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箱根旧街道 東坂の石畳

文が長いですがご容赦ください。m(__)m

 箱根旧街道とは、1603年江戸に幕府を開いた徳川家康によって整備された、いわゆる五街道のひとつ東海道の小田原宿から箱根宿を経て三島宿までの区間のこと。
 現在は、そのルートをなぞるように、国道1号線が通っているが、箱根湯本から元箱根に至る道は、神奈川県道732号線がなぞっている。
 また、箱根峠から三島に至る国道1号線は傾斜を緩やかにするために多くのカーブがあるが、旧街道はこのカーブをショートカットするかのように通っている。
 「箱根八里は馬でも越すが…」の箱根八里は、この小田原ー箱根ー三島の約32kmの道のりを指す。
 東海道でも難所中の難所の山越えの道。最高所である箱根峠は標高830mを越す。
 また、箱根峠から小田原側を東坂、三島側を西坂とよぶ。

 五街道が整備されたころの箱根旧街道は、雨が降るとぬかるんで、大変歩きにくい道だったために、箱根竹を道に敷いていたという。
 しかし、それは毎年のように新しいものに敷き直さねばならず、労力と経費がかかり過ぎた。そこで、坂の部分は石を敷こうということになり、ここに箱根旧街道石畳が誕生した。1680年のことだという。
 当初、箱根の石畳は幕末に将軍家茂上洛の際に整備されたと思われていたが、のちに西坂の資料が発見され、1680年に整備されたということが分かった。
 小田原藩管理の東坂には記録が残っておらず、天領にある西坂の記録をもとに推測されてきた。

 現在、箱根旧街道(以後旧街道と表記)東坂はかなりの部分で車道に呑み込まれている。それでも昔の風情をそのまま残している部分もあり、絶好のハイキングコース(一部では登山といってもいいかもしれないが)となっている。
 私は2009年にこの旧街道を日を分けて全区間踏破した。
 踏破した印象としては、東海道一の難所と言われた箱根越えではあったが、足元の拵えこそ異なるが、ペースを間違えず歩けば難所難路と言われる様なものではなかったように思えた。
 勿論、現代では旧街道が崩壊したり車道に呑み込まれていたりするので、車道歩きや階段歩きなどになる部分もあるが、それにしても難路と言われるほどのものであったとは思えない。ましてや、移動手段は殆ど徒歩だった時代の人々は、現代人に比べれば健脚であったと想像に難くない。その人々が、足元が草鞋とはいえ、箱根越えは楽なものではないにしろ、大変な道のりとは思えないのだ。
 ただ、雨などが降れば石畳の道は滑りやすく歩きづらいし、平地と比べれば上り坂の連続は歩きにくいと言われても仕方ないが。
 つまり、箱根越えが難所といわれるのは、その道程そのものだけではなく、箱根関所の存在であったのだろう。通行手形がなければ、箱根を越えることはできないし、入鉄砲出女には特に厳しい取り締まりが行われたという。中には関所破りと言われる、関所を避けて越えた者もいたが、そうなるともう命がけだ。そんなことも含め、長く急な山道と厳しい関所の取り締まりから、箱根は街道一の難所とよばれたのであろう。

 東坂の石畳は湯本茶屋地区、割石坂、大澤坂、西海子(さいかち)坂、白水坂、天ケ石坂、権現坂、向坂などに残る。
 その中でも割石坂、大澤坂などは江戸期の石畳の姿をそのまま残しているといわれる。白水坂、天ヶ石坂あたりは、修復された部分、復元された部分、江戸期のままの部分と入り混じっているようだ。全体を見ると、修復されたり、復元されたりしている部分がかなりある。
 昭和になって史跡に指定され、散策路の整備が行われた際、石畳が修復されたり復元されたりしたらしい。
 また、女転ばし坂、橿木(かしのき)坂頂上付近、甘酒茶屋先には、地中に石畳が埋まっていることが確認されている。

湯本茶屋地区に残る馬の水飲み桶

女転ばし坂
 立場のあった須雲川集落の先にある女転ばし坂。馬上の女が落馬して転げ落ちて命を落としたところから名づけられたという坂。坂そのものは土中に埋まっているが、その坂上から県道下に沿って通る部分には道らしき痕跡と並木土手と思われる土盛りが確認できる。
 並木土手は杉並木を植える際に土盛りをして道より少し高くした土手だ。

樹林の中を左下から右上に伸びていた女転ばし坂
左下は造成されてだいぶ下に埋まっているらしい

割石坂
 女転ばし坂と畑宿の間にあり、その一部は江戸時代からの石畳を見ることができる。曽我兄弟が仇討の際、この辺りにあった大きな石で刀の試し切りをし、真っ二つにしたという伝説がある。石で試し切りしたら刃がいかれるだろうから、単なる伝説だろう。しかし、いかにしてこの伝説ができたのかには興味がわく。
 また、この坂のあたりには接待茶屋と呼ばれる、馬や旅人に無料で水や湯茶を提供する施設があったという。もともとは須雲川や畑宿に設置したかったらしいが、無料の施設だけに一般の茶屋などのある両集落には設置できずその間に作られたらしい。
 西坂においては山中一里塚のそばに1970年(昭和45年)まで営業していた接待茶屋があった。

割石坂の江戸期の石畳

大澤坂
 畑宿の手前、沢に下った旧街道が沢を渡り、上りになった部分が大澤坂で江戸期の石畳を残し、石組み構造などが見られる。

江戸期からの大澤坂の石畳

 大澤坂を上り切れば相の宿である畑宿。箱根細工で知られたところ。ここを過ぎれば畑宿一里塚。復元された一里塚から石畳が再び始まる。
 その先に、宙づり東海道と呼ばれる、箱根新道を橋で越える石畳道となる。箱根新道を作る際に、切通し状に山が崩されて、橋を通して旧街道をつなげたということだろう。ゆえに、本来のルートとは多少異なると思われる。

復元された畑宿一里塚

西海子(さいかち)坂
 宙づり東海道を渡れば西海子坂。ここで注目すべきは斜め排水路。旧街道は谷側から並木土手、排水路、石畳、山側の土手ということになるが、降雨の際、石畳の上部から流れてきた雨水を並木土手を削ってそこから谷側へ雨水を流すための設備。前述の大澤坂にも存在するが、目立たないので見過ごすことが多いが、西海子坂はわかりやすい。

西海子坂の斜め排水路 街道に対し斜めに敷かれた石と、切り崩されている並木土手

橿木(かしのき)坂
 西海子坂から橿木坂の急登になるが、坂は崩壊し残っていないが、坂の頂部分の地中に石畳が確認されている。その地点から猿滑坂にかけても、地震などで崩壊した部分がかなりあり、現在の石畳は新たに設置されたものが多いらしい。

猿滑坂
 サルも滑り落ちるほどの急坂という意味だろう。東海道分限延絵図には猿カヘシと書かれている。このことは以前も書いたが、実はこの猿とは小田原攻めの際の豊臣秀吉のことではないのかと勝手に思っている。(笑)
 急坂(当時から踏み跡程度の道があったのかどうかはわからないが)過ぎて兵士を進めることができず引き返した場所ということではなかったのか?この先にある白水坂(城見ず)よりは退却せざるを得ないと思われる地形だ。いずれにせよ、秀吉は反対側の尾根に移動し、石垣山一夜城を築いて、小田原城を攻め落としたのだが。

甘酒茶屋
 猿滑坂を上り切り追込坂を過ぎれば笈ヶ平の小さな平地になり、ちょうど一息つきたいところに甘酒茶屋がある。甘酒小屋と呼ばれた茶屋は旧街道に十三か所もあったという。江戸期から現在まで営業が続いているのはこの一軒だけだ。甘酒と磯辺などがうまい。
 茶屋の裏手に石畳道があるが、新たに設置されたもので、旧街道は茶屋の前を通っている。

旧街道に江戸時代から残る唯一の甘酒茶屋

白水坂・天ヶ石坂
 急な石畳の坂が続く。排水溝側の石畳の縁が整えられていることが明確にわかる。このあたりの坂は、復元、修復、江戸期のものなどが入り混じっているようだ。
 白水坂は秀吉が小田原城を見ずに引き返した坂といわれている。城見ずが、白水になったという。これも以前書いたが、白い硫黄の水が出ていたのではないかと勝手に思っている。
 天ヶ石坂頂上あたりから、石畳の二重構造が見られる。上側が昭和に復元されたもので、下敷きになっているのが江戸期のものであろう。

白水坂
石畳の二重構造 下が江戸期のもので上が昭和に整備されたものだろう

権現坂
 この急な下りの石畳も新たに敷きなおされたものだろう。
 坂の下部から江戸期からの大木の杉並木が始まる。
 以前は旧街道沿いに400本以上の杉があったが、現在では400を切る数に減っているという。

 旧街道の杉並木はドンキン地区(元箱根)、吾妻嶽地区、新谷町地区(関所手前)、向坂地区(芦川から先)に存在するが、かつては、旧街道のほかの場所にもあったという。
 箱根町などでは、旧街道の保存と共に杉並木の保全にも力を入れているおかげで、なんとか400本近い杉の大木を残すことができている。

吾妻嶽地区の杉並木

箱根関所
 新谷地区の杉並木を抜けると箱根関所。箱根越え難所の理由の一つがこの関所の存在だろう。
 江川文庫(伊豆韮山代官だった江川家の文庫。パン祖や反射炉で知られた江川英龍の家)から関所の詳細の資料が発見され、以前に復元されていた関所の建物を解体し、正確な関所の復元を果たした。

箱根宿
 箱根宿は、小田原と三島から人を移住させて新たに作った宿場町。その名残で字に小田原町三島町という地名が残っている。
 残念ながら宿場風情旧街道風情はみじんも感じない。

向坂
 箱根宿から芦川集落に入るとすぐに向坂の石畳となる。
 少ないながらも上り坂の途中に杉並木が残る。

箱根峠
 いくつかの坂を上り切ると、国道一号線に飛び出す。ここから箱根峠へは歩道のない国道を歩き、交通量の多い横断歩道もない箱根新道を渡り、鞍掛ゴルフ場への道へ入る。
 その途中に旧街道の箱根峠があったのではないだろうか。江戸期には伊豆と相模の境木があったという。
 駒ヶ岳、芦ノ湖や富士山の望める展望の良いところ。
 ここから先は東坂よりは緩やかに下る西坂になる。

西坂
 西坂には旧街道の記録がかなり残っているという。
 西坂の中ほどまで行くと、道幅も広くきれいに復元整備されている。土中にあったものを掘り出し、石畳の石一つ一つにナンバーを振り、いったんその石を取り出し、地盤をしっかり固めた上にもとにあった場所に石を敷きなおしたという。旧街道わきにそのことを説明した案内板が設置され、石畳保存に力を入れていることがわかる。
 東坂にもこういった詳細の案内板が欲しいところだ。
 また石橋も残っており、江戸期の街道の貴重な遺産となっている。

箱根竹のトンネルを通る西坂
西坂に残る石畳と石橋

 無理すれば小田原から箱根を経て三島まで一日で歩くことは可能だが、やはり、箱根で一泊するなり、日を改めて歩くなりした方がいいだろう。
 加えて、ただぼうっと歩くのではなく、土中に埋もれて見えない旧街道の位置や様子を想像したりしながら歩くのも楽しい。ゆえにゆっくりと3日くらいに分けて歩くのがよいのではないかと思う。

※ここに記述したことは故意に誤った情報を載せてはいませんが、誤りのある可能性はあるので、そのあたりはご容赦ねがいます。
また、下にガイドマップをリンクさせていますが、情報が少々古いのと、私自身の思い込みや誤りなどもあるかもしれないので、あくまで参考程度ということでご覧ください。
申し訳ありませんが誤りにおける不利益の保証等は致しかねますのでよろしくお願いします。
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