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東北汽車旅1982 ③

 青森から奥羽本線の列車で五能線の分岐駅川部へ。川部は五能線の分岐駅であり、黒石線(廃止)の分岐駅でもあった。本来ならこの黒石線にも乗りたいところだったが、時間的余裕がなく、五能線に乗り換えて五所川原へ。
 五所川原でいよいよ津軽鉄道に乗り換える。冬場なのでストーブ列車の走っている季節ではあったが、ストーブ列車に乗ることはできなかった。

津軽五所川原駅ホーム

 終点の津軽中里まで行き全線踏破。往きに降りたのか帰りに降りたのか記憶はないが、金木で途中下車している。
 太宰治の斜陽館を見るためだが、ここも外観の写真を撮るのみですぐに駅に戻る。当時の斜陽館は旅館を経営していたはずで、見学のみの入館はできなかったように思う。

金木駅の乗降風景
金木駅
斜陽館

 五能線に再び乗り弘前へ。
 弘前駅で発着する弘南鉄道弘南線、時間が許せば乗りたかった路線

弘南鉄道線 弘前駅

 この日の宿は弘前のユースホステルだ。駅からは混んでいるバスで向かった。確かそのバスは普通の路線バスだが、観光バス用の車両を使用していたように記憶している。
 ユースホステルでの記憶は、同宿者がペアレント(ユースホステルの主人)に何度も来ていろいろ知ってますよアピールしているのを思い出した。(笑)
 こういう宿に泊まる人は口数が少ない人(自分の旅を孤独に楽しんでいる)か、やたらうんちくや旅の思い出を語りたがる人(とにかく人と語りたい)に分かれるような気がする。中には自分の旅自慢ばかりして人の話を聞かない人も結構いる(笑)
 私自身はほとんど聞き役が多い。私としては口数の少ない人は、退屈と言えば退屈だけど、やたら語りたがる人も、私自身が知っているようなことを散々語られると大変つかれる。私の知らないこと、私が心から、え?本当ですかと驚くような話をしてくれるととても楽しいが(笑)

5日目
 この日は五能線全線踏破し、青森へ戻り帰途に就く。
 五能線は弘前から発車する。ディーゼル機関車が牽引する客車列車だ。朝の列車はかなり多くの乗客を乗せていた。車内に津軽弁が飛び交い、何を言ってるかあまりわからない。
 この列車で地元のおじさんに声をかけられ、横浜から来たと言うと結構驚いていた。
 最初に鯵ヶ沢で下車した。恐らく列車の停車時間を利用しての下車だろう。
 鯵ヶ沢と言えば舞の海のふるさと。まだこのころはまだ中学生。

鯵ヶ沢駅で(再掲)

 この辺りで日本海を生れてはじめて目の当たりにする。どんよりとした天気、荒れた海。まさに冬の日本海のイメージそのままだった。
 五能線の列車は、荒れた日本海を右車窓に映し出しながら長い長いゆっくりとした歩みを続ける。
 今でこそ、不老不死温泉や世界遺産白神山地で有名になっている五能線だが、当時は地元の利用者のほかは、汽車旅好きか本当に旅の好きな人しか乗っていなかったであろう。
 今、五能線は気動車が運行しているけれど、できれば機関車の引く客車列車で走ってもらいたい。

陸奥岩崎駅

 鈍行列車の長旅も東能代で終了。すぐに奥羽本線の列車で秋田へ向かう。
 秋田は祖父母の故郷ではあったが、初めての訪問。訪問と言っても、駅前をちょっとだけ歩いただけ。


 秋田からは特急電車で青森へと戻る。車窓風景はもう覚えていない。というより、秋田でもう夕暮れになり車窓はあっという間に暗闇になっていたはずだ。

秋田駅

6日目
 青森で夜行急行「十和田」の座席車で仙台へ向かう。夜行列車にはこの時点で3度目の乗車。初めて乗ったのは急行「ばんだい」の座席車、3度目でも夜行にはなれずほぼ一睡もせずに仙台に到着。
 駅舎の写真を撮る程度で常磐特急「ひたち」で平へ。平、現在のいわき駅だ。大したようもなく平らで降りたのは、周遊券の境が平だったからだろう。周遊区間を外れると特急利用は別に特急券が必要になるからだ。
 おそらく、ここで急行「ときわ」に乗り上野へ戻ったと思われる。もう全然記憶はない。

常磐線平駅 現在のいわき駅

 いまとなっては、こんな旅の仕方はできないしやらない。名所旧跡すっ飛ばして乗り鉄に徹するなんてことはできないし、体力もないだろう。この旅で何かおいしいものを食べた記憶もない。駅弁すら買ったような記憶がない。では、何を食べていたのか?おそらく駅そば、スーパーなどで買ったパンなどだろう。
 貧乏旅行だった。

おわり

※タイトル画像は津軽鉄道線 金木駅付近で