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乱読読書日記④大谷崇「生まれてきたことが苦しいあなたに」

今日まじで布団から出たくない、何もしたくない。そういう日って誰でもあると思うのですがどうでしょう。

私は休職中は8割そんな感じだった。

そういう人におすすめ!とは言えないし正直誰にも勧めにくいのが今回の本だ。

この本ではペシミストたちの王、と言われているらしい「シオラン」さんの思想がまとめられている。

私は無気力な人間なりに「なんとか働きたい」と思うタイプの真面目系クズなので、正直この本は読み進めるのが辛かった。

先日読んだ「嫌われる勇気」や「7つの習慣」などの自己啓発本は、幸せに生きる方法が書いてあった。自身の定めた目的に沿って生きましょう、主体性を持って人に貢献しましょう。できないことも含めて自己を受容しましょう。

しかしもうこの本はとことん救いがない。

そんな主張が続き、「そこまで言わんくても…」と言いたくなるような鬱々とした内容だ。

生の利益に与し、わけても歴史の利益に与するならば、悪徳は最高度に有益なものとみえる。私たちがこの現世に宿営するかぎりーおびただしい意志がからみあい、卓越、優先への欲望がうごめく「直接のもの」の世界に住むかぎり、小さな悪徳は有効性において大きな美徳に勝るのである。
他人を侵害しなければ、同じ狙いを持つ人間を犠牲にしなければ、栄光を得ることはできない。

無能なりにも仕事を誠実にやって、それで少しでもチームや会社の人たちに貢献できればいいなと思っている私には、「成功するということは他者を蹴落とすということだ」というのは正直に言うと信じたくない。たとえそうであっても、俗物らしく人には褒めてもらいたいし自分なりの成果は出したいので、目を背けていたい。

一方で、シオランは無気力、怠惰であることを美徳と主張する面もある。

(これがまたややこしいが、ある本では美徳としていたり、ある本では批判していたりとしょっちゅう立場が変わるのだ。)

私たちに健全な部分があるとすれば、それはすべて私たちの怠け癖のたまものである。行為に移ることはせず、計画や意図を実行しようとしない無能力のおかげである。<美徳>を養ってくれるのは、実現の不可能性、あるいは実現の拒否だ。そして、全力を出し切ろうとする意志こそが、私たちを暴虐へ誘いこみ、錯乱へと駆り立てるのである。
人間は、無関心の能力を失えばいつ何どきでも殺人者となり、自分の観念を神に仕立てればその結果は測り知れない。

たとえば、自由な社会がベストと信じて疑わない人が、その人から見て不自由な社会を持つ集団に出会えば「もっと自由に生きろ!」

と言うだろう。でも自由を強制している時点でそれは支配であり、不自由な状態だ。

寛容が善だと信じて疑わない人が不寛容な(以下略

またこれも寛容を強制している時点で不寛容ということになる。

つまり本当に自由で寛容な社会では、自分のものであれ人のものであれ、価値観を絶対としてはいけないということになる。絶対に正しいことも、絶対的な成功もない。

たくさん働いてたくさんお金を稼ぐことが成功ではない。

素敵な人と結婚することが成功ではない。

無職でニートでも成功していないわけではない。

ある程度成熟した、自由で寛容なこの社会では、私たちの価値観は絶対ではないから。

これってとても怖いことです。正解がないわけですから。


人に薦めるか、と言われると否だけど、絶対的な価値観の怖さ、「自由」な世界の怖さなど色々学ぶことは多い本だった。

ただ私は自分が一生懸命やったことが人のためになることもあると思っていたいし、無気力で怠惰な人間なりに人に貢献出来ることがあると思いたい。

ちょっとこの本は私が読むには早すぎたのかもしれない…。

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