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『巨人の肩』をめぐるシャルトルのベルナールへのはるかなる旅


もうだいぶ昔の話ですが、「巨人の肩に乗る矮人は、 巨人よりも遠くを見る」という格言について、某媒体に、この格言のオリジナルは夭折したローマの詩人マルク ス・ルカヌス(A.D. 39-65)であると述べました。ところがその後、タイトルもずばり ON THE SHOULDERS OF GIANTS という本を買ってみたところ、そうではないこ とがわかったのです。訂正&お詫びの意味をかねて、以下に、「巨人の肩」のオリジナルはどこかをめぐる旅について書きたいと思います。旅の最後は(この記事のタイトルにあるように)シャルトルのベルナールにたどりつくのですが、そのベルナールの言葉は、かなり感動的なものでした(わたしにとって、そしておそらく古今の多くの人にとって)。紆余曲折の、少々長い旅になりますが、おつきあいいただけるなら嬉しいです。

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その本は、上にリンクした、米国の社会学者ロバート・マートンによるものです。以下では、基本的にはこの本の記述に従いつつ、一応わたしの守備範囲であるニュートンに関する話題などは適宜他のソースからの情報もまじえて(そのつど細かく資料を示すことはないかもしれませんが)書いていきます。

■ 前口上 ―― トリストラム・シャンディ~ウンベルト・エーコ 

さて、ON THE SHOULDERS…の著者ロバート・マートン(1910- )は米国の社会学者で、科学の社会学的分析の祖とされる人物。著書に『社会理論と 社会構造』(1949)、『科学の社会学』(1973)などがあります。

マートンのON THE SHOULDERS…という本は、全体としては、創造性とは、伝統の受容と拒絶、 剽窃、知識の伝達、進歩とは何かといった根元的問題を扱ったものらしく、 なにやら含蓄が深いんですが、ぱっと見たところは、蘊蓄おじさんの面白本といった感じです。 執筆のスタイルは、Shandean、つまりシャンディ風ということなのですが、わたし同様「シャンディって何?」という方のために、トリストラム・シャンデ ィについてひとこと書いておきますね。

『トリストラム・シャンディ』は、ロレンス・スターン(1713-68)という人物の著作で、日本には夏目漱石によってはじめて紹介されたのだそうです。岩波文庫『トリストラム・シャンディ』の訳者まえがきから、漱石の手になる紹介文の冒頭をご紹介いたしましょう。


また、作品自体については次のようにあります。(by訳者朱牟田夏雄氏)

さて、いよいよこの作品であるが、前にもいった通り、これ が英文学の中でも、いや、世界文学全体に範囲を広げてみて も、屈指の型破りの作であることは天下に名高い。パラパラ とめくってみただけでも、真っ黒に塗りつぶしたページがあ る、逆に真っ白な空白のページもある、極彩色のマーブル・ ペーパーというページもある(この翻訳では近年の英米の多 くの版にならって黒白にしてあるが)、妙な不規則な線が四、 五本ならべて描いてあるから何だろうと思うと(この版では 中巻の末尾)、第一巻から第五巻までの進行の工合を図にし たものだとの説明がついている。……p.11

というわけで、シャンディ風だというロバート・マートンの ON THE SHOULDERS… 、翻訳者にとってはなかなか興味深い話題でもあり(Bartlett's Familiar Quotations が深く関わってくるんです!)、本筋と思われる線に焦点を絞って書かせていただき ます。

ところでこの本には、ウンベルト・エーコ(これまた蘊蓄おじさんw )が序 文を寄せておりまして、そのタイトルがいきなりラテン語。
DICEBAT BERNARDUS CARNOTENSIS (1)

とにかくこの人たち(エーコ、マートン)、ラテン語を平気で(このぐらい読めて当たり前、という感じで)文中に使うんですよねぇ。うう。でも、これぐらい読めずにどうする、と自分を励ましてとりあえず読みますと、「ベルナルドゥス・カルノテンシスは言った」となりまし ょう。で、ベルナルドゥス・カルノテンシスって誰? という話になるのですが、たぶんこれはシャルトルのベルナールでしょう。なぜなら、シ ャルトルはローマ時代にはケルト人カルヌテス族 Carnutes の中心集落があったところで、シャルトルという名称はこの部族名に由来するからなのです。

ウーリポやマダム・ブラヴァツキー、ジャック・ル・ゴフなどが顔を出すウン ベルト・エーコの序文にこれ以上深入りするつもりはありませんが、エーコは次のように述べています。

私が驚かされたのは、マートンがこの格言の歴史をニュートンから 辿りはじめていることだった。それというのも、多少とも中世ヨー ロッパをかじったことのある人間なら、alea jacta est や Eppur si muoveと同程度には巨人の肩の格言を知っているはずだし、すぐ さまシャルトルのベルナールを思い浮かべるはずだからである。

ちなみに、alea jacta estが「賽は投げられた」、Eppur si muove は「それでもそれ(地球)は動く」ですね。

ちなみに、前者はラテン語、後者はイタリア語。両方とも、本人(カエサル、ガリレオ)が言ったわけではない、たぶん。

要するに、エーコに言わせると、巨人の肩といえばシャルトルのベルナールを思い浮かべるはずなのに、どうしてマートンはニュートンなんぞから説き起こしたりするのか? というわけです。これには驚きました。理系人の常識としては、「巨人の肩」といえばニュートンだと思いますが、もっと広く教養人一般(すくなくともウンベルト・エーコ)にとっては、「巨人の肩」といえばシャルトルのベルナールなのですね…..(そうなんですか?>みなさま(笑))

■ Democritus Junior の立場

さて、Democritus Junior の立場から紹介しましょう。「それ、誰?」と思われるかもしれませんが、これは Anatomy of Melancholy(1621) の著者であるロバート・バートン(1577-1640)の筆名であります。そして「巨人の肩」の格言の由来ということでは、このロバート・バートンがきわめて重要な役割を果たすことになるのです。というのもバートンは、 というか Democritus Junior は、Anatomy of Melancholy の前口上で、この格言の出所を
Didacus Stella (in Luc.10, tom.2) (2)

に求めているからなのです。それ以来、ちっとはモノを知っている人は(マートンによれば Everybody knows (--;))、この Didacus Stella (in Luc.10, tom.2)が 「巨人の肩」の初出であると思い、またそのように書いてきたらしいのです。 もちろん、わたしなどはここで「Didacus Stella って誰?」と思うわけですが、 この問題を追求する前に、デモクリトス・ジュニアつまりロバート・バートンは、いったいどういうつもりでこの格言に言及したのかという点をざっと見ておきましょう。

興味深いのは、Anatomy の初版には Didacus Stella のことも、「巨人の肩」 の格言のことも、一言も触れられていなかったということです。ところが、初版から三年後(1624)に現れた第二版には載っている。ロバート・バートンはいったい何が言いたくて、あえてこの格言を付け加えることにしたのでありましょうか?

まずバートンは、
Pigmei Gigantum humeris imposite plusquam ipsi Gigantes vident. (3)
というラテン語の文を載せ、さらにこれを次のように英訳しています。
A dwarf standing on the shoulders of a giant may see farther than a giants himselves. (4)

そしてそれに続けて、バートンはこう述べているのです。
I may likely add, alter, and see farther than my predecessors. (5)

つまりバートンは、「矮人といえども巨人の肩の上に立つ身であってみれ ば、巨人よりもいろいろ見えてくるものもあります。そこで私としても、付け加えたり、手を加えたり、まあ、先人たちより遠くを見ることもありましょう」 というようなことを言っているわけです。要するに、知の蓄積の上に立つこと のメリットを、謙虚さをまぶしながら率直に述べているんですね。これはシャルトル派のスタンスとも相通ずるものです。古典に学ぶ謙虚さ、そして中世知識人の気概……。

しかし、ロバート・バートンはなにもその立派なスタンスを示すために、わざ わざこの格言を持ち出したわけではありません。もっと現実的な必要性があったのです。それは、「剽窃」をめぐる問題です。長くなるので引用はしません が、ロバート・バートンは自分が他人のふんどしだけで勝負しているのではないと述べたのち、慎重に(3)のラテン語に話をつなげているのです。

つまりマートンによれば、ロバート・バートンが第二版でこの長々しい話を持ち出したのは、

Burton was calling upon Didacus Stella as an impartial expert witness to testify that he, Burton, was neither plagiarist nor mere compiler; that he was, instead, standing upon the shoulders of his predecessors to see much farther than they and that this was a practice long since hallowed by the Aphorism.

だったから、ということになります。こうなると、その重要な役割を与えられ た Didacus Stella とは何者か、ということにますます興味をそそられますね!

■ ニュートンは何と言ったか

ところで、ニュートンはいったいどのように言ったのでしょう。ラテン語で言ったのでしょうか? ロバート・バートン訳の英語でしょうか? 実はニュー トンはこう言ったのでありました。
If I have seen further it is by standing on
ye shoulders of Giants. (6)

ニュートンに関する本をあれこれ読むと、このセリフについてもいろいろなことが言われているのがわかります。「ニュートンにしては謙虚なセリフだ」とか、「自分を dwarf と言わないところはさすがニュートンだ」とか……。また、 a giant ではなく、Giants になっている点も見逃せません。さらには、ロバ ート・フックは(ニュートンのこのセンテンスは、宿敵ロバート・フックに宛 てた手紙の一部なのです)たしか子供の頃の病気のせいだったかで身長が低か ったことから、「ほんと、ニュートンってやなヤツ!」とか……。(この記事の冒頭の画像に、わたしが持っている版のマートンの本から、ニュートンの手紙の写真を掲げました。)

それはともあれ、この文を見て思うのは、「手紙の相手は本歌を知っていることが仮定されているな」ということです。当時はそれぐらい本歌が広く知られていた、と見ることもできましょうが、ニュートンがフックに対し、「ご教養 あるあなたのことですから、これぐらいはご存じですよね」とふっかけたのかもしれないです。なんだか、平安時代の殿上人や女房たちの駆け引きみたいですがw

とにかく、「巨人の肩」といえばニュートンと言われますが、ニュートン自身 は、「巨人の肩」の格言を自分のオリジナルとみせかける(剽窃する)つもりもなければ、その必要もなかったことは明らかです。マートンによれば、今日この格言がニュートンに結びつけられるのは、多分にニュートン追随者たちの宣伝のせいなんだそうです。

■ シャルトルのベルナールは何と言ったか

こうなると俄然気になってくるのは、シャルトルのベルナールは何と言ったかです。大量にあったらしい彼の著作は失われ、弟子にあたるソールズベリーのジョン(彼の人生も波瀾万丈のようですね)によって伝えられたものがすべてなんだそうです。で、そのソールズベリーのジョンによりますと、

Dicebat Bernardus Carnotensis nos esse quasi nanos gigantium humeris insidentes, ut possimus plura eis et remotiora videre, non utique proprii visus acumine, aut eminentia corporis, sed quia in altum subvehimur et extollimur magnitudine gigantea.
(7)

え~、マートンにはこれの英訳はありませんでw、いきなり中身の(とい うかスタイルのもつ力みたいな)議論に入ります。それでしかたなく、泣きな がら辞書を引いてだいたいの感じを訳しますと、

ベルナルドゥス・カルノテンシスが言ったことには、われわれは巨人の(両)肩の上に乗っているようなもので、それゆえ多くを見、また遠くまで見ることができるが、それは自分が優れているからでも、身体が大きいからでもなく、われわ れを支え、高く持ち上げてくれる巨人のおかげなのである。

まあだいたいこんなことか、と内容を把握した上でもういちどラテン語をじっくり読んでみたわたしは、なんだかジーンと感動してしまいました。シャルトルのベルナールは、自分の立場に感謝している、それは巨人のおかげなのだと心からありがたく思っているのだなぁ~~と。それと同時に、ううむ、これはやはり本歌かもしれないと思ったのでありました。(ラテン語読める人、ぜひ読んでみて! いまこそ、ラテン語読める恩恵を味わってください!!)

しかし、わたしがどう思ったかはともかく、マートンがどう考えたかをみなさんはお知りになりたいでしょう。わたしも知りたいと思いました。で、マートンが自分の考えを述べるのは、百三十ページほど「脱線」しまくった挙げ句の ことなのであります(^^;)。その力強い発言を読んでやってください。「ここまで strong なことを言うなんて、学者らしくないと批判されるのは承知だ」 とマートンは述べつつ、

Bernard stands alone, for it was he, and none other, who originated the simile of the giants and dwarfs. All others who make use of the figure -- whether in the twelfth century, the thirteenth and fourteenth, -- all these had it from Bernard, either directly or through mediating hands.

マートンが英訳をつけないのには、深い理由があったのです! そんなことはできない、と。sit にするのか、stand にするのかひとつをとっても、事は重大なのだ、と。あわわ、わたしは浅薄な心でとんでもない日本語を書いてしまいましたが(座るか立つか、という問題は避けてますが ^^;)、どうぞご容赦くださいm(..)m

■ Diducus Stella って何者?、

ここに至って、みなさんもぎょっとなさっているのではないでしょうか? そ うです。じゃあDidacus Stella はどうなるの? 復習すると、Diducus Stella はこう言ったのでした。

Pigmei Gigantum humeris imposite plusquam ipsi Gigantes vident.

(3)
それに対して、シャルトルのベルナールの出だしは、
nos esse quasi nanos digantium humeris insidentes (7)'

insidentesをどう訳すかというのは大きな問題にな るのですが、残念ながらパスします。ただ、当時の用法としても、肩の上に座っているのか、立っているのかは自明ではなく、シャルトル大聖堂のステンドグラスは座っている(肩車)けど、バンベルクの大聖堂の彫刻は立っています。マートンが言う通り、 大胆な矮人は立つだろうし、慎重な矮人は座るだろ う、ということになりましょう。

いったいこれはどういうことなのか? Didacus Stella はいつの時代の何者 なのか? シャルトルのベルナールとの関係は?

実はマートンは、はじめてロバート・バートンの
Didacus Stella (in Luc.10, tom.2) (2)

を見たとき、????でした。いったいこの Luc は Lucretius か Lucullus か、はたまた Lucilius か Lucretia か、それともLuke、Lucan、Lucian .... それとも光(lux)について書かれた論考のことか? もしかしたら薫製ソーセ ージ(Lucanica)に関する論考かも……

そして、こういうときはまず Bartlett's、とばかり Bartlett's Familliar Quatations をめくってみたバートンは、そこに次なる記述を見出したのです。

Didacus Stella in Lucan 10, Tom. II. (8)

な、なんと、Lucan だったのか! もしもこのときマートンが Bartlett's をめくっていなければ、 つまり(2)だけしか知らなかったならば、話はそれほど長くはならなかったでしょう。というのも、マートンの師であり友人でもあったジョージ・サートン (1884-1956、ベルギー生まれの米国の科学史家; 科学史学の先駆)も書いて いるように(そのことにマートンは早晩気づいたはず)、Didacus Stella とは、1524年にスペイン北部の町エステラに生まれ、1578年にサラマンカで死んだ釈義学者(exegetist) Diego de Estella のことだからです。そこから辿って話はオシマイです。

しかし Bartlett's (第11版)をめくってしまったマートンは、そこに(8)を見 つけて感激します。Lucan とくれば、これはマルクス・ルカヌス。なるほど 夭折したローマの天才詩人にして、中世の、そして十七世紀の知識人たちに 大いに尊敬されていた人物が絡んでくるのは、いかにもありそうな話です。 つまり、Didacus Stella はルカヌスファンの一人だったのだ、と。

とはいえ、ここでひとつ疑問が浮かびます。ロバート・バートンが書いた Luc を Lucan に拡張した功績は、ジョン・バートレットその人のものなのか? そ れとも11版の編集者であったクリストファー・モーレーとルーエラ・D・エヴ ェレットなのか? それで調べてみたところ、この引用を発見したのはジョン・ バートレットその人であること、それも、この項目が現れるまでには初版から 三十六年後の第9版まで待たなければならなかったことがわかったのです。

9th edition: Didacus Stella in Lucan 10, tom. ii
10th edition: 〃
11th edition: 〃 Tom. ii
12th edition: 〃


かくして Bartlett's は、Luc って何、という謎にある程度まで答えを与え、 マートンを含む多くの知識人をルカヌスへと導いたのでありました。しかしそ れでもなお疑問は残ります。

(ア) ルカヌスに関する本のなかで、
Didacus Stella 自身が例の格言を使っ たのか。

(イ) Didacus Stella は、ルカヌスが使った格言を
引用しただけなのか。

これは重大な局面です。なぜなら、もしも(イ)だとすると、「巨人の肩」 のルーツはシャルトルのベルナールから、一挙に千年以上も過去にさかのぼ ることになるからです! そうだとすると、十巻もあるルカヌスの『内乱賦』 のどこかに巨人の肩のオリジナルがあるはずです。

そして、ここでまたしても Bartlett's が重要な情報を与えてくれることに なりました。 Bartlett's の 13th edition の記述は、次のように改訂され ていたのです。

DIDACUS STELLA in LUCAN [A.D.39-65]:(De Bello Civil, 10, II)

つまり Bartlett's は Lucan だけではわからない人もいるだろうと、親切に も生没年まで付け加えてくれた上に、ルカヌスの主著名まで具体的に挙げ、 第十巻の二章にあるとまで教えてくれているのです。学者として、この快挙 にはなんと感謝してよいやら!(と、マートンは喜びます。)

で、さっそくマートンが『内乱賦』に当たってみたところ……な、なんと!
Bartlett'sは(結果的に)偽の出典を
捏造していたことが判明したのです!


事実は、1 ルカヌスの『内乱賦』には巨人の肩のことなどカケラもない
      2 Didacus Stella はルカヌスのことなど一行も書いていない


結論を言えば、バートンの Didacus Stella in Luc.の Luc は、異教徒の詩人 ルカヌスではなく、ルカヌスとほぼ同時代人であった聖ルカのことだったので す!!

■ Didacus Stella は何と言ったか

バートンが引用したのは、Didacus Stella の著書 In sacrosanctum Jesu Christi Domini nostri Evangelium sacumdum Lucam Enarrationum の第二巻 第十章でした。

これまで「巨人の肩」が誰にどのように引用されたかを丹念に調べてきたマー トンだから言えることですが、ロバート・バートンが引用した「巨人の肩」の 原典に当たってみた人は、十七世紀から今日まで、サートンやコワレ(1882- 1964、ロシア生まれのフランスの哲学者。哲学史と科学史の相関に注目し、独 自の認識論を展開した)をはじめ、ただのひとりもいなかったということにな ります。マートンはここにはじめて、巨人たち(コワレ、サートン……)の肩によじ登り、人口に膾炙したロバート・バートンの引用の原点を目にしたのでありました。

そこで彼が見たものは、な、なんと!

ロバート・バートンは文脈を無視したばかりか
引用自体も厳密ではなかった!


という衝撃的な事実でした。まず文脈という点で言いますと、Didacus Stella は、最高にしてもっとも包括的な知として古代の知を唱道する人々に「反対する立場」から、

Far be it from me to condemn what so many and so great wiseman and learnd men have affirmed; nevertheless, we know it well, that...[follows then the Aphorism]

わたしは多くの賢人や学識ある人々が言っていることを非難するつもりはさらさらないが、しかしよく知られて いるように、[巨人の肩の格言]


これでは、「古代の賢人たちのおかげです」というシャルトルのベルナールの感謝の心とはまるで反対ではありませんか! で、実際のところ、 Didacus Stella はどう言っていたのか。こう言っていたのだそうです。

Pygmaeos giga~tum humeris impositos, pluquam ipsos gigantes videre.
(9)
l注;Pygmaeos の ae は一字
~は直前の母音の上につく

比較のために、もういちどロバート・バートンのラテン語を見てみましょう。
Pigmei Gigantum humeris imposite plusquam ipsi Gigantes vident.
(3)

じつはわたしは最初、16世紀スペインのサラマンカの人ディダクス・ステラは当時のスペイン語で書いたのかと思いましたが、ラテン語の専門家に教えていたいただいたところによると、これは引用文であることから生じる対格が使われていることと、当時よく使われていた省略形があることを別にすれば、ラテン語そのものだそうです。かくして呪縛は解けた、ということになります。が、それにしても十七世紀からマートンまで、み~~んなロバート・バートンの孫引きで済ましていた (原典に当たらなかった)というのは、翻訳者としてはほっとすべきか、ぎょっとすべきか….

■ Bartlett's の後始末

さて、すでにお手元の Bartlett's を引いてみられた方もおいででしょう。わ たしの版(第16版)の Robert Burton の項には、 See Newton との注があり、 Sir Issac Newton の項には、See Robert Burton とあったうえで、

On the history and the pseudo-history of this celebrated aphorism see Robert K. Merton, On the Shoulders of Giants (1965)

とありますが、ご確認いただけたでしょうか。

そう、ご推察の通り、わたしがマートンの On the Shoulders of Giants を入 手しようと思ったのは、この Bartlett's の脚注のおかげだったのであります。 わたしは Bartlett's のおかげで楽しい旅をすることができました。しかし、 わたしがかつて勘違いしていたように、「巨人の肩」の格言のルーツはマルク ス・ルカヌスにさかのぼると思っている人も世界中にはたくさんいるにちがいありません(現にわたしはそうした記述の一つを読んで、そう思い込んだのですから)。そしてその誤解の元を作ったのが Bartlett's だということに弁解の余地はないでしょう。

旅もいよいよ終わりとなりました。これまで「巨人の肩」をめぐって脱線に脱 線を重ねてまいりましたが、すべてをまとめる一言となれば、やはりこれを置 いてほかにないでしょう。
DICEBAT BERNARDUS CARNOTENSIS (1)

(近々、短い続編を書きます。シャルトルのベルナールは誰の肩の上にのっていたのか、です。)

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