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Episode 494 線を消していくのです。

発達障害の「診断」について、考えることがあります。
具体的に言うと、私が受けた診断…「自閉スペクトラム症(ASD)」についてです。
Autism Spectrum Disorder の日本語訳である「自閉スペクトラム症」の命名ポイントは、おそらく "Spectrum" の部分で、ネット辞書で調べれば「意見・現象・症状などが、あいまいな境界をもちながら連続していること」と説明されています。
つまり、「Autism=自閉」の「Disorder=障害」が「Spectrum=あいまいな境界をもちながら連続している」という意味ですよね。
即ち、どこからどこまでが「Autism=自閉」の「Disorder=障害」なのかの境界はあいまいだ…と、症状名が説明しているワケですよ。
これはASDの「医学的知見からの意思表示」だと私は思っています。

その一方で、日常的な社会生活を送る上で問題となる「生き難さ」については、障害者手帳という社会生活にハンディキャップを持つ人に対して発行される行政による社会福祉の視点で線引きをされるケースが多いのが実情です。
障害等級が1~3級で区切られ、等級によって受けれれる福祉サービスの内容が異なるワケです。
さらには障害等級に該当しないという判断で手帳が交付されない「グレーゾーン」なるものも発生するワケです。
これをASD的なスペクトラムに置き換えると、あいまいに連続する境界線がないものを4つに切り分けるということになります。

でも…ASDと診断を受けた人は、風邪をひいて熱を出して内科で検査して「風邪ですね」って言われるように、上手くいかなくて苦しんで精神科で検査して「ASDですね」って、診断されるんですよね。
少なくても私はそうだったのです。
健康に問題がない人なら病院には行かないのですよ、内科も精神科も。
診断を受けて「ホッとする」か「ガッカリする」かは…また別の問題で、診断というのは「線を引く」という作業であることは間違いないのです。

「診断を受け入れる」とは、この「引かれた線を受け入れる」ということになるのだろうと思います…でも、それだと「先にお話ししたASDの医学的知見」と相いれません。
つまりね、「引けない線を引くのが普通」だというダブスタを受け入れるってことになるのだろうと私は思うのです。

では…ASDの私がASDの診断を受け入れて、どうやって生活しているのか…と言えば、引かれた線を意識することなく生活していることが殆どなのです。
たまにASD的に「やらかした!」ってことがあれば、その時は自分のASDの「線の中の」ダメな部分を感じるのですが、普段から「その線を越える」とか考えているワケではないのですよ。
それは一緒に生活しているパートナーも同じ、私の「ASDのダメな部分の指摘」は線を引いてするかもしれないけど、ずっと私のことを線の向こうのASDとして扱っているワケではないのです。

診断という線はスタートラインなのですよ。
そもそも「ないものの線を引く」というナンセンス。
無いハズの線は消せばいいのですよ。

世の中の仕組み上、ありとあらゆるものに線が引かれるのは仕方がないことだと私は思っています。
そして人が生きていくとは、周りに張り巡らされた線を消していく作業なのだとも思うのです。

私の回りには、ASDという線が一本余計に引かれました。
この線を意識するのか消すのか、それは私と、私に関係する皆さんが判断することです。
私には消えたように見える線が「くっきり」見える人がいるのかもしれませんが、消す努力をしなければ、きっと誰にでもいつまでも「くっきり」と見え続けることになるのだと、私は思うのです。

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