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爪を塗る

 指先が綺麗だと気分がよくなる。だから塗る。そういう単純な動機で、難しい理由なんてないし、それこそ誰かの為に塗るわけではない。基本的にそう。違う人もいると思うけれど私は自分の為に塗りたい時に塗る。ジェルネイルではない。伸びたら爪切りで切って、一定期間が経つと除光液で全て落として、二、三日程置いてからまた塗ってみたり、しばらく爪を休めたりする。別にプロでもなんでもない。趣味で塗っている。自分の手にそれが似合うともさして思っていない。

 けれど先日、珍しく、自分の為以外に爪を塗った。数年ぶりに友人に会うからである。久しく会っていない友人と会う、という事柄と、爪を塗る、という行為のどこに因果関係があるんだと訊かれれば、それはさあ知らないですね、としかいえないけれど、とにかく爪を塗った。頭を掻き毟る程の不器用、というわけでは幸いないので、シンプルではあったがグラデーションを爪に施した。過去一番上手くいったといってもいいほどの出来であった。見せる相手が身内とその友人くらいしかいないのが残念なほどだ。

 当日、果たして彼女は、大変に褒めてくれた。彼女もシンプルなネイルをしていて、とてもよく似合っていた。この時点で爪を塗ってよかったと思った。相手が綺麗に塗っているのに自分はそのままなのはなんとなく嫌だ、と思う。もちろん義務でもなんでもない。

 帰宅してから爪を塗った写真をSNSに投稿した。特に深い意味はなかった。人に会うから、という簡単な理由を文章にして添えただけのものである。しばらくしてからその友人からコメントが来ていた。私の為にやってくれたんだね、と喜ぶ意を伝えるものである。

 彼女からのコメントを読んでから、ああたしかに、この爪は彼女の為に塗ったんだ、と実感した。私の自己満足であることには変わりないが、相手に己がしたことが伝わるとはこういう感覚なのか、という心持になる。爪だろうがなんだろうが、自分のために手間暇と時間をかけて身だしなみを整えてくれた、あるいはお洒落をしてくれた、というのは嬉しいものらしい。それだけで相手が喜ぶなら、なんてことはない、これからもそうするかあ、と思った。自分の為だけではなく、喜んでくれるならそれはそれでいいし、気付かなければ、気付かなかったというだけだ。

 彼女の為に施したグラデーションはそろそろ交替する頃合いかもしれない、と思いながら指先を眺める。何色も塗布していない爪の根元が露出してしまい、先端も伸びて切ってしまったし、見せる人がいないとはいえ少々不格好である。でも見せる人がいないならこのままでもいいか、とも思う。存外愛着がわいている。誰かが喜んでくれたものというだけで、消してしまうのを、惜しく思うのだ。

保高保

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