に向かった。
 管理人にから伝えられた部屋に急ぐ。廊下は静まり返っている。汚れた壁紙が続く。何の汚れかはわからない。今日ついたものではないように見える。
 ブルーは自分が集中できていないことを自覚する。軽く静かに息を吸う。
「なんであれ、人狼なら殺すだけだ」
 師匠は頷いてくれるだろうか。
 扉の前に立ち止まる。少し考えてノックする。返事はない。ノブを回す。鍵はかかっていない。
「入るぞ」
 ブルーはゆっくりと扉を開けた。どろり、と血の匂いがあふれ出た。暖かな照明の光の下で部屋の景色が明らかになる。家族向けの小さな部屋。狭いながらも整頓されていたであろう部屋は、今では嵐が暴れまわったように荒れ果てていた。
 薄汚れてはいるが掃除の行き届いていた壁紙は赤黒い水玉で彩られている。磨き込まれていたであろう趣味の良い調度類の合間に何かが転がっていた。ブルーは警戒しながらしゃがみ、拾う。眉を顰める。
「これは」
ブルーは手の中の指を眺める。幼い少女のもののように見える。断面は荒々しく食いちぎられたようになっている。
 そっと元の場所に置き、立ち上がる。懐に手を入れ、銃を握る。
 部屋に入った時から聞こえている、すすり泣くような獣の荒い息遣い。部屋の奥、寝室から聞こえてくる。薄い絨毯の上を静かに進む。
 寝室に入り、明かりをつける。ベッドの上で一人の女性がブルーを見つめていた。いつか写真で微笑んでいた顔。今は恐怖にゆがんだ顔だけがベッドの上に置かれている。その首の下に体はない。
 獣の声が止まる。明かりに驚いたのだろうか。
 ブルーはベッドの向こうをのぞき込む。窓とベッドの間に、一匹の人狼が覆いかぶさっていた。その巨体の下に女性の体が見える。食い破られたおなかから内臓がてらてらと光っていた。
「ベイジか?」
 ブルーは獣に銃を向けながら尋ねた。獣がブルーに顔を向ける。ぼんやりとした目つきで自分に突き付けられた銃を見つめ、それからブルーの顔を見た。
「人狼狩りさん」
「お前がやったのか?」
 人狼、ベイジはブルーの問いに答えず、ただ一言
「殺してくれ」
 と言った。後悔と罪悪感の意のこもった声だった。
 その時、ブルーは人狼の胴が大きく食い破られていることに気がついた。
「誰にやられた?」
 ベッドを乗り越えてベイジに近寄る。見覚えのある牙による傷口。シーツを剥がし傷口に当てる。なぜ人狼にこんなことをしているのだろう。よぎる疑問を振り払う。
「おい誰にやられた?」
「人狼だ、警官の一本牙の……」
「ブルー、早かったな」
 突然後ろから声をかけられた。ベイジの目が見開かれる。ブルーは驚いて振り返る。そこにはホアンが立っていた。ベイジとの話に気を取られて、背後への警戒が薄くなっていたらしい。
「ホアン」
「そいつか?」
「ああ」
「なぜ殺してないんだ?」
「いや、こいつは……」
 ブルーの言葉が終わる前に、ホアンは腰から拳銃を抜きベイジに向けるとためらいなく引き金を引いた。轟音。ベイジの獣頭が弾け、血が飛び散る。獣の亡骸が力なく窓にぶつかった。
「おい!」
「どうした?」
 ブルーの叫びにホアンはきょとんとした顔で返事をする。
「なんで撃った?」
「なんで撃たないんだよ? 人狼だろ。人も殺してる」 
「話をしてたんだよ」
「人狼と何を話すことがある」
「そりゃあ……」
 ホアンは先ほどの話を聞いていたのだろうか。聞いていたとしてどこから? ホアンの目を窺う。いつも通りの疲れた目。聞くべきことがわからず、ブルーは話題を変えた。
「こいつ、前会ったことあるやつだな」
「そうなのか?」
「ああ、拳楼会の時にバッヂを探してた男だ」
「ああ、いたなあ、そういえば。あのときに殺しておけばよかったな」
 ブルーは床に落ちていた写真立てを拾い上げた。写真の中でベイジとその妻が少女を抱いて微笑んでいる。
「隠していたのか?」
「らしいな」
 ホアンの問いにブルーは頷く。獣への欲求を制御できる人狼は、正体を隠匿したまま家庭を持つケースもあった。多くの場合、最後には欲求を制御できずに家族を食い殺してその正体がばれる。
 ブルーは写真立てをベッドの傍らの机に置いた。机の上に小瓶があるのに気が付いた。ほとんど空になりかけているが、数錠だけ錠剤が入っている。
「こいつもだったか」
 錠剤を見てホアンがつぶやいた。
「なんだ、これは?」
「薬だよ。人狼の欲求を押さえるらしい」
 ホアンの言葉にブルーには思い至ることがあった。
「拳楼会のやつか?」
「ああ、どうもこいつで人狼をコントロールしていたらしいな」
 ブルーは頷く。人狼であることを隠している人狼にとってこの薬は夢のような薬だろう。この薬を得るためなら大抵のことをするだろう。
 拳楼会がなくなってから、この薬はどうなったのだろう。もう出回らなくなったのか、それともどこかの組織が後釜に納まったのだろうか。
 例えば、とベイジの最後の言葉を思い出す。 
「おい、ホアン」
「ん?」
「人狼の、警官ってのはいるのか?」
「は?」
 ホアンが呆れた声を出す。
「いくら隠れてたって、さすがに警察は騙しきれんだろ」
「そう、だよな」
「そんなのがいたらさっさとぶち転がされてるよ」
 ホアンが小さく笑って首筋を掻く。
「そうだな」
 とうなずいてブルーは曖昧に笑った。ベッドの上でベイジの妻が恨みがましい目で二人を見つめていた。

◆◆◆

「なんかあったんですか?」
 隣に座るセキが横目で窺いながら尋ねてきた。はた目にわかるほど苛立ちが出ていただろうか。
「別に、なんでもねえよ」
 乱暴に答えて、ブルーは湧き上がる疑念をテキーラで胸の奥に押し流した。結局、今のホアンは人狼狩りなのだろうか、警官なのだろうか。それともどちらでもない何かなのだろうか。先週のホアンの煮え切らない態度はブルーの頭のどこかに絶えず不快な重みを残し続けていた。
 カウンターの上の人狼の頭のうつろな目と目が合う。責めるようなまなざしに耐え切れず、グラスに目を落とす。隣から怪訝そうなセキの目線を感じる。
 週末はアヒル亭でセキと酒を飲むのがここのところの習慣になっていた。ブルーがセキに追跡の技術を伝え、セキが警察の近況を愚痴る。他愛のない会話が日々の静寂への疲れを薄れさせる。
「お前は、なんかねえのか?」
 ブルーの雑な質問にセキは少し宙をにらんで考え込んだ。
「特にないですね。最近」
「へえ」
「ブルーさんのおかげでまあまあ、人狼も追えてますし、ブランも大人しいいし、課長もやけに機嫌いいですし」
「そうなのか?」
 眉を寄せてブルーが尋ねるとセキは「ええ」とうなずいた。
「何かあったのか?」
 ブルーの問いにセキは「さあ」と首を傾げる。そのまま黙ってからあー、とうめき声を上げた。頬が少し緩んでいる。辺りを見回し、ブルーに顔を寄せる。
「なんだよ」
「あの二人、付き合ってるんですかね」
「二人って誰だよ」
「課長とブラン」
「は?」
 予想外の言葉にブルーは間抜けな声を出した。口に含んでいた酒が気管に入り、むせる。しばらく咳き込んでから、ようやく落ち着いて、口元と目元をぬぐってから、聞き返す。
「ホアンとブラン?」
「違うんですか?」
「いや、知らねえけどよ」
「なんか、この前課長酔いつぶれた日あったじゃないですか、この店で」
「ああ、あったな」
「なんか、あの日から変なんですよね、二人とも。時々一緒に出勤してきたり、晩飯の相談してたり」
 ブルーは急激に痛くなってきた額を揉んだ。
「え、課長って、そういう人前いなかったんですか?」
「知らねえよ」
 少なくともブルーは師匠の下を離れた後もホアンから浮いた話を聞いたことはなかった。真面目一筋のホアンの隣に女性がいるという光景は思いもよらないものだったし、それがブランだというのも随分奇妙なことにしか思えない。
「まあ、でも、いいんじゃないか。二人とも、悪いやつらじゃないし」
「その割に、なんか、ダメージ受けてませんか?」
「いや、別に。ただ、驚いただけ」
 今度はむせないように気を付けながらゆっくりとテキーラを舐める。喉を焼く感覚を冷やす様に「ああ」とうめき声を漏らす。
「じゃあ、前会った時変だったのそのせいか」
「そうなんですか?」
「ああ、なんか隠してやがるなって思ったんだ」
 あいつわかりやすいからな、とつぶやく。先日の歯切れの悪さの理由がわかった気がした。ほおが緩んでいるのを感じる。今度会ったときに問いただしてみよう。ホアンのうろたえる顔が頭に浮かぶ。
「幸せになりやがって」
『あいつが隠しているのがそんなことだと本当にそう思うのか?』
 頭の中で師匠が問いかける。いつものにやにや笑い。真意は見通せない。記憶の中の映像に、今の意識は現れない。先週のホアン。銃口。撃ち抜かれた人狼の安堵の顔、女の恐怖の顔、幼子の指。師匠の首。
 深く大きなため息をつく。取るべき行動、話を聞くべき相手を考える。情報を握り、事態を進めることのできる相手。ブルーが接触できる中には、心当たりは一人しかいなかった。
 グラスを呷る。空になったグラスをカウンターに置き、セキに向き直る。
「おい、セキ」
「なんですか?」
「ビエールイって今忙しいか?」
「市長選もうすぐですからね。忙しいと思いますけど」
「会えねえか?」
 唐突なブルーの質問にセキは難しい顔をした。
「どうしたんですか?」
「ちょっと聞いてみたいことがあってよ」
 セキは腕を組んで考えている。
「ううん、どうだろう。今忙しい時期ですからね……」
「まあ、難しいならいいんだが」
「あー、でもブルーさんなら大丈夫かなあ。今度課長に聞いてみます」
「いや、できればホアンを通さずに会いたいんだが」
「……どうしたんですか?」
 セキがまっすぐに見返してくる。訝しそうな目。確かな意志が覗いている。ブルーは自分が教えたことが伝わっているのを認識する。追い続ける意志。けれども、だからこそブルーは首を振る。
「お前には関係ないよ」
「でも」
「まあ、お前が無理なら無理でなんとかする」
 ブルーの言葉にセキはため息をついた。
「わかりました。ちょっと聞いてみます。だめだったら諦めてくださいよ」
「ああ、悪いな。助かるよ」
 セキはメモを取り出して、ページをめくりながら、もう一度ため息をついた。
「うまくいかなくても、怒らないでくださいよ」
「そのときゃ、またなんか考えるさ」
 答えながらブルーはテキーラを口に含んだ。何を話すべきか、頭の中で整理する。どうにもこういう仕事は苦手だ。師匠やホアンならもっとうまくやったのだろうか。

◆◆◆

 ビエールイの部屋への道中、庁舎の廊下で見覚えのある背中を見つけ、ブルーは声をかけた。
「よう、ちょっと道を聞きたいんだが」
 びくりと肩を震わせてブランが振り向く。緊張した顔がブルーを見て少し緩み、ため息をつく。
「師匠、なんでこんなところに?」
「ちょっとビエールイに話があってよ」
「へえ」
 意外そうな表情を浮かべ、ブランが頷く。
「あー、ちょっと、資金繰りの相談をしにな」
 ブルーはできるだけ適当に聞こえるように答える。言葉を信じたのだろうか、ブランはああ、と頷く。目には蔑みの色が浮かんだように見えた。
「お前は?」
「わたし、もビエールイさんに聞きたいことがあって」
「そりゃあ、偶然だな。金の無心か?」
「師匠じゃないんですから」
 冷たい目で答え、ブランは再び歩き始めた。ブルーもその背中を追って歩きはじめる。しばらく、二人は黙って廊下を歩く。署長室に近づくにつれ、人気は徐々に少なくなっていった。
「師匠」
 ふと、ブランが歩きながら口を開いた。ブルーは前を歩くブランの横顔を見て答えた。
「どうした?」
「師匠が最後に教えてくれたこと、覚えてます」
「そうか」
 突然の言葉に少し困惑しながら、曖昧な相槌を打つ。ブランはため息をつき、言葉をつけ足した。
「どの人狼も同じってやつです」
「ああ、よく覚えてるな」
「師匠の最後の教えですから」
 意外な言葉に目をしばたかせる。咳ばらいをして言葉を探す。ブランの真意を推察しようとする。
「それがどうした?」
「師匠はそれを今でもそうしてますか?」
 ブルーは少しだけ考えて答える。
「心がけてはいる」
「そうですか」
 ブランは短く相槌を打つと少しだけ歩く速度を緩める。しばらく間をおいて口を開く。
「それは誰が人狼でも、ですか?」
「どういうことだ?」
 言葉の意味を測りかね、ブルーは首をかしげて尋ねる。ブランは考えながら、ひとつずつ言葉を紡いでいく。
「だから、例えば……」
 ブランはまた言葉を切る。ブルーは黙って言葉を待つ。
「私が人狼だったとして、師匠は殺しますか?」
 ブランは眉を顰めた。
「お前、人狼なのか?」
「例えばですよ。たとえ話」
「そうだな……」
 ブルーは考え込む。ブランの質問への答えと、ブランが求めている答え、あるいはブランの考えていること。
「たぶん、殺すだろうな。お前が人狼だってわかって、お前が人を殺していたら、殺すさ」
 ブルーも考えながら言葉を紡ぐ。
「お前なら、どうする?」
「……」
 ブランは答えない。階段を上る。ブルーも何も言わない。制服の背中を黙って見つめる。
「私も、殺しますよ。必要なら」
 ようやく、ブランはそう言った。後ろを歩くブルーにはその表情は見えない。声は強く聞こえるように言っているように思えた。
 廊下の角を曲がる。突き当りに頑丈そうな扉が見える。ブルーが何かを言おうと言葉を探しているうちに、ブランが口を開いた。
「先に行っていいですか? すぐ済むので」
「ああ、そうか。じゃあ、待ってるよ」
 少し救われた気がして、ブルーは頷いた。廊下に置かれた荷物に腰かける。ブランも頷き返して扉をノックした。

◆◆◆

 「お前、なんで人狼狩りになったんだっけ?」
 事務所机にだらしなく体を預けながら、マロンはろれつの回らない口調でそう言った。ブルーは酔っ払いを一瞬見てから、身代わりを探して書類棚の方に目を向ける。そこには誰もいない。ホアンが事務所を去ってからひと月が立ったが、まだ、弟弟子の不在に慣れ切ってはいなかった。ブルーは手の中の分解された銃にぼろきれを突っ込む。
「おい」
 怒鳴りつけられてしぶしぶブルーマロンの方を向いた。
「大事な話だぜ、これは」
「じゃあ、酔っぱらってないときにしましょうよ」
「うるせえな。素面の時にこんな話できるか」
 ブルーの言葉に険しい視線を投げつけてくる。
「こういうのはっきりさせとかねえといざって時に引き金引けねえんだよ」
「へえ」
「だいたい復讐とか言ってるやつはだめだな。そういうやつに限っていつか迷って日和っちまう。そのときが喉笛かみちぎられる時だ」
 ちらりと師匠の方を窺う。酒にぼやけた目は虚空を見つめている。そこにはいない誰かを思い出すように。
「師匠は」
 銃を置いて、ブルーはマロンに向き直る。
「なんで人狼狩りになったんですか」
「なんでだろう。よく覚えてないな」
 マロンは変わらず遠くを見つめながらぽつりと言う。拍子抜けしたブルーは思わず言い返してしまう。
「なんですか、それ」
「他にできることもないしな。生き物追いつめて、ぶち転がして金もらえるなら、こんなに楽なことはねえし、だからやってるのかなあ」
 ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。酒を飲んだ師匠は時々こんな風にいやに内省的なことを言いだすのをブルーはよく知っていた。
「それで」
 ギラリと鋭い目線がブルーを射抜いた。
「お前はどうなんだ?」
 はぐらかすこともごまかすことも許さない狩人のまなざし。
「俺も、そんなもんですよ。他にできることがあるわけじゃないですし。向いてると思いますし」
 飲まれまいと努めて軽い口調でブルーは答える。嘘ではない。ごまかしでもない。人狼狩り以外の生き方をしている自分は想像できなかった。
 マロンがじっとブルーの目を見つめる。目をそらすことができず、ブルーはその目を見返した。
「そうか、その方がいいよ。そんぐらいの理由が」
 そう言うとマロンは欠伸をして重ねた腕に顎を乗せた。そのまま「そういえば」とぼんやりと呟く。
「あいつはなんで人狼狩りになったんだろうな」
 その目線の先にはきれいに整頓された書類棚があった。
「さあ」
 ブルーはそっけなく答える。マロンの視線を追って書類棚を眺める。棚の片隅に置かれた写真を眺める。いつかホアンが語っていたことを思い出す。
「なんか、家族殺された、とか言ってた気もしますけど」
「へえ」
 マロンは気がなさそうに答えた。ブルーはマロンの方を見る。アルコールに蕩けたうつろな目に籠められた感情をブルーは読み取ることができなかった。それとも何も考えてはいなかったのかもしれない。

◆◆◆

 ブランが扉の中に姿を消して、それほど時間が経たないうちにゆっくりと署長室の扉が開いた。ブルーが顔を上げる。青白い顔をしたブランが呆然と立っていた。
「ししょう」
「どうした」
 ただならぬ様子に立ち上がり、肩を掴む。反応はない。軽く揺さぶる。ゆっくりとブルーの顔を見る。ブランが目を見開き、部屋を振り返る。
 ブルーの目がその目線を追う。部屋の中が見える。何度か来たことのある部屋。質素ながら剛健な調度の置かれた部屋。雲に遮られつつある橙色の日差しの差し込む窓を背に、机に突っ伏すようにして男が寝ている。その背中には見覚えがあった。ビエールイだ。
「署長様がお昼寝とはな」
 冗談めかして、ブルーが言う。ブランはそれを聞いて目をつむり、首を振る。眉を顰め、一歩、部屋の中に進む。ただよう血の匂いに気がつく。
 机に駆け寄る。机の上に赤い水たまりができている。ビエールイの肩に手をかけ、引き起こす。まだ少しだけ温かい。脈動はない。だらり、と力なくビエールイが仰向けに椅子にもたれた姿勢になる。天井を向いた喉からだらだらと血が流れだす。喉元に大きな傷口。唾を飲み込む。記憶の中に見慣れた傷口。
「一本牙」
 ぎりと噛み締めた口から言葉が漏れる。
 ぱたりと足音がした。顔を上げる。かけ去っていく背中が見える。
「おい、ブラン!」
 逡巡。一瞬、ビエールイを見返る。迷い、決断する。ブランを追ってブルーも駆け出す。廊下を駆け、角を曲がり、階段を駆け下りる。建物のつくりは把握していない。一度見失えば追いつくのは困難だろう。
  なぜ逃げる? 疑念がブルーの胸の内で荒れ狂う。
 もうすぐ職員が増えて来るだろう。彼らはブランと自分どちらの有利に働くだろう。ブランを捕らえるだろうか、ブルーを呼び止めるだろうか。ブランの背中が見えては隠れる。先ほどのブランの質問が頭にこだまする。
『もしも、私が人狼だったら?』
 前を走る背中の表情は読めない。雑念に気をとられたか、角を曲がったところで何かぶつかり、尻もちをつく。
「いてえ」
 どうやら、人間にぶつかったようだ。
「すまない。急いでいた」
「ブルー? どうした?」
 驚きに目を見開く。聞き覚えのある声。ふわりと石鹸の匂いが香る。小柄な体。しりもちをついている相手はホアンだった。
「ビエールイが殺されていた」
「は?」
 あっけにとられるホアン。ブルーは迷い、判断する。いまとるべき行動。話すべきこと。
「ブランと一緒にいたが、突然、走ってどこかに行った」
「なん、だよ。それは」
「わからん」
 切れる息の合間に、言葉を繋ぎ、ホアンに伝える。ホアンの肩越しに階段を下りていくブランが見える。
「とりあえず追いかける」
「わかった。俺も追う」
 ホアンが目を見開き、ため息をつく。一瞬目を閉じて開く。
「挟み撃ちにするぞ」
 ホアンがブルーの背後の階段を指差す。
「多分人狼狩り課に向かってるな。お前は西から行ってくれ。俺は南から追う」
「わかった」
 ブルーは頷き、振り返って走り出す。後ろでホアンが駆け出す足音が聞こえる。
 人狼狩り課は数度、足を運んだことがある。新設の人狼狩り課には建物のはずれの辺鄙な部屋が割り当てられていた。増築の果てに建てられた屋上にほど近い部屋だ。
 階段を降り、警官たちのにぎわう廊下を走る。ブルーを怪訝な目で見る警官たちをすり抜け、かき分け走り抜ける。思わぬ減速にいらいらする。焦りが泥のように重く足にまとわりつく。
 なんとか建物の端の階段にたどり着く。随分と時間を無駄にしてしまった。この階段を昇れば人狼狩り課だ。数段飛ばしに階段を駆け上がる。薄暗い廊下にはごみごみとガラクタが放置されている。ブランとホアンの姿は見えない。静かに素早く足を進める。
  廊下の片隅に「人狼狩り課」と書かれた真新しいプレートがかかった部屋がある。扉は閉まっている。ブルーはノックをせず、扉を開ける。
 部屋の正面の壁には窓があった。雲に覆われた空が覗いている。窓の隣にはメモや写真がべたべたと貼り付けられた大きな地図が張り出されていた。壁際には書類が詰められた箱が解かれないままに並んでいる。その隙間を縫うようにいくつかの机が雑然と置かれていた。書類の積まれた机もあれば、使われていないのかと思うほど整頓された机もある。
 机のうちの一つの前に、ホアンがひとり立ち尽くしていた。入り口に背を向け、その表情は見えない。制服の上着を脱いだ背中は微動だにしない。
「ホアン?」
 声をかけ、ブルーは一歩、部屋に踏み込む。ホアンは答えない。ホアンの目の前の机が見える。
 机の上にブランが横たわっていた。体にはホアンの上着がかけられている。顔に浮かんでいるのは憎悪と憤怒。叫び声さえ聞こえそうな形相。けれども、その大きく開けられた口はうめき声の一つももらしていない。息の一つさえも。
「ホアン!」
 ブルーは叫び、ホアンの肩を掴む。ホアンが顔を顰め、ぼんやりとブルーの方を向く。
「なにがあった」
 ホアンは答えず、手に握っていた瓶を机の上に置いた。
「なんだ、それは」
「見たことあるだろう」
 瓶の中には錠剤が入っている。ブルーはしばし記憶を探り、思い至る。血まみれのベッドサイドに置かれていた錠剤。
「ベイジの持っていたやつか」
「ああ」
 淡々と感情を抑えた声でホアンは告げる。
「こいつが持っていた」
 すう、とブルーは冷たい血が頭を巡るのを感じた。黙り込んだホアンを見つめ、言葉を探す。部屋に沈黙が満ちる。降り始めた雨が窓ガラスを叩く。
「人狼だったと?」
「ああ」
 低く、沈んだ声でホアンは答える。目線は机の上のブランに注がれている。その目に宿っている感情をブルーには判別することができなかった。
「警察の中に人狼がいるんじゃないかって、お前、少し前に聞いただろ」
「ああ」
「俺も、それを疑っていた。警察でしか知り得ない情報を持っているとしか思えない人狼事件もあった」
 ブルーは黙り込んでホアンの言葉にじっと耳を傾ける。
「そいつは俺も知らないところで動いてた。なにか明確な目的をもって。おそらく、ビエールイの指示の下だったんだろう」
「ビエールイは殺されたぜ」
「なにか、仲違いがあったんだろうな」
 ホアンは答え、ため息をつく。
「殺して、どこに逃げるつもりだったかは知らんが、俺がここに追い詰めたら、襲いかかってきた。他に方法はなかった」
 ホアン天井を仰ぎ、絞り出すように言った。その言葉は次第に湿ったものになっていった。萎んでいく言葉は次第に強くなる雨音にかき消された。
「お前は、りっぱな人狼狩りだよ」
 ブルーは少し強く、ホアンの肩を叩く。
「ああ」
 ホアンは上を向いたまま答える。
 ふと、叩いた肩に血が滲んでいるのに気がついた。
「どうしたんだ? この傷」
 シャツ越しに傷が口を開いているのがみえた。この傷は……
「そいつにやられたんだよ」
 ホアンがブランを指さして言う。その言葉を聞き流し、ブルーはシャツ越しにじっと傷口を見つめる。牙や爪の傷よりずっと見慣れた傷。人狼につけられた傷ではなく、人狼の身に焼きつけられた傷。
 ゆっくりとブランに目をやる。物言わぬ亡骸は死してもなおホアンを睨みつけている。ブルーの脳裏にブランと出会った日のことが蘇る。
 あの日に逃した一本牙。その肩に負わせた銀の弾丸の銃創。あの傷口が今目の前の傷口と重なる。
 ドクンと心臓が跳ね上がる。鼓動の高鳴りは気づかれただろうか。感情を隠し、口を開く。
「こいつはなんでこんなとこに来たんだろうな」
「さあ? 証拠を隠して逃げるつもりだったんじゃないか」
「それもそうだな」
 ブルーはホアンの言葉に頷き、机の上のブランに近づく。被せられたホアンの上着に手をかける。
「やめてくれ、たとえ人狼だったとしても、俺の部下だったんだ」
 ホアンは首を振り、ブルーを止める。ブルーはちらりとホアンを見て言う。ホアンの内心は見通せない。腹に力を籠め、ゆっくりと息を吐いて、言う。
「その前にこいつは俺の弟子だぜ」
 はらりとブルーは上着を取り払う。無惨に血に染まった体があらわになる。その傷口は銃創ではなく、もはや見慣れた一本牙の傷。
「はは」
 ブルーの口から乾いた笑いが漏れる。
 背後に風を聞き、机に手をついて前に転がる。どこか予測していた危険。ブルーの頭のあった場所を黒い風が通り過ぎる。机とブランを越え、床に着地する。振り返り、懐から素早く銃を抜く。
「こいつはお前を探してここに来たんじゃねえのか!」
 机を蹴りつけてブルーは叫ぶ。ブランが衝撃で床に落ちる。影が机を躱し飛び込んでくる。空中の影に引き金を引く。衝撃、轟音。影が空中で意をよじるのが見える。舌打ち。銃弾が毛皮をかすめ、壁に穴が開く。前に転がる。影の下をくぐり交錯する。背中を爪がかすめる。焼き付く痛みが走る。
 もう一度転がる。床に転がるブランの顔が逆さまに視界をかすめる。思考から締め出し、体勢を立て直して振り返る。銃は油断なく構えたまま。
 振り向いた先にいたのは小柄な人狼。記憶の中で何度も見た黒い影。息を吸い、吐く。
「お前、人狼だったのか」
「ああ、そうだな」
 大きく裂けた口を開き、人狼が答える。その声はしわがれ、歪んではいる。けれども確かにホアンのもので、ブルーの脳をくらりと揺るがす。
 雷鳴が閃く。開いた口から覗くのは右の牙の欠けた一本牙が照らす出される。五年間思い描いてきた一本牙、追い続けてきたあの仇。煮えたぎる血液が体を満たす。目をそらさずにブルーは尋ねる。
「師匠を殺したのは……」
「俺だよ」
「なぜだ?」
 口から洩れたブルーの問いにホアンは一声うなり、目を細め、答える。
「あいつは、おれの父親と母親を殺した。平和に暮らしていた俺たちを容赦なく。二人が俺だけを逃がしてくれたんだ。だから、おれは......」
「そうか」
 ホアンの言葉を切り、ブルーは冷たく言い放つ。自分で尋ねたのが愚かなことに思える。理由なんて聞く必要はなかった。自分でも奇妙に思うほど冷静だった。息を吸い、吐く。静かな心の中に熾火のような高揚が芽生える。人狼を前にしたときの胸の熱。ホアンが目を上げる。二人の目が合う。
 頭の中の師匠は何も言わない。聞くまでもない。教えられたことは頭に刻み込まれている。どんな人狼も区別しない。

 たとえそれが師匠と弟子の仇でも。
 あるいは旧友でも。

 だからブルーの目の前にいるのはホアンではなく、ただの一匹の人狼だった。人狼の大きな目の中に映っているのも一人の狩人。ああ、こいつはこんな姿になっても師匠の教えを覚えているんだ。
 口許がほころぶのを感じる。人狼の大きく裂けた口の端もつり上がっている。
「ああ、そうだな。俺たちは結局――」
 人狼と狩人の視線がぶつかる。
 そこに浮かぶのは怒りか笑みか。
 カウントはいらない。
 爪が振りかぶられ、同時に引き金が絞られる。
 二人の口から咆哮がほとばしる。人狼と狩人は互いの名を叫ぶ。
「ホアン!」
「ブルー!」
 鳴り響く雷鳴をかき消すほどに、二人の叫びは嵐の空に響き渡った。

◆◆◆

 言いようのない胸騒ぎを感じてセキは人狼狩り課への階段を上った。胸騒ぎの理由は思い浮かばない。課長は会議に、課員は皆調査に出ていて部屋には誰もいない。面倒の原因はないはずだった。窓を開けたままにしてきてしまっただろうか。収まらない胸騒ぎ。あるいは狩人の勘とやらだろうか。ナンセンスなことを思い浮かべてくすりと笑う。
 ガラクタの積まれた廊下を歩く。蛍光灯が切れかかっている。今度資材部に行って新しい蛍光灯をもらってこなければと思う。
 扉に手をかける。もう一度、ぞわり、と悪寒が走る。静かに扉を開ける
 電気はついていない。一番奥の椅子に誰かが座っているのが見えた。こちらに背を向けている小柄な影には見覚えがあった。
「課長、戻ってたんですか?」
 呼びかけに答えはない。
 眉根を下げ、一歩踏み出したブランの足に何かやわらかいものが当たった。重く湿った感触。見下ろす。窓の外に雷が閃いた。一瞬の閃光が床を照らし出す。男が倒れている。長身の男で外套を着ている。右手には銃を握っている。古く重たそうな銃。銃口からは煙が上がっている。その男に首はなかった。その傍らに目を見開き、手足を投げ出した女の体。思考が固まる。頭が見えているものをゆっくりと処理する。雷鳴が鳴り響いた。
「ブラン? 師匠?」
 視線を上げて椅子に向き直る。ゆっくりと椅子がこちらを向く。再び、雷光。椅子に座っている影を照らし出す。それは人狼だった。膝の上で首だけになったブルーが眠るように目をつむっている。
 一瞬の光景を頭が理解する。セキの血液が瞬時に煮えたぎる。とっさに叩くように照明のスイッチを入れる。
「貴様!」
 青白い明かりがともり、人狼の姿が明らかになる。黒い毛におおわれた顔。右目からだらだらと血を流している。残った左目がセキの姿をみとめ、見開かれる。
「お前は」
 しわがれ歪んだ声が人狼の口から洩れる。
「貴様がやったのか」
 震えを隠し、ブルーの体を指す。人狼はそれをぼんやりとした目で見る。大きな目が閉じられる。そのまま天井を仰ぎ、目を開く。口元が吊り上がる。
「ああ、そうだ。俺だ。俺がやった。お前の師匠を殺したのは、この俺だ」
 あざ笑うような口調で人狼が言う。セキは息を吸い、吐く。
「なぜ殺した?」
 ブランは目線を合わせたままブルーの傍らにしゃがみこむ。天井を向く人狼は右目からとめどなく血を流しながら言う。
「なぜ? 人狼が人を殺すのに理由がいるか? お前たちは人狼を理由なく殺すのに」
「お前たちが人を殺すからだ」
「ああ、そうだろうともさ」
 さりげなく、人狼に気づかれぬようにブルーの手から銃を抜き取る。鉄の重さを手の中に感じる。銃を持ち上げる。がちりと撃鉄を起こす。
「ほう」
 人狼が声を上げる。
「俺を撃つのか?」
「脅しのつもりはない」
 人狼はにやりと笑う。ブルーの首を机の上に置き、立ち上がる。ひと際その大きさを感じる。ぎらりと牙が光る。
「いいさ、撃ってこい、それがお前たち人狼狩りだろう?」
 人狼が大きく手を広げる。セキはまっすぐ心臓に銃口を向ける。頭の中にブルーの顔がよぎる。人狼を狩ることを何と言っていただろうか。ブルーは何も言わない。
 振り払い、引き金を引く。轟音。反動で銃口が跳ね上がる。人狼の背後で窓ガラスが割れる。
 人狼がにやりと笑う。セキは身構える。飛び掛かっては来ない。ごうごうと嵐の風雨が部屋に吹き込む。そこら中に積まれていた書類が部屋に散乱する。
 ふわりと存外に身軽な動きで人狼が窓枠に乗る。目元の血をぬぐう。その顔は笑っているようにもないているようにも見える。
「逃がすか!」
 セキは銃を構え直し、撃鉄を起こし、引き金を引く。轟音、反動。外れる。舌打ち。撃鉄を起こし、狙いを定める。引き金を引く前に人狼が姿を消す。窓に駆け寄る。外を覗く。時折雷光が闇を切り開く嵐の中、黒い影が駆けていく。狙いを定める間に、人狼は嵐の向こうに姿を消した。
「クソ!」
 セキは地団太を踏んで罵りの声を上げる。部屋の中に向き直る。机の上でブルーが目を閉じている。その穏やかな顔に語り掛ける。床に目を落とす。そこには憤怒の表情を浮かべるブラン。二人を見て、セキは語り掛ける。
「仇はおれがとりますから」
 決意の言葉。ブルーもブランも何も答えない。

 その夜、二人の人狼狩りが死に、一人の人狼狩りが生まれた。

◆◆◆

 獣が嵐の町を駆ける

 ああ、そうだ。
 追ってこい。追ってこい。俺を殺そうと追ってこい。
 いつかお前は俺を殺すだろう。それとも俺はお前を殺すだろう。
 殺すのはお前の子か俺の子かもしれない。
 死ぬのはお前の子か俺の子かもしれない。
 それでいいのだ。それがいいのだ。
 俺達にはそれしかないのだ。
 永遠に
 追って追われて、殺して殺されて死んで死なれるのだ
 だから、今は俺を追ってこい。俺を殺そうと追ってこい。

【おわり】

この小説はバール様主催「野郎どもが互いの名を絶叫しながら殺し合う小説大賞」略して「絶叫杯」に提出するために書かれた作品です。
長い小説を書こうと思って書くのは初めてだったので少し疲れましたが、たどり着けたい光景にはたどり着いたので、自信をもって送り出せます。
色々迷っていたらぎりぎりになってしまった。
さて、他の応募作を読む時間にはいるとするかのう。

https://note.com/beal/n/n2083c9c65a1b


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