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自己愛の先に誠実さがあるとわきまえている

大学は授業の出入りが比較的自由なせいか、はたまた「フランスは待ち合わせ時間の15分後に行くのが礼儀」という余計な知識がついたせいか、提示された〆切に対して、なぜかその数日後(自分の塩梅で決まる)を「本当の〆切」と認識する厄介な習性がある。病院や友だちとの待ち合わせも同じで、だいたい時間の10~15分後に着く。言わずもがな普通に社不。改めたほうがいい。(いつも迷惑をかけている友人方、すみません。来年から改めます。)今回もスケジュール帳に「〆切」と「本当の〆切」と2つ書かれていて、その真ん中に走り書きで「けんとうをいのる」と書かれていた。過去の自分がおぞましい。この社不が。

とにかく(本当の)〆切が2日後にまで迫った1万6千字をどうにか納得のいくように形にしなければいけないが、全く進まない。〆切が近づけば近づくほど、脱線することは許されなくなる。だが集中力がいつまでも続くわけがないし、テーマ上、他人の文学性と向き合っているせいで、集中による体力消耗が激しい。下手をしたら残り2日は、実家で過ごす年末よりも苦しい年末になるんじゃないか。新しい年へのカウントダウンが、爆死までのカウントダウンになるなんて。教授から1月1日になった瞬間に「あけましておめでとうございます。ところで卒論は?」なんてLINEがきたらどうしよう。未来が鮮明に見えすぎる。最悪の年始だ。災厄。厄年かもしれない。いっそカウントダウンと共に自爆して何もかもなかったことにすれば.…。


文章を書いていると、筆が乗るほどに自分が内向きになっていくのを感じる。みんな二面性があるはずだから(あるよね?)当然と言えば当然だが。カフェに来てカップギリギリのラテを飲んでいた15分前のわたしと、飲み終わってnoteを書いている今のわたしには差がある。よく、映画を見終わったあと、現実に戻るのに時間がかかる人がいるが、あれも外と内の切り替えが関係しているんじゃないか。映画を見たり書いたりして、自分の内側に全神経を集中させてしまった結果、外側の感覚が鈍る。逆も然りで、何か外的な要因で落ち込んだら、とことん書く時間を作ると回復する。書きまくって内側がすっからかんになると、また外に意識がいくから。
(誰かといるときに書くことと、書いてる途中に内容を見られることが耐えられない理由もたぶんここにある。)

まぁ未だに片方が強制終了してしまうことはあるが、ある程度は自分の外と内をコントロールできる手段(意識を集中させるための手段)を学べたし、それを繰り返しトレーニングすることで再現性の確立が上がった。素直に良かったなと思う。ほかに持っていた書くこと以外の手段は、あまり褒められたものじゃなかったから。


こういうとき、誰かに話してみようと最後に思ったのはいつだったんだろうな。相談事に限らず、進路報告、人間関係の変化、など。自分の内面を直接人に話すことが、ここ何年かで格段に減った。代わりに探せば見つかるようなところで文字にしている。それは人に直接話すと、聞いてしまった相手はわたしを気遣って何かしらの反応をしなければいけなくなるが、わたしが一方的にこうして書いている分には、それがない、と思ったからだ。そしてこれはなんと、一人で黙って消化できないわたしの弱さまでをも補って(?)くれているのである。

だが、そんなのは後付けで、本当は「あー間違えたな」って思ったからだ。「もう無責任に噂されたくないし、知らないところで話題に上がりたくない。だから話さない」と思ったが、生々しい付き合いを避けるのは、誠実さを欠いた行為だ。わたしの完全なエゴなのもわかっている。「話せばよかった」と思うことと「話さなければよかった」と思うこと、どちらの後悔もして、どちらがより自分を傷つけるかを考えて、話さない方に賭けた。いつのまにか「大人ってみんなそうだろう」と思っていたんだけれど、どうやらそうでもなく、わたしが不義寄りの人間だということを今さら学習したりしている。

また話が逸れた。
卒論から脱線してnoteを書いているのに、noteの中ですら脱線していく。明確に書きたいことがあるから書くのではなくて、「書く」を目的に書いているせいだ。こんな風にわたしは放っておいてもそこそこ読むしそこそこ書くが、当然今はnoteなんかを書いている場合ではない。2023年が厄年になるどうかは卒論に懸かっているのだ。ここまで読んでくれた親愛なる皆様。一年お世話になりました。どうかわたしの健闘を祈った上で、よい年末を過ごしてください。   おしまい

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