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Episode 581 「何で」に答えられません。

父が認知症対応の高齢者向け「グループホーム」に入所した後の母は、大切なあなたと引き裂かれた感覚が強かったのだろうと思います。
片田舎にある自宅での一人暮らし…ANN系テレビの人気番組「ポツンと一軒家」に見る土地への愛情は、生まれ育ったとか、嫁いで長年過ごしたといった地域との好意的な関係性の下で育つのでしょうが、長く暮らした関東の公団型団地を父の定年退職で手放して移り住んだ「その場所」に、母は馴染めなかったように思います。
田舎特有の「濃厚な地域社会」の中で、「郷に入っては郷に従え」を拒んだことが物理的な問題以上に「地域での暮らしにくさ」を作り出してしまったようにも思います。
「介護」という現実の中で自分の体力の限界を理由に、頼みの綱だった父と引き離されたというのが「母の気持ち」なのでしょうね。

この母の気持ちに付き合おうとすれば、どうしても私の負荷は増えるワケです。
やらない…というワケではないのですが、あれもこれも思いを聞いているワケにはいかない…で、母をガッカリさせてしまう…というのが前回までのお話です。

前から私はASD的な思考パタンを、宮崎駿監督のアニメーション映画「千と千尋の神隠し」に登場するキャラクター「カオナシ」の姿に喩えてお話ししているのですが、ASDの人が「オープンクエスチョン」に弱いことが多い…という点も、この視点でお話しできるように思うのです。

「千と千尋の神隠し」の中で「カオナシ」がしたことは何度もお話ししていますが、以前の記事を引用して改めてもう一度整理すると…

「カオナシ」の自己完結思考のポイントを整理すると、
カオナシには「油屋」というお風呂屋さんに招き入れてくれた千に対しての感謝と親近感があり、何らかの形でお礼をしたいと思っている(自我はある)けれど、どうやったら千が喜んでくれるのか分かりません。
だから千とその近くにいる人たちのことを観察するのです…千の世話役であるリンが「薬湯の札」を欲しがったこと、番台ガエルが「お腐れ様」の飛び立った後に残された砂金を見つけて大喜びしたこと…とかね。
つまり状況的に役に立つと思われるものを、千に渡そうとしたワケです。

…ということです。
客観的にみて、役に立つであろうものを「第三者視点」から捉え、千に差しだす…具体的には金です。
そこにカオナシの気持ちは反映していないよね…というのが前回記事での指摘です。
その結果、逆上して大暴走…というのが映画のあらすじになるワケです。
そしてその「逆上して大暴走」こそがオープンクエスチョンの弱さを明確に示す具体的な事象です。

つまりですよ、カオナシは「千が『なぜ』金を欲しなかったのか」というオープンクエスチョンに答えられないことの不満を、逆上という形で爆発させたワケです。
そこでカギになるのは、千が欲しがらなかった金を、カオナシも欲していないということ。
状況的に見て金には価値があるだろうけど、カオナシは金の価値に魅力を感じていないワケですね。
自分にも価値が分からないものの価値を説明できませんからね、自分の善意を否定されて、気持ちの行き場がなくなるワケですよ…きっとね。

さてさて、父の介護にからむ「母と私の関係」ですが…。
私は「どのように対応するのが皆にとって一番負荷が少ないか」…という視点で母との会話をしようと試みてみたつもりでした。
でもね、それは私の気持ちではないのですよ。
私は私の生活を、父の介護を「生き甲斐」にしたい母のために割きたくないのです。
母が母の責任で父の介護をする分には、何の問題もないし止める気も無いのです。
でも、そうやって母は倒れ、入院するに至った…結果として、父は「グループホーム」に入所した経緯からして、母の責任で父を介護するのは難しいのですよ。
父は「グループホーム」に入所することで安全な環境を手に入れた、それを崩してまで母のもとに父を連れていけば、確実にリスクは高くなるワケです。
私は、そのリスクを避けたい…私のために。

その本音を隠した状態で、状況的に一番現実的な…つまり、社会的な建前で話を押し進めれば、「母のお気持ち」VS「社会的な安全性(建前)」ということになり、当然のことながら母のお気持ちは屁理屈になってしまうワケです。
その関係性のイビツさを周囲は指摘することになる…。
「なんでそんなにお母さんに冷たいの?」…と。
その質問に答える術が、私にはありません。

本来であれば、「母のお気持ち」VS「リスクを避けたい私の気持ち」である必要があるワケです。
「そうは言ってもさ、オレだって仕事もあるし、いつもいつも付き合えないって」…で、着地点を見つけることになるワケですよ。

「ASD的なオープンクエスチョンの弱さ」の全てがこのようなケースではないでしょう。
でも、私の気持ちを隠し、社会的建前で意見を代弁させることで、私とあなたの会話が成立しなくなることがあるのは否めません。
ナチュラルに自分の気持ちを社会的常識に置き換えることで「外モード」を形成するASDは、その代償として「オープンクエスチョンの弱さ」を引き受けることになるように、私は思うのです。

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