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上高地トンネルを抜けて少々進めば正面に大正池と穂高連峰。その偉容を見て心を動かさない人はまずいないだろう。 現代と、1970年の穂高連峰の比較。緑に覆われている部分が多少違うだろうけれど、半世紀たってもそう変るもではないだろう。 1970年時は、マイカー規制はなく、上高地バスターミナルにある駐車場までマイカーで入ることができた。下記の写真はバスターミナルでバスと一般車が一緒に写り込んでいる。 その後、マイカー規制は繁忙期のみ規制され、やがて通年規制されるようになっ
上高地旅行は一泊二日で、初日は沢渡から直進する道を通って白骨温泉へ向かったと思われる。当時は、右折して沢渡橋を渡るルートが、上高地高山方面への国道158号線で、直進するとさらに山峡深い白骨温泉へと向かう道だった。 白骨温泉では最も奥に位置する斉藤旅館に泊まった。そこでの記憶はひとつ、川の水音がうるさくて眠れなかったということだけ。 この白骨への道はやはり難路で、一番の難路部分が温泉のバス停の少し手前にあるヘアピンカーブだった。 母が語るには、前をバスが走っていて、ヘ
島々駅跡から島々宿方面へと向かう。 その途中にあるのが東京電力竜島発電所。この写真を撮った前年に稼働したらしい、当時はできたばかりの発電所。右下に見える建物は東京発電の竜島第二発電所で、こちらの歴史は相当古いらしい。東京電力と、東京発電、なんかややこしい。 そして下の写真が最近のもの。基本、そんなに変わらない。 松本電鉄は、この発電所の先辺りまで路線を伸ばす計画もあったらしい。島々駅とは名ばかりで、実際は波田町(現松本市)前渕にあって、島々そのものは3キロ先にある
沢渡(さわんど)、マイカーで上高地を訪れる人はここに車を止めシャトルバスで上高地に入ることになる。この辺りにはあちこちに駐車場がある。 沢渡集落に入ると、1970年時は白骨温泉は直進(現在も白骨は直進)、上高地方面への国道158号線は右折して沢渡橋を渡り梓川左岸に沿う。 現在の国道は直進して沢渡を抜ける。 下の写真の道路案内板は右は上高地、直進は白骨と書かれている。 梓川を渡る国道158号の沢渡橋。渡り切ったら左へ向かうと上高地、高山方面。 現在はこの写真の正面
私が初めて上高地を訪れたのは1970年。小学校低学年の夏休み。だから、もうほとんど記憶がない。あるのは数少ない写真のみ。 マイカーによる家族旅行だった。マイカーと言っても商売をやっていたので、ライトバンだった。それでも父親は、神奈川の地から上高地まで延々と一般道を走って家族を上高地へ連れて行ってくれた。 当時は中央道はまだ河口湖方面へのルートしかなかったから、相模湖からは延々と国道20号線を走り続けた。 1970年撮影の写真のほとんどは父が撮影したものと思われる。
タイトル写真は岳沢から見下ろす上高地。遠方に乗鞍岳が見えている。 タイトル写真を含め撮影は1990年代、フィルムカメラによる。 下記の文章も1990年代に登った際の話。 上高地から岳沢ヒュッテまで登った。そこから先は、私には手に負えない急登が続くから、ヒュッテまでの往復。 上りの途中、見知った人に出会った。 といっても、私が勝手に見知っているだけ。山岳雑誌でその人の顔を見知っていた。ヒュッテの主人だった。 2時間ほどの上りだったと記憶している。 ヒュッテの小屋番
タイトル画像は1990年代に歩いた横尾ー明神間の道。 閉山直前という晩秋の道を横尾から上高地への帰途、行き交う人はほとんどいない。時折、大きなザックを背負った人が私を後ろから追い抜いていくだけ。本当に静かな季節だった。 とても気持ち良いのだが、写真の場所から上高地までは歩いて2時間半はかかる。人の少なさが少しばかり心細さにもつながった。 当時は熊出没情報もほとんど聞かなかったが、昨今は上高地にもクマが出ると言う。人の少ない時期に歩くには勇気がいるようになったかもし
上高地の散策路を歩いていると、二人以上で歩いている人の多くは、上高地の自然とは無関係の他愛ない話をしている。周囲の風景はただの背景でしかないよな感じで、上高地は大正池と梓川と河童橋と穂高連峰を見ればあとはおまけと思っているような人が多い気がする。 また、登山者もわき目もふらずに淡々と奥へ奥へと歩みを進める。 もちろん、周囲の風景にも興味を持ちゆっくりと静かに歩いている人もいる。 木を見て歩くのも楽しいのではないだろうか。 もっと、わき見をしよう。
上高地の奥、槍沢から流れ出した梓川は安曇野で高瀬川と合流し犀川となる。犀川は千曲川に流れ込み、千曲川は越後に入って信濃川と名前を変えて日本海へと注ぐ。