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Episode 466 自分の意思がわかりません。

えーと、ひとつ訂正しておきます。
私とパートナーの最初の一歩…正しくは、言葉に出して「告った」のはパートナーの方です。
その辺のハナシを書いた記事を添付しておきます。

但し、どちらが先に相手に興味を持ったか…という点については、明らかに私からの方ですし、最初からパートナーもそれに気が付いていました。
かたちとしては「告られ恋」の体裁になりますが、私が射止めたかった人との恋の成就…という意味で捉えてくださるとありがたいのです…さて。

ASDの私は社会的評価を過剰に気にすることがあると思っています。

「『ちゃんと』って、何?」
パートナーに度々指摘される言葉です。
パートナーは気が付いているのです。
私が社会的価値基準を必要以上に気にしているということに。
だから、家庭内に社会的基準を持ち込もうとすると、そう指摘するのです。

例えば…私も経験あるのですが、どうしても学校や会社に行きたくない日があったりするワケでして、もしもそれを「仮病」を使って休んだとすれば、社会的基準としては「ズル休み」ですよね。
でも、当の本人としては、そうしてでも休みたかったのはきっと事実。
ウチの子がそんな行きたくない言い訳で「頭がイタイ」だの「お腹がイタイ」だの言って、ウダウダしている時に「熱もないのに!」って切り捨てることはカンタンです。
私の中の社会的基準である「ズル休みはアカン!」が発動して、「あなたもこの基準が分かるだろ!」になるとマズイ。
ここに自他境界の緩さが顔を出せば、あなたは社会的基準に裏付けられた正論に勝てるワケがないのです。
でもね…休んで充電したいことだってあるワケですよ。
自分が精神的に苦しかった時期、同じことをされたらどうだったでしょうかね。

パートナーとの関係は、一方的に私の方から好きになる「ひと目惚れ」でして、ひと目惚れであるからこそ、なにも知らないあなたを受け入れる必要があったワケです。
ここに私を「受動傾向」から「積極奇異傾向」に引きずり出すカギがあったのだと思うのです。

あばたでもえくぼでも、どうでもいいや。
人を好きになるとは、欠点も全て含めてそのひとを認めるということ。

そこには、社会的価値基準は存在しません。
あなたの基準を受け入れます、それが私の意志です。

同じようなことを何度も言って申し訳ないのですが、ここ、ここなんです!
あなたのハートを射止めようと必死な私は、自分の基準(社会的な評価基準)をあなたの前で捨て去ります。
ただ、それはあなたの前だけで行われる「積極奇異モード」であるということ。
あなたを射止めるのに必死な私は、自分のモードチェンジに気が付いていません。
そりゃぁ、そうです…世の男性諸氏で「意中のあなた」の前で全くの平常心で変わらず…が、出来る人がどのくらいいるのでしょうか?
誰だってちょっと頑張っているハズですよ、私のしていることは、それと変わらないのです。

ASDの私の考え方のベースは「私がどう思っているのか」ではなく「社会的な評価と見合っているのか」なのだと思います。
それは、子どもの頃から自分の考え方が定型社会で浮いてしまい、指摘される中で社会的価値観とズレていないかを気にするようになってしまったからではないか…と思います。

パートナーが言う「ちゃんと」とは、「社会的価値基準ではなくて、あなたはどう思っているの?」ということを聞いているのだと思います。
それを度々指摘されるほど、自分の考えが空洞化しているということ。
指摘されるたびに「私はどう考えるのか」を突き付けられるのです。

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