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筋肉少女帯活動凍結前最後の曲から見えるオーケンの当時の心理状況

筋肉少女帯の「ペテン」という楽曲は、筋肉少女帯の1999年の活動凍結前の最後のアルバム、「最後の聖戦」の最後に収録された曲だ。今でこそ筋肉少女帯はまた活動しているが、この時はまさにこれがラストだったわけで、この曲はまた重要な位置にあったと思うのだ。
だから、この曲の歌詞を僕的に解釈してみたい。といっても一部だけだけどね。もしかしたらいつもと違っって真面目な文章になっちゃうかもしんないけど、ゴメンね。
まずこの曲は、「もう十分に君は苦しんだ 今から楽しめよ開放の鐘だ」
と始まるのだが、この時オーケンは「筋肉少女帯としてこの5人でやっていくのは限界」と感じていたらしいので、やっとアルバムの最後の曲まで行き着いた!やっと開放されて好きに出来るぞ!と感じていたのではないだろうか?その喜びが「今から楽しめよ開放の鐘だ…..」という歌詞となり、これから新バンド「特撮」ガンバるぞ!という決意も露わにした歌詞なんだろう。「もう十分に君は苦しんだ」は、オーケンがネットの騒動などで苦しんでいた当時の自分の状況を考え、自分で自分を上から目線で見上げ、「もう十分に君は苦しんだんだヨ……..」と自分に言い聞かせていた。だから、その言葉を曲の最初に持ってきた……..っちゅー訳だ……ってただの僕の空想だけど。
そして、次に解釈する歌詞は「あのね、わかる?死んじゃったと思ってた?以外とタフなんだ」
これは、正直言って僕の頭脳では中々よく分からなかったのと、僕のこの解釈と上手く結びつかなかったので…..いや、この部分よりもっと結びつかない部分もあったりして、そこの解釈はもう諦めて書いてないんだけど…..とまあそういう事で、無理やりな解釈なのだが、この頃のオーケンは、テレビタレントや作家としての側面ばかりが一般的なメディアで取り沙汰されるようになった結果、テレビでの共演者などに「もう音楽活動はやめたんですよね」と言われる事が多くなっていたそうだ。
この事をオーケンはエッセイでは面白おかしく書いてくれているが、実際はかなり腹を立てて、プンプンしていたのではないだろうか。だから、オーケンは「いつか俺が音楽活動を辞めたと思い込んでる輩どもを音楽で見返してやらなければ!」と、考えていたに違いない。だから、この曲の歌詞では「死んじゃったと思ってた?」は、「あんたは音楽活動やめちゃったと思ってたんですか?」というオーケンの現実世界での叫びと結び付けられるし、「以外とタフなんだ」は、「俺はテレビや物書きの仕事が増えたくらいで音楽活動をやめるような男ぢゃあないんでそこんとこ夜呂死苦ゥ!」というオーケンの叫びとも取れる。勝手に心境を想像した上に勝手にヤンキー喋りにして大槻ケンヂさん本当にゴメンナサイ。
そして、次に僕が解釈する歌詞は曲の中で何回か繰り返される「でもね、死もね、ペテンだね、生も死もペテンだ 最後の別れと思っても 誰もがまた出会う」だ。
この歌詞の意味は、このアルバムの背景と照らし合わせてみたら、単純な物だ。多分…..。
さっきも言った通り、この曲が収録されたのは1999年の筋肉少女帯活動凍結前の最後のアルバムのラストに収録された曲だ。この時オーケンは5人で活動に限界を感じていたという話もさっき書いたばかりだが、この「ペテン」を歌っている時点で、オーケンは筋肉少女帯から離れる事を決意していたのではないだろうか。(多分)
オーケンはエッセイの中で、「ロックバンドというのはバンド名と中心人物、この三つがあれば成り立つモノだと僕は考えている」と書いていたが、筋肉少女帯の中心人物であるオーケンが離れる覚悟を決意していたということは、現実的にも、オーケンの考え方的にも筋肉少女帯は成り立たないという事であり、(なんだかオーケンにも勿論筋肉少女帯の他のメンバーの皆さんもゴメンナサイ)成り立たないということは活動凍結は逃れられないだろう。それを予測していたオーケンは、「筋小の活動凍結」=「死」と歌詞で書いた。そして、「最後の別れ」というのは筋小メンバーとファンたちの活動凍結による別れを意味するのであろう。
だが、その歌詞の中でオーケンは「死もペテン」「最後の別れと思っても誰もがまた出会う」と言う。
「死もペテン」という一文からは、「筋小の活動凍結も所詮は一時期の物ですよ」というメッセージ、「最後の別れと思っても誰もがまた出会う」からは「ファンの皆さんはこれが最後の別れかと思うかもしれませんが、絶対筋小は復活しますよ。」というメッセージが読み取れるではないか。前向きなメッセージだ。同時に、オーケンの「とりあえず今は辞めちゃうけど、やっぱっり筋小もやりたいな」という当時の心理も読み取れてくるではないか!
つまり、この「ペテン」という曲は、オーケンの筋肉少女帯というバンドでの活動から一時期でも離れられたことへの喜びと、自分をミュージシャンとして見ない人々への叫び、やっぱりいつかは筋小もやりたいという気持ちが詰まった、究極の「私ロックソング」なのではないだろうか?いや、そうとは限らないが、そんな気がする。
あと、大槻さんの当時の状況を勝手に分析しといて「(多分)」で終わらせ、それを僕の勝手な歌詞解釈に繋げるなんて事をして、本当にゴメンナサイ。



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