どもりたくない私と欠けたい三日月。

2020年10月、吃音を持つ新人看護師が自殺したことに対し、労災が認められた。彼の死因は吃音を責められたことによる葛藤だった。

皆さんは「吃音」というものについて、どのくらい知っているでしょうか。

ドラマや映画の中でなんとなく見たことがある、もしくはほとんどわからない、という人が大半だと思います。

吃音というのは、簡単にいうと人と会話をするときにどもってしまう現象のことを指します。

一般的に有名なのは、「あ、あ、あ、ありがとう」というようなどもり方。吃音を知っているという人は、大抵このタイプのどもりを想像するのではないでしょうか。

時折、「どもることなんて誰にでもある。別に特別なことじゃないよ」という人がいますが、吃音の人は少しどもり方が異なります。

普通の人がどもる場合、何か緊張していたり、焦っていたりという場面で起こることが多いと思います。冷静なときにどもることはほぼないでしょう。

しかし、吃音の人はとくに緊張を伴うような場面でもないのにどもります。友人や家族といった心を許せるような間柄ですら、会話に支障をきたすほどにどもってしまうのです。

また、どもりにはいくつかの種類があります。

先ほど挙げた「あ、あ、あ、ありがとう」というのは”連発”というタイプで、一番わかりやすい例です。

そのほかに、「あーーりがとう」と言葉を不自然に伸ばす”伸発”というものもあります。これは連発を防ごうと工夫をした結果生まれてしまうどもりなのではないかと私は考えています。

また、一見どもっているように見えない”難発”というものもあります。これは言葉を発する前に喉に過剰な力が加わることで、声が全くでなくなるというものです。

声がでなくなるといっても、完全に話せなくなるわけではありません。語頭音を出すときに声がでなくなるだけで、一度声が出てしまえばそのあとは話すことができます。

このように、一口に吃音といっても症状はさまざまで、その分だけ悩みも複雑です。

たとえば、連発や伸発のように他人からわかりやすい吃音では、マネされたりバカにされたりといったことが起こりやすいです。

また、難発では他人から症状を理解されづらく、一人で悩みを抱えがちなことが多いです。

吃音という障害は、その持ち主に対して人生を変えるほどの影響力をもち、そして時には死に至らしめる恐ろしい毒薬のようなものなのです。

吃音者として生きてきた私

私は物心ついたころからどもっていました。

一番最初にどもっていた記憶は保育園のころ。うまく挨拶ができずに先生に笑われていた記憶があります。

当時は話すことに苦手意識なんて1ミリもなく、なんなら普通の子よりもたくさん話していたと思います。

自分が吃音を持っているということをはっきり認識したのは小学校高学年。

周囲が自分の話し方をバカにするようになり、自分が普通ではないということに気づいたことがきっかけです。

友達と話すときに自分だけどうも言葉がつまづいてしまう。「なんだかスムーズじゃないなぁ」と自分にイライラすることはありましたが、この時もまだ話すことへの苦手意識はありませんでした。

私が”話す”ことに対して決定的にコンプレックスを抱いたのは中学生のころ。思春期の繊細な時期ということもあり、自分自身の吃音に対してかなり神経質に考えるようになりました。

中学のころといえば、異性にモテるだとかイケてる友達とつるむといったことがステータスになりますが、吃音を持っていることがその障害となりました。

友達にはバカにされ、異性からは気持ち悪がられる。もはや友達を作るとか異性と仲良くするとかそんな次元ではなく、そもそもリングに上がらせてもらえないという感じでした。

このころから、私は自分のことを”欠陥品”だと思うようになりました。

おそらく私は、母親のおなかの中でなにか大切なネジを落としてきたのだろう。そのせいでうまく言葉を話すことができないんだ。そう思い込んで、自分を卑下する習慣が作られていきました。

強まる吃音コンプレックス

高校に入っても私の吃音は改善することなく、そのことに対するいら立ちやコンプレックスも日に日に蓄積されていきました。

いっそ舌を切り落として話すことができなくなればいい。本気でそう考えていた時期もありました。

生来のコミュ障気味な性格と吃音へのコンプレックスがあいまって、私はほぼ他人と関わらない生活を送るようになっていました。

幸いにも吃音を気にせず付き合ってくれる友人がいたので、彼らとは仲良くしていましたが、それ以外のクラスメイトや先生などとはほぼ一言も口を利きませんでした。

高校三年生になると、クラスからたった一人だけ孤立し、体育祭などの行事にも参加せず卒業アルバムも購入しませんでした。ただ、無心になって学校が終わるまで耐え続けていました。

大学生になっても吃音は治りませんでした。それどころか、私の吃音コンプレックスはますます強くなっていきました。

大学1年のとき、私はスーパーのレジでアルバイトをすることになりました。人が多い夕方ではなく、なるべく接客の少ない深夜帯を選びました。

大学が18時ごろに終わり、家に帰ってご飯を食べて眠る。そして夜中の2時に起きて準備をし、3時に出勤する。そして朝8時にバイトを終え、そのまま大学へ向かう。そんな毎日を送っていました。

深夜のレジは、たしかに客の数は少ないのですが、そのぶん常連の人も多く雑談をする機会がたくさんありました。

人と会話をすることが苦手な私は、あまり話が広がりすぎないようになるべく消極的な態度を取るようにしていました。

そうすると、最初は親しみをもって接してくれていた人もだんだん距離を取るようになり、ついには話しかけられなくなるということが度々ありました。

当時の私は、それでいいのだと思っていました。そもそも人と話しても楽しいことなんて一切ない。だから、最初から自分のことなんて嫌ってくれて構わない。

誰に対してもそんな思いで接していました。

このときに身についた「仲良くされる前に嫌われよう」という習慣は、後々私を大いに苦しめることとなりました。

吃音コンプレックスで就職活動ができない

そんな態度で臨んでいたバイトの評判はやはり悪く、クビにはならないものの、あからさまに不信感をぶつけてくる人もいました。

結局、そのバイトは1年ほどでやめてしまいました。

どもりの自分には接客業は向いていないと思い知った私は、途方にくれました。

こんなことで将来働くことができるのだろうか。そんな不安を悶々と抱えながら、友達と遊んだりゲームをしたりして現実逃避をしていました。

大学四年生になったとき、私は焦っていました。周りはすでに就活を始めていて、すでに内定が決まっている人もいる。

いつも一緒にいる友達も、面接を受ける日々を送っていました。

私はというと、吃音コンプレックスがピークに達しており、「面接なんてとても受けられない」としり込みしていました。

あるとき、友達が企業の大規模な合同説明会に誘ってくれました。

私はしぶしぶ行くことにしましたが、入り口についた瞬間、中にいる優秀そうな就活生たちとそれを品定めしているような企業の人たちをみて、全身が凍り付いてしまいました。

「自分はこんなところには場違いだ」そう思い、中へは入らずそのまま帰ってしまいました。

その後私は就活をすることなく、愛知県の工場で季節労働をすることになるのでした。この時の話はまたいずれ別の機会にさせていただきます。

コミュニケーションが必要とされる医療職へ

それから、私は紆余曲折あってネットメディアの編集者から医療関係の仕事へと就くこととなりました。

ネットメディアの編集者をしていたころは、ほぼ一日ほかの社員と会話をしないで済むことも多く、会話が苦手な自分には向いている仕事でした。

しかし、パワハラ気味の上司とやりがいのない仕事内容から日に日に自己嫌悪が募っていき、「苦手なことから逃げ続ける人生でいいのか?」と自問自答をするようになりました。

そして入社してから3年が経ったとき、私は自分が苦手なコミュニケーションが必要とされるであろう医療職へと転職しました。

医療職というのは、自分の一挙手一投足が患者さんの命を左右することもあるため、適度な緊張感が求められます。

それに加えて人手不足が深刻な業界でもあるため、職場によってはいつもピリピリしていることもあります。

こまめな報連相とスピード感が要求される現場において、私のような吃音者はどうしてもリズムを崩してしまいます

そのことであからさまに嫌そうな顔をされることも少なくありません。

幸い私の職場ではいじめのようなものはありませんが、場所が違えば冒頭で書いたような事件が起こる可能性だってあります。

しかし、私は「もう苦手なものから逃げたくない」という気持ちでこの業界に入ったため、逃げずに戦おうと決めました。

毎日毎日、どもりながらも患者さんや同僚と話し続け、吃音を克服しようと必死でした。

そんな日々を送っていた私は、知らず知らずのうちに心が限界に達していました。ある日、もう出勤したくないと思ってしまったのです。

どんなに吃音を克服しようと思っても、まったく成果が出ない。この感じだとおそらく、一生吃音は治らない。そういう思いが頭をよぎってしまいました。

吃音者として生きるということ

この「吃音を克服する」という私の思いは、自分自身を苦しめ続けました。

吃音はどんなに立ち向かっても、びくともしない巨大なモンスターのようでした。

もうあきらめてしまおう。結局自分は欠陥品のまま生きていくんだ。そう思うと涙があふれてきました。

その時、窓の外に三日月がぽっかりと浮かんでいるのが見えました。

ストレスで頭が少しおかしくなった私は、月に向かって「お前はいいよな。いつも綺麗で」と毒づきました。

でもそのあと、あれ?と疑問に思いました。月は太陽と違って日々形を変えています。満月のときもあれば、その日のように三日月のときもある。

なのになぜ、月はいつも綺麗なのだろうか

私はしばらく、夜に悠然と浮かんでいる三日月を見つめ続けていました。

欠けていても、きれいだな。

なんとなく、私はそんな言葉を発していました。よくよく考えてみると、満月という完全な状態から欠けてしまった三日月を綺麗だと思うことは、おかしなことのように思えました。

しかし、目の前に浮かぶ三日月は圧倒的なまでに美しかったのです。

そして私は、月と自分の人生を重ねて考えてみました。はじめは満月という満たされた状態で始まり、年月とともにやせ細っていく。その後、再びその身を膨らませていって、満月へと戻っていく。

ああ、まるで人間と同じだな。と思いました。そしておそらく、私は今まさに目の前にある三日月のように欠けた状態なのだと考えました。

そうすると、欠陥品のように思えていた自分の人生がなんだか輝きを取り戻してくるように感じられました。

もしかしたら、欠陥品のままでも幸せに生きられるのかもしれない。わたしはそんな仮説を立てました。

何かが欠けた状態でもその輝きを失わない限りは、きっと生きている価値がある。むしろ、欠けていることが自分なりのアイデンティティなのではないか。

そう考えると、足元からちょっとずつ勇気が湧いてくるような気がしました。

三日月のように生きる

私はこれまで、いびつに欠けている自分自身から逃げ続けてきました。そして今度は欠けているものを取り戻そうと必死になってきました。

しかし、今は欠けた状態でも、光を失わなければそれなりの幸せを見つけることができると考えるようになりました。

この考え方が正しいのかどうかなんて私にはわかりません。

ただ、手札にないカードを探すよりも、今あるカードで勝負するほうがよっぽど現実的なやり方なのだと思います。

人と話すことへのコンプレックスを抱えながらも、自分なりに輝けるように生きてみる。そんな毎日を繰り返していけば、最後にはきっと満月に近づけるのではないかと信じています。

大事なお金は自分のために使ってあげてください。私はいりません。